昨日は色々なことがあったなあと、授業中なのにどうしても思い返してしまう。
世良先輩はきっと誰かに恋をしていること。それはもしかしたら莉子先輩かもしれないこと。その莉子先輩に『邪魔をしないで』と言われてしまったこと。
世良先輩との昼休みはかけがえのない時間で、絶対に守りたいと強く思ったのは確かなのに――あの時頭に浮かんだ“オレだって……”に続く言葉は、今も分からないままだ。
歴史の授業は得意じゃなくて、いつもあくびを噛み殺す4時間目。窓の外を見ながら思い耽っていたら、いつの間にか授業が終わっていた。飯田くんがオレの肩をトントンと叩いて、
「世良先輩来てんぞ」
と声をかけてくれたことで気がついた。
「えっ、先輩!?」
まずい、昼休みが始まってそんなに時間が経ったのだろうか。だってあの体育館横で落ち合うのが、先輩とオレのお決まりで。それほど待たせてしまったのかもしれない。
慌ててリュックを引っ掴んで、転げそうになりながら廊下にいる先輩の元へ向かう。
「先輩ごめんなさい! オレ、昼休みになったと気づかんくて!」
「真白、落ち着け。昼休みならまだ始まったばっかだ」
「へ? そうなんですか? よかったあ。じゃあ、どうして……」
教室内のたった数メートルを急いだだけで、オレは胸を上下させてしまっている。それくらい、先輩との時間を一秒でもロスしたと焦ってしまったからだ。そんなオレの頭をぽんと撫で「落ち着け」と言ってくれた先輩は、なぜかその眉尻をしゅんと下げた。
「…………? 先輩?」
「あー……あのさ」
「はい」
どうしたのだろう。なにかあったのかな。どんなに言いづらいことでも先輩の言葉なら受け止めたいし、伝えるのに躊躇しない相手でいられたらいい。
確かにそう思ったのに。
「昼、一緒に食えない」
聞こえてきた言葉が遠い国の言葉みたいで、すぐには理解できなかった。喉の奥でひゅっと音を立てただけで、声が出てこない。
「約束してんのに、ごめんな?」
「……っ、そんな、謝らんでください!」
それでも先輩がとても悲しそうにごめんなんて言うから、オレは気を取り直すことができた。ショックを受けている場合じゃない。先輩こそが珍しくしょげた顔をしていて、元気づけるのがオレの役目だと思ったからだ。
「ん、さんきゅ。でも今日だけじゃなくて、今週全部でさ」
「ひえ、全部……」
今日はまだ火曜日だ。全部ということは金曜までということで、今日を入れて4日もある。先輩とそんなにも過ごせないだなんて、オレは平気だろうか。きっと、ダメだろうなあ。
そっと見上げると、先輩はきゅっとくちびるを噛みしめていた。自分のことよりも、今は先輩の気持ちを大事にしたくなる。どうしても外せない用事なんかがあるのだろう。先生の手伝いをしなきゃいけないとかかな。ごはんを食べる時間はあるのだろうか。心配になりつつ、リュックから先輩の分のお弁当を取り出す。
「先輩! 一緒に食べられんとは寂しかですけど、よかったら今日のお弁当ももらってください。今日のメインは唐揚げです! あ、もちろんたまご焼きも入っとりますよ」
「唐揚げ? やった、めっちゃ美味そう。真白、ありがとな。俺もお菓子持ってきた。はい、これ」
「わっ、ドーナツだ……どうしよ、もうおいしかです」
「ふ、なんだそれ」
「へへ。先輩のお母さんのお菓子は見た目がかわいいし、いつも絶対においしいってもう知ってるんで」
「そっか」
よかった、先輩が笑ってくれた。自惚れるわけじゃないけれど、先輩はオレのお弁当をおいしいっていつも言ってくれるから、少しは力になれたのかもしれない。
「なあ、それ食ってるとこ、写真撮って送って」
「へ? えっ、オレが食べとるとこですか!? そんなの、恥ずかしすぎます!」
「いいじゃん、頼む。お菓子食ってる真白見んの、俺の毎日の楽しみなんだよ」
「ええー……なんですかそれ……じゃ、じゃあ先輩も送ってくれます?」
「真白が送ってくれるなら」
「オレだって、先輩が送ってくれたらですもん……」
「ふ」
「へへ」
そうだ。今週は一緒に食べられなくても、お弁当は作ってきてもいいかな。そうしたら渡す時に、ほんの数分だって会えるし。意を決して口を開く。けれど、提案することは叶わなかった。先輩を呼ぶ、かわいらしい声が聞こえてきたからだ。
「世良ー、早くー。昼休み減っちゃうよー」
廊下の向こうに見えるのは、莉子先輩だ。ああ、そっか。世良先輩は、莉子先輩とふたりで昼休みを過ごすことを選んだんだ。オレじゃなくて。
そう分かった途端に、オレは顔を俯けた。ひどい顔をしているって、鏡を見なくたって分かったから。ぎゅっと手を握りしめた後、先輩の体を回すようにして背中を押し出す。
「ほら先輩、行ってください」
「っ、真白?」
「莉子先輩が待ってますよ」
「…………」
あーあ、泣いてしまいそうだ。絶対に先輩には気づかれたくない。更に顔を下げて、手に力をこめる。けれど、手の先がふっと軽くなった。先輩がこちらを振り返ったのだと気づくのに、ちょっと時間がかかってしまった。なにかに体をぎゅっと包まれているからだ。なにか、だなんて本当は分かっている。なぜ自分にこんなことが起きているのか、それが理解できないだけだ。
「真白……」
「へ……? せん、ぱい?」
オレは今、世良先輩に抱きしめられている。廊下のど真ん中で。他にも人がいっぱいいるのに。
なんで? なにが起きている? 混乱していたら、今度は頭もぎゅっと抱きしめられた。そのまま後頭部をぽんと撫でられ、顔を上げた時にはもう先輩の背中は遠くにあった。
「先輩……」
呆然とその背中を見送りながら、まだ先輩のぬくもりがある気がして頭に手をやる。
ああもう、こんなの。こんなのってないと思う。だって、気づいてしまった。莉子先輩と話した時に浮かんだ、“オレだって……”の先を、はっきりと分かってしまった。世良先輩といるといつも甘い気持ちがするのも、それでいて苦い想いが走ったのだって。全部ぜんぶ、世良先輩のことが好きだからだ。初恋でもこんなに明確なんだな。男なのに、と戸惑う隙もない。それくらいに、恋ばかりがオレの中を埋めつくしている。
なんで抱きしめたりしたんだろう。男同士なのに。いや、男同士だから軽い気持ちでできるのか。期待なんて、ちっともできるはずがない。
抱きしめたりなんて、しないでほしかったな。ううん、違う。抱きしめたなら、離さないでほしかった。こんな廊下にほっぽいて去る間際に、先輩はオレの心をこじ開けてしまったんだ。
「七原。一緒に飯食わね?」
ぼんやりと突っ立って、どれくらいの時間が経ったんだろう。教室の中から飯田くんが声をかけてくれて、オレはハッと顔を上げた。
「飯田くん……いいの?」
「当たり前。なあ、今日は七原もここで食うってー」
「お、いいじゃん。七原、ほら座れ」
「教室で食うの、何気に初めてじゃね?」
「俺、実は七原と食ってみたかったんだわ」
「みんな……ありがとう」
飯田くんもみんなも、オレと先輩の一部始終を見ていたのだろう。一体何事だと気になるだろうに、聞かないでいてくれている。いつも以上に優しくしてくれて、また涙が滲んできそうになる。
慌ててそれを飲みこんで、弁当を広げる。ケンちゃんと沢っちには、今日は教室でクラスメイトと食べるからビデオ通話はできそうにない、とメッセージを送った。すぐに<クラスに馴染んでてよかった!>との返信がきた。オレもそう思う。こんな日にひとりじゃなくて、本当によかった。
「いただきます」
今日のたまご焼き、今まででいちばん綺麗に焼けたの、先輩は気づいてくれたかな。唐揚げはニンニクで味つけするとおいしいよってお母さんがアドバイスしてくれたけど、学校でのお昼だから匂いが気になるかなって結局使わなかった。さっぱりしすぎたかな、先輩は気に入ってくれたかな。
「…………」
せっかくクラスのみんなと過ごしているのに。お弁当のひとくちひとくち、全部に世良先輩の顔が浮かんでしまう。世良先輩が好き。気づいたばかりの想いで胸がいっぱいで、全部は食べられなかった。ドーナツも入らないかもしれない。そう思ったけど、
『それ食ってるとこ、写真撮って送って』
との先輩の言葉がリフレインする。飯田くんたちもいるのに、そんなのやっぱり恥ずかしい。そもそも、自撮りすることなんてほぼほぼないし。でも、先輩のお願いだと叶えたくなるのだからやっかいだ。それに、莉子先輩といてもオレのことを一瞬でも思い出してくれるかな、なんて。ずるいなあ、オレ、こんな人間だったんだ。恋をするって甘くて苦くて、自分のことを改めて知る機会だったりするのかな。
イヤなヤツ、と自分を罵りつつも、スマホに手が伸びるのだから本当にどうしようもない。インカメラを起動して、ドーナツを手に構えてみる。
「お、なに七原、自撮りすんの?」
「うん、ちょっと撮ろうかなって。えっと、変かな」
「なんでだよ、いいじゃん。俺も写っていい?」
「あ、俺も俺もー!」
「なになにー? 私らも入りたーい!」
「う、うん。じゃあ撮ります」
いつの間にか、飯田くんや他のみんな、それから近くにいた女子ふたりもフレーム内に入ってきた。賑やかな中、ドーナツをかじりながら一緒に撮影する。確認するとみんないい笑顔で、オレだけがちょっと強張った顔をしている。でも、クラスメイトとの写真なんて転校してきて初めて撮れたから嬉しい。これでオーケーにしよう。
「送信、っと」
先輩に写真を送り、改めてドーナツを味わう。こんな日でもやっぱり、すごくおいしい。感想を直接伝えられたらよかったけど、仕方ない。せめてメッセージで、と文章を考えていると、飯田くんが
「誰かに送ったん?」
と大きなおにぎりをかじりながら首を傾げた。飯田くんのお弁当はオレのものの二倍、いや三倍は大きく見える。すごい。
「うん、世良先輩に送ったよ」
「おー、先輩か」
「うん。さっき、先輩が……」
送ってって言ってたから。そう続けるつもりだったんだけど、オレの声は女子の声にかき消されてしまった。
「ちょーっと待った! 七原くん今なんて言った!?」
「やばいやばい、マジで言ってる!?」
「え? えっと、世良先輩に送った、って言いました……」
「マジか、終わった」
「え、え? なんで?」
「世良先輩に送るなら、メイク直してから写ればよかったー!」
「私もー! 絶対盛れていないんだけど! 終わった……」
「ええ、っと……」
もしかして、オレはとんでもないことをしてしまったのだろうか。ふたりはがっくりと項垂れている。オロオロしていると、飯田くんが口元に手を添えて耳打ちをしてきた。
「気にしなくていいからな。あれ相手してたら、何百回も撮り直しになるんだから」
「ちょっと飯田ー、聞こえてるからね!」
「はーい、すいませんでしたー」
飯田くんの努力も虚しく、ふたりにはバッチリ聞こえていたみたいだ。やっぱり悪いことをしたんだなあと思いつつ、写真を見返す。うん、オレはやっぱり好きだけどな。
「でも、すごくいい写真だよ。みんな笑ってて、みんなかわいい。ほら」
そう言ってみんなに画面を向ける。するとなぜか、全員がぴたりと静かになってしまった。今度は失言でもしてしまっただろうか。みんな、画面じゃなくてオレを見ている気がする。
「なんだろ、七原くんがそう言うならいいかなーって思えてきたんだけど」
「俺も同感だわ」
「分かるー。それにうちら、七原くんが言う通りほんとかわいくない?」
「マジじゃん。盛れてたわ。ノーマルカメラなのに? さすがじゃん」
一体なにが起きているんだろう。訳がわからず首を傾げていると、
「七原は素直でいいヤツだから、言ってくれることがすんなり入ってくるって意味だよ」
なんて飯田くんが言う。
「ええ……そんなことはないと思うけど……」
「こればっかりは私も飯田に賛成。てかさ、その写真私も欲しい! 七原くん、ID交換しよ!」
「へ……うん、えっと、オレからもお願いします」
「私も私もー!」
「あ、俺も聞こうと思ってた」
「俺もー」
「俺はもう知ってるー」
「はい飯田のマウントうざーい」
飯田くんが言ってくれた言葉は、オレにはもったいないくらいのものだ。いいヤツだったらきっと、この写真で世良先輩がオレのことを思い出してくれたら、なんてズルいことは考えないはずだから。でも、やっぱりこんな時でも先輩の言葉を思い出す。
『真白はそのままで、そのままがいい』
あれってもしかしたら、こういうことなのかな。そう思える大事な言葉を、大切な人からオレはもらったんだ。
噛みしめながら、みんなと連絡先を交換する。仲が深まったようで画面を眺めていると、メッセージの受信を知らせる通知が届いた。世良先輩からだ。
《クラスのヤツらと仲良くやってんだな。よかったな》
《でも真白の》
《なんでもない。写真ありがと》
開いた先輩とのやりとりの画面に、次々に文章が送られてくる。《でも真白の》の続きはなんと書きたかったんだろう。気になったけど、すぐに画像が送られてきて、そっちにオレは釘づけになった。食べる前のお弁当の写真が1枚と、先輩がピースをしている写真が1枚。くちびるがちょっと尖って見えるのは、気のせいかな。お弁当の写真だって、オレが作ったのだからすでにこの目で見たものなわけで、わざわざ送ってくれたのがちょっと面白い。それにしても、だ。
「先輩だけで、よかった……」
ついそんな言葉を漏らしてしまう。もしもここに莉子先輩も写っていたら、オレはいよいよ泣きじゃくっていたかもしれない。
やっぱりオレは、いいヤツなんかじゃないよ。そっと苦笑しながら、ドーナツをもうひとつ食べる。とびきりのおいしさに、頬が緩む。オレの汚いズルい部分まで、この甘さが塗りつぶしてくれたらいいのにな。
水曜日。今日もお昼一緒に食べていい? と勇気を出して飯田くんたちに声をかけた。当たり前だろ! とバシンと背中を叩かれてちょっと痛かったけど、すごく救われた気持ちになった。結局、今週もお弁当を作ってきていいか、とは先輩に聞けなかった。メッセージひとつ送ればいいだけなのに、それもできないでいる。要らないと言われるのが怖いからだ。そのくせ、もしかしたら渡せるかもと淡い期待を抱いて用意してきてしまった。でも、そんなもしもは起こらない。作りすぎたから食べてほしい、と飯田くんたちに分けたら喜んでくれたから、無駄にはせずに済んだ。
木曜日。さすがにもう先輩の分のお弁当は作らなかった。自分のお弁当は、今まででいちばん適当になった。教室で昼休みを過ごしていたら、世良先輩からメッセージが届いた。
《元気になれる写真ちょうだい》
その文面に、オレは一気に心配になった。先輩、なにか落ちこむようなことがあったのかな。元気になれる写真ってなんだろう。うんうんと頭を悩ませつつもひらめいて、ホイップの写真を撮って送信した。
《そう来たか》
《ホイップはオレのお守りなので》
《そうだったな》
《なにかありましたか?》
そう聞いたら、既読のマークは一瞬で付いたのに返信が止まってしまった。けれど数分後、ひと言だけのメッセージが返ってくる。
《寂しいなって思っただけ》
寂しい。共鳴する心が確かにあるけど、もしかして同じ理由だったりするだろうか。自惚れたことを考えて、まさかなって打ち消して。だけどちゃんと心から言える言葉がある。
《オレも寂しいです》
その後、そっとほほ笑んだスタンプが返ってきた。なんと、ホイップのものだ。先輩はそもそもホイップを知らないみたいだったから、わざわざ買ってくれたのかな。胸にじんわりとあたたかいものが広がる。離れていたって、先輩はオレの心を強く動かしてしまうみたいだ。
オレからも同じスタンプを返して、アプリを閉じる。吐いたため息は、先輩への想いで丸く重たいかたちに見えた気がした。
金曜日。今日の昼休みは、いつもの体育館のところで過ごすことにした。飯田くんたちには、「今日は先輩と食べられそうだから」と嘘をついてきてしまった。そうしてでも、先輩との思い出がいっぱいのここに来たくなった。
<じゃあ火曜からずっと、先輩とお昼食べとらんとか>
「……そう」
<それで真白はそやんも落ちこんどるってことね>
「……そーう」
箸を持つのすらなんだか億劫で、お弁当箱の底にカツンと当たる音が響く。
そう、オレは目も当てられないほどに落ちこんでいる。世良先輩と一緒にいられない日が続いただけで、このザマだ。たった4日、されど4日。先輩と出逢う前は、いったいどうやって生きていたんだっけ。
<先輩に言ってみたらよかったとに>
「なんて?」
<いやだー! オレは先輩と食べたかですー! って>
「言えるわけなか……金曜まで食べられんってはっきり言われたとに」
それにそんなことをしたら、それこそ邪魔になってしまう。莉子先輩に『邪魔をしないで』と言われた時は正直ムッとしたけれど、それだけ必死なんだ。皮肉にも、世良先輩への気持ちを自覚したことで莉子先輩の心情を理解できるようになった。
<そもそも、なんで食べられんて?>
「う……それは……ハッキリ言われたわけじゃなかけど、女の先輩と食べよると思う」
<えっ、マジ!? 彼女か!>
「っ、それは分からん! 分からんけど……」
その女の先輩は、世良先輩のことが好きだよ。言いかけて、やめた。ケンちゃんと沢っちは莉子先輩と面識がないのだとしても、オレが勝手に言っていいことじゃない気がしたからだ。
それにしたって、彼女というワードがずっしりと伸しかかってくる。時間の問題なのかもしれない。莉子先輩は世良先輩が好きで、莉子先輩曰く世良先輩がいちばん仲がいい女子も莉子先輩。それになにより、世良先輩もきっと誰かに恋をしている。十中八九、莉子先輩だろう。オレの恋心が入る隙間なんて、もう1ミリも残ってない。いや、最初からなかったんだ。
鬱々と落ちこんでいると、画面の向こうからチャイムが聴こえてきた。ケンちゃんと沢っちとの、お別れの合図だ。じゃあまたねと手を振りあう。まだおかずがちょっと残ってるけど、お弁当箱に蓋をした。ここ4日、食欲はどこかへ逃げて返ってこないままだ。
「もうずっと、一緒に食べられんかったりして」
真白ごめん、莉子と付き合うことになったから。昼休みの約束は、もう終わりな。
頭の中で、世良先輩が申し訳なさそうに笑ってそう言う。隣には、嬉しそうな顔がとびきりかわいい莉子先輩。悔しいけれど、お似合いだ。実際に並んだら、きっともっと。お似合いカップルだと学校中が祝福するに違いない。
あまりにリアルに想像できて、慌ててホイップを手に取った。ホイップを包みこんだ両手に、額を預ける。泣かない、泣きたくない。ああでも、堪えきれないかも。鼻の奥がツンと痛んで、大きく息を吸ってくちびるを噛む。
どれくらいそうしていただろう。大きな音に体がびくんと跳ねた。昼休みの終わりを報せる、チャイムの音だ。
「やばい、はよ片づけんと」
次の授業は体育だ。教室に戻って着替えなきゃいけない。お弁当をリュックに仕舞い、ホイップは定位置のポケットに。忘れ物がないのを確認して、小走りで校舎に入った時だった。メッセージの着信がスマホを震わせる。
「誰やろ? ……っ、先輩だ」
よくないと思いつつも、歩きながら確認するつもりだった。けれど表示された世良先輩の名前に、オレはつい立ち止まる。
《放課後なんか用事ある?》
《会いたい》
「先輩……」
会いたい。たったその四文字に、胸がきゅうっと鳴きはじめる。オレもですと返したいのに、指先まで心臓になったみたいに震えてしまう。そうこうしている間に、もうひとつメッセージが届いた。
《用事あるなら待ってる》
「うう……」
先輩のどこか必死にも思える様子に、もはやうめき声しか出なくなってしまった。とにかく返事を。そう意気ごんだら、
「七原? 5時間目もうすぐ始まんぞー」
との声が聞こえてきた。飯田くんだ。
「へ……あっ! やばい!」
着替えなきゃいけないって、ついさっきまで分かっていたのに。すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。慌てて教室へと走る。先輩への返信は、次の休み時間に持ち越すしかなさそうだ。
「体育が2時間続けてなの、忘れとった……」
5時間目と6時間目、ぶっ通しでのサッカーはさすがに疲れた。もちろん試合は交代制だったし、休み時間は丸々休憩できたけど。なにより、世良先輩にメッセージを送ることができなかったのがまずい。体育の時間は、スマホは教室に置いておかなきゃいけないから。これじゃあオレは、先輩からのメッセージを既読無視する最低な後輩だ。
急いで教室に戻って、過去最短記録で着替えを済ませる。でもスマホに触れるよりも、担任の先生が教室にやってくるほうが早かった。そのまま帰りのホームルームが始まってしまった。まだジャージのままのクラスメイトもそこそこいて、オレもそうすればよかったと悔やむ。着替える時間で先輩に返信できたのに。
保護者にサインをもらう来月の遠足の承諾書、その他のプリントが配られたりして、今日はこれで終わりと先生が言う頃には10分が経っていた。日直の号令でさようならをして、頭を上げる瞬間にすばやくスマホを手に取った。先輩からのメッセージはあれ以降ない。申し訳なく思いながら、オレも会いたいですと打ちこんでいると、突然誰かに右手を掴まれた。何事かと顔を上げると、そこにいたのは世良先輩だった。
「っ、先輩!」
「真白……よかった、会えた」
よほど急いできたのか、先輩は荒い呼吸に胸を上下させている。10月の風はもう涼しいのに、額には薄らと汗まで浮かんでいる。
「先輩……あの」
「持って帰るものは? リュックだけ? なんか入れる?」
「え? えっと、筆箱だけ持って帰ります」
「筆箱はこれか。じゃあ行こ」
「へ……先輩!?」
返事をしていないままなことを謝ろうとしたけれど、有無を言わせない様子で先輩がオレのリュックを手に取った。そしてもう片手に、手を握られてしまった。思わず指先が跳ねたら、先輩の手にぎゅっと力がこもる。胸が苦しくて、それでいてどうしようもなく嬉しくて。なんで手を? なんて尋ねる気にはなれないまま、先輩の後ろをついて歩く。
「先輩? どこに行くとですか?」
もう放課後だから、帰るのかなと勝手に考えていたけれど。先輩は階段を上がりはじめる。この先はなにがあるんだっけ。オレにとっては、まだ一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
「誰もいないところ」
肩越しにこちらを振り返った先輩が、口元に人差し指をあててそう言う。ああ、先輩のこの仕草、すごく好きなんだよな。オレだけのものならいいのになんて、勝手なことを考えてそっとくちびるに歯を立てる。
「ここは……屋上ですか?」
「ああ。鍵かかってるけどな」
「へえ。よく来るんですか?」
「ひとりになりたい時に、たまに。真白、ここ座って」
先輩が足を止めたのは、屋上の扉前だった。階段を上がりきったところに、並んで腰を下ろす。先輩は両膝に肘をつき、指を組んでそこに額を預けた。手が離れてしまったのが、正直寂しい。けれどそれよりも、先輩の様子が気になる。
「先輩? あの、どうかしましたか?」
「ん? んー……真白、ごめんな」
「へ……なにがですか?」
「昼休みは一緒にって約束、今週は守れなかったから。怒ってるよな。てか、俺のこと嫌になった?」
「嫌になる? 先輩のことを? そんなわけなかです!」
「でも、返事なかったじゃん」
「っ、それは違うんです! 5、6時間目が体育で、着替えとかで送れんくて!」
「……マジ?」
「大マジです!」
返事ができなかったことを、オレも気にしていたけれど。まさか、先輩がそんなに気に病んでいたとは考えてもみなかった。よく見ると、眉がしゅんと下がっている。オレのせいだ。
「先輩、オレのほうこそごめんなさい。遅刻してでもすぐに返事すればよかった……」
後悔がオレを襲う。でも先輩が、オレの頭をぽんと撫でてくれた。
「いや、真白はなんも悪くねえよ。嫌われてなくて、すげー安心した。てか……はは、カッコ悪いよな。必死に走ってきて、嫌になってねえ? って聞くとか。真白が相手だと、俺ってこうなるんだな。山辺と吉野にも笑われた。そんな弱気なお前初めてだー、って」
「先輩……」
「真白、ちょっと肩貸して」
「へ……」
肩を貸すって、一体どうやって? 不思議に思ったのも束の間、先輩の体がゆっくり近づいてきて、オレの肩に先輩のおでこが乗せられてしまった。ゆらゆらと頭を揺らして、「あー……真白だ」なんて唸っている。
「せ、先輩? あの……」
一体、なにが起きているんだ? 思わず、先輩のブレザーの裾をきゅっと握る。この間の唐突なハグといい、さっき手を握られたのといい。先輩との接触にオレの心臓は今にも爆発してしまいそうだ。体中が甘くしびれて、呼吸もままならなくなる。
「真白と昼食えなくて、マジでどうにかなりそうだった。たった4日がすげー長かった」
「先輩……オレも、オレもです。先輩と会えんくて、寂しかったです」
先輩も寂しいって思ってくれていたんだ。悲しい思いは少しもしてほしくないけど、嬉しく感じてしまう。莉子先輩と付き合うかもと襲われた不安も、今だけは解けるような心地がする。
「ほんとに?」
「ほんとです」
「でも……クラスのヤツらと楽しそうだったじゃん。写真」
「写真……?」
ああ、ドーナツをもらった日のことか。この瞬間に夢中で、すぐに思い至らなかった。どうして先輩はちょっと、不服そうなんだろう。気になったけど、あまりに間近で見つめられていることに気づいて戸惑う。
「へ……先輩!? あ、あのっ! 近すぎます!」
肩に額を乗せたままで、先輩がこちらを見ている。思わず両手で顔を覆うと、手に先輩の吐息まで当たってしまう。
「嫌?」
「嫌ではない! です、絶対に! でもあの、恥ずかしかですよお……」
「へえ。恥ずかしがってくれんだ?」
「当たり前です……」
「そっか。はは、満足した」
満足したってどういう意味だろう。ドギマギしている間に、先輩はゆっくりと頭をもたげた。あんなに恥ずかしかったのに、離れてしまうと寂しいのだからオレって厄介だ。
「なあ真白、あさっての日曜なんだけどさ。……暇?」
先輩の横顔を盗み見して、こちらを向きそうになったら慌てて反らして。それを2回くり返した頃に、先輩が窺うように聞いてきた。
「日曜ですか? はい、なんも予定はなかですけど……」
「よかった。じゃあ日曜、どこかで待ち合わせして遊ばねえ?」
「っ、いいんですか? 遊びたいです!」
「よし、決まりな」
休日に先輩と会える? まさかそんな嬉しい提案をしてもらえるだなんて、夢にも思わなかった。でもふと、引っかかりを覚える。そうだ、日曜の話をつい最近聞いたばかりだ。
「先輩。えっと、日曜はなんかあるんじゃなかったとですか? チューリップ植えてる時、山辺先輩と吉野先輩と、そんな話してませんでしたっけ」
「あー、うん。それなら気にしないでいい。俺が日曜は真白といたいんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。そのためにこの4日辛抱したんだしな」
「…………? そうなんですね」
そのためとはどういうことだろう。気になったけれど、首を傾げても先輩はただほほ笑むだけだ。話すつもりはないのかもしれない、それならばと別のことを思い切って尋ねてみる。
「ちなみに、日曜はなにか特別な日なんですか?」
先輩たちにとって、よほど大切なイベントがあるのだろうと思っていた。莉子先輩の名前が出ていたから、邪魔になってはとあの時はチューリップの作業を進めることしかできなかった。
「特別っていうか。日曜は俺の……」
「…………? 先輩の?」
先輩の、なんだろう。気になって、言葉の先をじっと待つ。けれど先輩は、どこかいたずらに口角を上げてみせた。
「いや、やっぱ内緒」
「ええ! なんでですかあ」
「言ったら真白が気にしそうだから」
「そんなあ……内緒にされて、今絶賛気にしとりますけど……」
「はは、だよな。当日にはちゃんと言うから」
「んー……約束ですよ?」
「ああ、絶対」
先輩はそう言って、小指を差し出してくれた。ああ、また先輩に触れることになる。先輩にはどうってことないことでも、小指だけだとしたって恋をするオレには大事件なのに。悟られないようにと願いつつ、そっと小指を絡ませる。
「真白に会えるの、楽しみにしてる」
「オレもです。へへ、先輩と遊べるとか、夢みたいです」
「大げさじゃね?」
「全然。オレ、先輩と一緒にいるの、その……好き、なんで」
「……ん、そっか」
わざと意味をちょっと反らして、好きという言葉を声に乗せる。それだけで、ものすごい勇気が必要だった。絡んだ小指までドキドキと脈打っているみたいで、こっそり息を飲みこむ。
「えっと、どこに行きます? オレ、全然この辺のこと分からんくて」
「それなら、色々考えてあるから任せろ」
「そうなんですか!? 先輩かっこいい」
「はは、それこそ大げさ」
それからオレたちは、今週の昼休みを取り返すみたいにたくさん話をした。屋上へ続く窓から射す光が、いつの間にかオレンジになるくらいに。
この時間がずっと続けばいいのに、なんて思う。でも今は、日曜がすごく楽しみだ。私服の先輩も、とびきりかっこいいんだろうな。
今この瞬間と、日曜というちょっと先の未来がオレの中で入り混じる。心の中のあっちもこっちも先輩ばかりで、甘い感覚がオレを満たした。
世良先輩はきっと誰かに恋をしていること。それはもしかしたら莉子先輩かもしれないこと。その莉子先輩に『邪魔をしないで』と言われてしまったこと。
世良先輩との昼休みはかけがえのない時間で、絶対に守りたいと強く思ったのは確かなのに――あの時頭に浮かんだ“オレだって……”に続く言葉は、今も分からないままだ。
歴史の授業は得意じゃなくて、いつもあくびを噛み殺す4時間目。窓の外を見ながら思い耽っていたら、いつの間にか授業が終わっていた。飯田くんがオレの肩をトントンと叩いて、
「世良先輩来てんぞ」
と声をかけてくれたことで気がついた。
「えっ、先輩!?」
まずい、昼休みが始まってそんなに時間が経ったのだろうか。だってあの体育館横で落ち合うのが、先輩とオレのお決まりで。それほど待たせてしまったのかもしれない。
慌ててリュックを引っ掴んで、転げそうになりながら廊下にいる先輩の元へ向かう。
「先輩ごめんなさい! オレ、昼休みになったと気づかんくて!」
「真白、落ち着け。昼休みならまだ始まったばっかだ」
「へ? そうなんですか? よかったあ。じゃあ、どうして……」
教室内のたった数メートルを急いだだけで、オレは胸を上下させてしまっている。それくらい、先輩との時間を一秒でもロスしたと焦ってしまったからだ。そんなオレの頭をぽんと撫で「落ち着け」と言ってくれた先輩は、なぜかその眉尻をしゅんと下げた。
「…………? 先輩?」
「あー……あのさ」
「はい」
どうしたのだろう。なにかあったのかな。どんなに言いづらいことでも先輩の言葉なら受け止めたいし、伝えるのに躊躇しない相手でいられたらいい。
確かにそう思ったのに。
「昼、一緒に食えない」
聞こえてきた言葉が遠い国の言葉みたいで、すぐには理解できなかった。喉の奥でひゅっと音を立てただけで、声が出てこない。
「約束してんのに、ごめんな?」
「……っ、そんな、謝らんでください!」
それでも先輩がとても悲しそうにごめんなんて言うから、オレは気を取り直すことができた。ショックを受けている場合じゃない。先輩こそが珍しくしょげた顔をしていて、元気づけるのがオレの役目だと思ったからだ。
「ん、さんきゅ。でも今日だけじゃなくて、今週全部でさ」
「ひえ、全部……」
今日はまだ火曜日だ。全部ということは金曜までということで、今日を入れて4日もある。先輩とそんなにも過ごせないだなんて、オレは平気だろうか。きっと、ダメだろうなあ。
そっと見上げると、先輩はきゅっとくちびるを噛みしめていた。自分のことよりも、今は先輩の気持ちを大事にしたくなる。どうしても外せない用事なんかがあるのだろう。先生の手伝いをしなきゃいけないとかかな。ごはんを食べる時間はあるのだろうか。心配になりつつ、リュックから先輩の分のお弁当を取り出す。
「先輩! 一緒に食べられんとは寂しかですけど、よかったら今日のお弁当ももらってください。今日のメインは唐揚げです! あ、もちろんたまご焼きも入っとりますよ」
「唐揚げ? やった、めっちゃ美味そう。真白、ありがとな。俺もお菓子持ってきた。はい、これ」
「わっ、ドーナツだ……どうしよ、もうおいしかです」
「ふ、なんだそれ」
「へへ。先輩のお母さんのお菓子は見た目がかわいいし、いつも絶対においしいってもう知ってるんで」
「そっか」
よかった、先輩が笑ってくれた。自惚れるわけじゃないけれど、先輩はオレのお弁当をおいしいっていつも言ってくれるから、少しは力になれたのかもしれない。
「なあ、それ食ってるとこ、写真撮って送って」
「へ? えっ、オレが食べとるとこですか!? そんなの、恥ずかしすぎます!」
「いいじゃん、頼む。お菓子食ってる真白見んの、俺の毎日の楽しみなんだよ」
「ええー……なんですかそれ……じゃ、じゃあ先輩も送ってくれます?」
「真白が送ってくれるなら」
「オレだって、先輩が送ってくれたらですもん……」
「ふ」
「へへ」
そうだ。今週は一緒に食べられなくても、お弁当は作ってきてもいいかな。そうしたら渡す時に、ほんの数分だって会えるし。意を決して口を開く。けれど、提案することは叶わなかった。先輩を呼ぶ、かわいらしい声が聞こえてきたからだ。
「世良ー、早くー。昼休み減っちゃうよー」
廊下の向こうに見えるのは、莉子先輩だ。ああ、そっか。世良先輩は、莉子先輩とふたりで昼休みを過ごすことを選んだんだ。オレじゃなくて。
そう分かった途端に、オレは顔を俯けた。ひどい顔をしているって、鏡を見なくたって分かったから。ぎゅっと手を握りしめた後、先輩の体を回すようにして背中を押し出す。
「ほら先輩、行ってください」
「っ、真白?」
「莉子先輩が待ってますよ」
「…………」
あーあ、泣いてしまいそうだ。絶対に先輩には気づかれたくない。更に顔を下げて、手に力をこめる。けれど、手の先がふっと軽くなった。先輩がこちらを振り返ったのだと気づくのに、ちょっと時間がかかってしまった。なにかに体をぎゅっと包まれているからだ。なにか、だなんて本当は分かっている。なぜ自分にこんなことが起きているのか、それが理解できないだけだ。
「真白……」
「へ……? せん、ぱい?」
オレは今、世良先輩に抱きしめられている。廊下のど真ん中で。他にも人がいっぱいいるのに。
なんで? なにが起きている? 混乱していたら、今度は頭もぎゅっと抱きしめられた。そのまま後頭部をぽんと撫でられ、顔を上げた時にはもう先輩の背中は遠くにあった。
「先輩……」
呆然とその背中を見送りながら、まだ先輩のぬくもりがある気がして頭に手をやる。
ああもう、こんなの。こんなのってないと思う。だって、気づいてしまった。莉子先輩と話した時に浮かんだ、“オレだって……”の先を、はっきりと分かってしまった。世良先輩といるといつも甘い気持ちがするのも、それでいて苦い想いが走ったのだって。全部ぜんぶ、世良先輩のことが好きだからだ。初恋でもこんなに明確なんだな。男なのに、と戸惑う隙もない。それくらいに、恋ばかりがオレの中を埋めつくしている。
なんで抱きしめたりしたんだろう。男同士なのに。いや、男同士だから軽い気持ちでできるのか。期待なんて、ちっともできるはずがない。
抱きしめたりなんて、しないでほしかったな。ううん、違う。抱きしめたなら、離さないでほしかった。こんな廊下にほっぽいて去る間際に、先輩はオレの心をこじ開けてしまったんだ。
「七原。一緒に飯食わね?」
ぼんやりと突っ立って、どれくらいの時間が経ったんだろう。教室の中から飯田くんが声をかけてくれて、オレはハッと顔を上げた。
「飯田くん……いいの?」
「当たり前。なあ、今日は七原もここで食うってー」
「お、いいじゃん。七原、ほら座れ」
「教室で食うの、何気に初めてじゃね?」
「俺、実は七原と食ってみたかったんだわ」
「みんな……ありがとう」
飯田くんもみんなも、オレと先輩の一部始終を見ていたのだろう。一体何事だと気になるだろうに、聞かないでいてくれている。いつも以上に優しくしてくれて、また涙が滲んできそうになる。
慌ててそれを飲みこんで、弁当を広げる。ケンちゃんと沢っちには、今日は教室でクラスメイトと食べるからビデオ通話はできそうにない、とメッセージを送った。すぐに<クラスに馴染んでてよかった!>との返信がきた。オレもそう思う。こんな日にひとりじゃなくて、本当によかった。
「いただきます」
今日のたまご焼き、今まででいちばん綺麗に焼けたの、先輩は気づいてくれたかな。唐揚げはニンニクで味つけするとおいしいよってお母さんがアドバイスしてくれたけど、学校でのお昼だから匂いが気になるかなって結局使わなかった。さっぱりしすぎたかな、先輩は気に入ってくれたかな。
「…………」
せっかくクラスのみんなと過ごしているのに。お弁当のひとくちひとくち、全部に世良先輩の顔が浮かんでしまう。世良先輩が好き。気づいたばかりの想いで胸がいっぱいで、全部は食べられなかった。ドーナツも入らないかもしれない。そう思ったけど、
『それ食ってるとこ、写真撮って送って』
との先輩の言葉がリフレインする。飯田くんたちもいるのに、そんなのやっぱり恥ずかしい。そもそも、自撮りすることなんてほぼほぼないし。でも、先輩のお願いだと叶えたくなるのだからやっかいだ。それに、莉子先輩といてもオレのことを一瞬でも思い出してくれるかな、なんて。ずるいなあ、オレ、こんな人間だったんだ。恋をするって甘くて苦くて、自分のことを改めて知る機会だったりするのかな。
イヤなヤツ、と自分を罵りつつも、スマホに手が伸びるのだから本当にどうしようもない。インカメラを起動して、ドーナツを手に構えてみる。
「お、なに七原、自撮りすんの?」
「うん、ちょっと撮ろうかなって。えっと、変かな」
「なんでだよ、いいじゃん。俺も写っていい?」
「あ、俺も俺もー!」
「なになにー? 私らも入りたーい!」
「う、うん。じゃあ撮ります」
いつの間にか、飯田くんや他のみんな、それから近くにいた女子ふたりもフレーム内に入ってきた。賑やかな中、ドーナツをかじりながら一緒に撮影する。確認するとみんないい笑顔で、オレだけがちょっと強張った顔をしている。でも、クラスメイトとの写真なんて転校してきて初めて撮れたから嬉しい。これでオーケーにしよう。
「送信、っと」
先輩に写真を送り、改めてドーナツを味わう。こんな日でもやっぱり、すごくおいしい。感想を直接伝えられたらよかったけど、仕方ない。せめてメッセージで、と文章を考えていると、飯田くんが
「誰かに送ったん?」
と大きなおにぎりをかじりながら首を傾げた。飯田くんのお弁当はオレのものの二倍、いや三倍は大きく見える。すごい。
「うん、世良先輩に送ったよ」
「おー、先輩か」
「うん。さっき、先輩が……」
送ってって言ってたから。そう続けるつもりだったんだけど、オレの声は女子の声にかき消されてしまった。
「ちょーっと待った! 七原くん今なんて言った!?」
「やばいやばい、マジで言ってる!?」
「え? えっと、世良先輩に送った、って言いました……」
「マジか、終わった」
「え、え? なんで?」
「世良先輩に送るなら、メイク直してから写ればよかったー!」
「私もー! 絶対盛れていないんだけど! 終わった……」
「ええ、っと……」
もしかして、オレはとんでもないことをしてしまったのだろうか。ふたりはがっくりと項垂れている。オロオロしていると、飯田くんが口元に手を添えて耳打ちをしてきた。
「気にしなくていいからな。あれ相手してたら、何百回も撮り直しになるんだから」
「ちょっと飯田ー、聞こえてるからね!」
「はーい、すいませんでしたー」
飯田くんの努力も虚しく、ふたりにはバッチリ聞こえていたみたいだ。やっぱり悪いことをしたんだなあと思いつつ、写真を見返す。うん、オレはやっぱり好きだけどな。
「でも、すごくいい写真だよ。みんな笑ってて、みんなかわいい。ほら」
そう言ってみんなに画面を向ける。するとなぜか、全員がぴたりと静かになってしまった。今度は失言でもしてしまっただろうか。みんな、画面じゃなくてオレを見ている気がする。
「なんだろ、七原くんがそう言うならいいかなーって思えてきたんだけど」
「俺も同感だわ」
「分かるー。それにうちら、七原くんが言う通りほんとかわいくない?」
「マジじゃん。盛れてたわ。ノーマルカメラなのに? さすがじゃん」
一体なにが起きているんだろう。訳がわからず首を傾げていると、
「七原は素直でいいヤツだから、言ってくれることがすんなり入ってくるって意味だよ」
なんて飯田くんが言う。
「ええ……そんなことはないと思うけど……」
「こればっかりは私も飯田に賛成。てかさ、その写真私も欲しい! 七原くん、ID交換しよ!」
「へ……うん、えっと、オレからもお願いします」
「私も私もー!」
「あ、俺も聞こうと思ってた」
「俺もー」
「俺はもう知ってるー」
「はい飯田のマウントうざーい」
飯田くんが言ってくれた言葉は、オレにはもったいないくらいのものだ。いいヤツだったらきっと、この写真で世良先輩がオレのことを思い出してくれたら、なんてズルいことは考えないはずだから。でも、やっぱりこんな時でも先輩の言葉を思い出す。
『真白はそのままで、そのままがいい』
あれってもしかしたら、こういうことなのかな。そう思える大事な言葉を、大切な人からオレはもらったんだ。
噛みしめながら、みんなと連絡先を交換する。仲が深まったようで画面を眺めていると、メッセージの受信を知らせる通知が届いた。世良先輩からだ。
《クラスのヤツらと仲良くやってんだな。よかったな》
《でも真白の》
《なんでもない。写真ありがと》
開いた先輩とのやりとりの画面に、次々に文章が送られてくる。《でも真白の》の続きはなんと書きたかったんだろう。気になったけど、すぐに画像が送られてきて、そっちにオレは釘づけになった。食べる前のお弁当の写真が1枚と、先輩がピースをしている写真が1枚。くちびるがちょっと尖って見えるのは、気のせいかな。お弁当の写真だって、オレが作ったのだからすでにこの目で見たものなわけで、わざわざ送ってくれたのがちょっと面白い。それにしても、だ。
「先輩だけで、よかった……」
ついそんな言葉を漏らしてしまう。もしもここに莉子先輩も写っていたら、オレはいよいよ泣きじゃくっていたかもしれない。
やっぱりオレは、いいヤツなんかじゃないよ。そっと苦笑しながら、ドーナツをもうひとつ食べる。とびきりのおいしさに、頬が緩む。オレの汚いズルい部分まで、この甘さが塗りつぶしてくれたらいいのにな。
水曜日。今日もお昼一緒に食べていい? と勇気を出して飯田くんたちに声をかけた。当たり前だろ! とバシンと背中を叩かれてちょっと痛かったけど、すごく救われた気持ちになった。結局、今週もお弁当を作ってきていいか、とは先輩に聞けなかった。メッセージひとつ送ればいいだけなのに、それもできないでいる。要らないと言われるのが怖いからだ。そのくせ、もしかしたら渡せるかもと淡い期待を抱いて用意してきてしまった。でも、そんなもしもは起こらない。作りすぎたから食べてほしい、と飯田くんたちに分けたら喜んでくれたから、無駄にはせずに済んだ。
木曜日。さすがにもう先輩の分のお弁当は作らなかった。自分のお弁当は、今まででいちばん適当になった。教室で昼休みを過ごしていたら、世良先輩からメッセージが届いた。
《元気になれる写真ちょうだい》
その文面に、オレは一気に心配になった。先輩、なにか落ちこむようなことがあったのかな。元気になれる写真ってなんだろう。うんうんと頭を悩ませつつもひらめいて、ホイップの写真を撮って送信した。
《そう来たか》
《ホイップはオレのお守りなので》
《そうだったな》
《なにかありましたか?》
そう聞いたら、既読のマークは一瞬で付いたのに返信が止まってしまった。けれど数分後、ひと言だけのメッセージが返ってくる。
《寂しいなって思っただけ》
寂しい。共鳴する心が確かにあるけど、もしかして同じ理由だったりするだろうか。自惚れたことを考えて、まさかなって打ち消して。だけどちゃんと心から言える言葉がある。
《オレも寂しいです》
その後、そっとほほ笑んだスタンプが返ってきた。なんと、ホイップのものだ。先輩はそもそもホイップを知らないみたいだったから、わざわざ買ってくれたのかな。胸にじんわりとあたたかいものが広がる。離れていたって、先輩はオレの心を強く動かしてしまうみたいだ。
オレからも同じスタンプを返して、アプリを閉じる。吐いたため息は、先輩への想いで丸く重たいかたちに見えた気がした。
金曜日。今日の昼休みは、いつもの体育館のところで過ごすことにした。飯田くんたちには、「今日は先輩と食べられそうだから」と嘘をついてきてしまった。そうしてでも、先輩との思い出がいっぱいのここに来たくなった。
<じゃあ火曜からずっと、先輩とお昼食べとらんとか>
「……そう」
<それで真白はそやんも落ちこんどるってことね>
「……そーう」
箸を持つのすらなんだか億劫で、お弁当箱の底にカツンと当たる音が響く。
そう、オレは目も当てられないほどに落ちこんでいる。世良先輩と一緒にいられない日が続いただけで、このザマだ。たった4日、されど4日。先輩と出逢う前は、いったいどうやって生きていたんだっけ。
<先輩に言ってみたらよかったとに>
「なんて?」
<いやだー! オレは先輩と食べたかですー! って>
「言えるわけなか……金曜まで食べられんってはっきり言われたとに」
それにそんなことをしたら、それこそ邪魔になってしまう。莉子先輩に『邪魔をしないで』と言われた時は正直ムッとしたけれど、それだけ必死なんだ。皮肉にも、世良先輩への気持ちを自覚したことで莉子先輩の心情を理解できるようになった。
<そもそも、なんで食べられんて?>
「う……それは……ハッキリ言われたわけじゃなかけど、女の先輩と食べよると思う」
<えっ、マジ!? 彼女か!>
「っ、それは分からん! 分からんけど……」
その女の先輩は、世良先輩のことが好きだよ。言いかけて、やめた。ケンちゃんと沢っちは莉子先輩と面識がないのだとしても、オレが勝手に言っていいことじゃない気がしたからだ。
それにしたって、彼女というワードがずっしりと伸しかかってくる。時間の問題なのかもしれない。莉子先輩は世良先輩が好きで、莉子先輩曰く世良先輩がいちばん仲がいい女子も莉子先輩。それになにより、世良先輩もきっと誰かに恋をしている。十中八九、莉子先輩だろう。オレの恋心が入る隙間なんて、もう1ミリも残ってない。いや、最初からなかったんだ。
鬱々と落ちこんでいると、画面の向こうからチャイムが聴こえてきた。ケンちゃんと沢っちとの、お別れの合図だ。じゃあまたねと手を振りあう。まだおかずがちょっと残ってるけど、お弁当箱に蓋をした。ここ4日、食欲はどこかへ逃げて返ってこないままだ。
「もうずっと、一緒に食べられんかったりして」
真白ごめん、莉子と付き合うことになったから。昼休みの約束は、もう終わりな。
頭の中で、世良先輩が申し訳なさそうに笑ってそう言う。隣には、嬉しそうな顔がとびきりかわいい莉子先輩。悔しいけれど、お似合いだ。実際に並んだら、きっともっと。お似合いカップルだと学校中が祝福するに違いない。
あまりにリアルに想像できて、慌ててホイップを手に取った。ホイップを包みこんだ両手に、額を預ける。泣かない、泣きたくない。ああでも、堪えきれないかも。鼻の奥がツンと痛んで、大きく息を吸ってくちびるを噛む。
どれくらいそうしていただろう。大きな音に体がびくんと跳ねた。昼休みの終わりを報せる、チャイムの音だ。
「やばい、はよ片づけんと」
次の授業は体育だ。教室に戻って着替えなきゃいけない。お弁当をリュックに仕舞い、ホイップは定位置のポケットに。忘れ物がないのを確認して、小走りで校舎に入った時だった。メッセージの着信がスマホを震わせる。
「誰やろ? ……っ、先輩だ」
よくないと思いつつも、歩きながら確認するつもりだった。けれど表示された世良先輩の名前に、オレはつい立ち止まる。
《放課後なんか用事ある?》
《会いたい》
「先輩……」
会いたい。たったその四文字に、胸がきゅうっと鳴きはじめる。オレもですと返したいのに、指先まで心臓になったみたいに震えてしまう。そうこうしている間に、もうひとつメッセージが届いた。
《用事あるなら待ってる》
「うう……」
先輩のどこか必死にも思える様子に、もはやうめき声しか出なくなってしまった。とにかく返事を。そう意気ごんだら、
「七原? 5時間目もうすぐ始まんぞー」
との声が聞こえてきた。飯田くんだ。
「へ……あっ! やばい!」
着替えなきゃいけないって、ついさっきまで分かっていたのに。すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。慌てて教室へと走る。先輩への返信は、次の休み時間に持ち越すしかなさそうだ。
「体育が2時間続けてなの、忘れとった……」
5時間目と6時間目、ぶっ通しでのサッカーはさすがに疲れた。もちろん試合は交代制だったし、休み時間は丸々休憩できたけど。なにより、世良先輩にメッセージを送ることができなかったのがまずい。体育の時間は、スマホは教室に置いておかなきゃいけないから。これじゃあオレは、先輩からのメッセージを既読無視する最低な後輩だ。
急いで教室に戻って、過去最短記録で着替えを済ませる。でもスマホに触れるよりも、担任の先生が教室にやってくるほうが早かった。そのまま帰りのホームルームが始まってしまった。まだジャージのままのクラスメイトもそこそこいて、オレもそうすればよかったと悔やむ。着替える時間で先輩に返信できたのに。
保護者にサインをもらう来月の遠足の承諾書、その他のプリントが配られたりして、今日はこれで終わりと先生が言う頃には10分が経っていた。日直の号令でさようならをして、頭を上げる瞬間にすばやくスマホを手に取った。先輩からのメッセージはあれ以降ない。申し訳なく思いながら、オレも会いたいですと打ちこんでいると、突然誰かに右手を掴まれた。何事かと顔を上げると、そこにいたのは世良先輩だった。
「っ、先輩!」
「真白……よかった、会えた」
よほど急いできたのか、先輩は荒い呼吸に胸を上下させている。10月の風はもう涼しいのに、額には薄らと汗まで浮かんでいる。
「先輩……あの」
「持って帰るものは? リュックだけ? なんか入れる?」
「え? えっと、筆箱だけ持って帰ります」
「筆箱はこれか。じゃあ行こ」
「へ……先輩!?」
返事をしていないままなことを謝ろうとしたけれど、有無を言わせない様子で先輩がオレのリュックを手に取った。そしてもう片手に、手を握られてしまった。思わず指先が跳ねたら、先輩の手にぎゅっと力がこもる。胸が苦しくて、それでいてどうしようもなく嬉しくて。なんで手を? なんて尋ねる気にはなれないまま、先輩の後ろをついて歩く。
「先輩? どこに行くとですか?」
もう放課後だから、帰るのかなと勝手に考えていたけれど。先輩は階段を上がりはじめる。この先はなにがあるんだっけ。オレにとっては、まだ一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
「誰もいないところ」
肩越しにこちらを振り返った先輩が、口元に人差し指をあててそう言う。ああ、先輩のこの仕草、すごく好きなんだよな。オレだけのものならいいのになんて、勝手なことを考えてそっとくちびるに歯を立てる。
「ここは……屋上ですか?」
「ああ。鍵かかってるけどな」
「へえ。よく来るんですか?」
「ひとりになりたい時に、たまに。真白、ここ座って」
先輩が足を止めたのは、屋上の扉前だった。階段を上がりきったところに、並んで腰を下ろす。先輩は両膝に肘をつき、指を組んでそこに額を預けた。手が離れてしまったのが、正直寂しい。けれどそれよりも、先輩の様子が気になる。
「先輩? あの、どうかしましたか?」
「ん? んー……真白、ごめんな」
「へ……なにがですか?」
「昼休みは一緒にって約束、今週は守れなかったから。怒ってるよな。てか、俺のこと嫌になった?」
「嫌になる? 先輩のことを? そんなわけなかです!」
「でも、返事なかったじゃん」
「っ、それは違うんです! 5、6時間目が体育で、着替えとかで送れんくて!」
「……マジ?」
「大マジです!」
返事ができなかったことを、オレも気にしていたけれど。まさか、先輩がそんなに気に病んでいたとは考えてもみなかった。よく見ると、眉がしゅんと下がっている。オレのせいだ。
「先輩、オレのほうこそごめんなさい。遅刻してでもすぐに返事すればよかった……」
後悔がオレを襲う。でも先輩が、オレの頭をぽんと撫でてくれた。
「いや、真白はなんも悪くねえよ。嫌われてなくて、すげー安心した。てか……はは、カッコ悪いよな。必死に走ってきて、嫌になってねえ? って聞くとか。真白が相手だと、俺ってこうなるんだな。山辺と吉野にも笑われた。そんな弱気なお前初めてだー、って」
「先輩……」
「真白、ちょっと肩貸して」
「へ……」
肩を貸すって、一体どうやって? 不思議に思ったのも束の間、先輩の体がゆっくり近づいてきて、オレの肩に先輩のおでこが乗せられてしまった。ゆらゆらと頭を揺らして、「あー……真白だ」なんて唸っている。
「せ、先輩? あの……」
一体、なにが起きているんだ? 思わず、先輩のブレザーの裾をきゅっと握る。この間の唐突なハグといい、さっき手を握られたのといい。先輩との接触にオレの心臓は今にも爆発してしまいそうだ。体中が甘くしびれて、呼吸もままならなくなる。
「真白と昼食えなくて、マジでどうにかなりそうだった。たった4日がすげー長かった」
「先輩……オレも、オレもです。先輩と会えんくて、寂しかったです」
先輩も寂しいって思ってくれていたんだ。悲しい思いは少しもしてほしくないけど、嬉しく感じてしまう。莉子先輩と付き合うかもと襲われた不安も、今だけは解けるような心地がする。
「ほんとに?」
「ほんとです」
「でも……クラスのヤツらと楽しそうだったじゃん。写真」
「写真……?」
ああ、ドーナツをもらった日のことか。この瞬間に夢中で、すぐに思い至らなかった。どうして先輩はちょっと、不服そうなんだろう。気になったけど、あまりに間近で見つめられていることに気づいて戸惑う。
「へ……先輩!? あ、あのっ! 近すぎます!」
肩に額を乗せたままで、先輩がこちらを見ている。思わず両手で顔を覆うと、手に先輩の吐息まで当たってしまう。
「嫌?」
「嫌ではない! です、絶対に! でもあの、恥ずかしかですよお……」
「へえ。恥ずかしがってくれんだ?」
「当たり前です……」
「そっか。はは、満足した」
満足したってどういう意味だろう。ドギマギしている間に、先輩はゆっくりと頭をもたげた。あんなに恥ずかしかったのに、離れてしまうと寂しいのだからオレって厄介だ。
「なあ真白、あさっての日曜なんだけどさ。……暇?」
先輩の横顔を盗み見して、こちらを向きそうになったら慌てて反らして。それを2回くり返した頃に、先輩が窺うように聞いてきた。
「日曜ですか? はい、なんも予定はなかですけど……」
「よかった。じゃあ日曜、どこかで待ち合わせして遊ばねえ?」
「っ、いいんですか? 遊びたいです!」
「よし、決まりな」
休日に先輩と会える? まさかそんな嬉しい提案をしてもらえるだなんて、夢にも思わなかった。でもふと、引っかかりを覚える。そうだ、日曜の話をつい最近聞いたばかりだ。
「先輩。えっと、日曜はなんかあるんじゃなかったとですか? チューリップ植えてる時、山辺先輩と吉野先輩と、そんな話してませんでしたっけ」
「あー、うん。それなら気にしないでいい。俺が日曜は真白といたいんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。そのためにこの4日辛抱したんだしな」
「…………? そうなんですね」
そのためとはどういうことだろう。気になったけれど、首を傾げても先輩はただほほ笑むだけだ。話すつもりはないのかもしれない、それならばと別のことを思い切って尋ねてみる。
「ちなみに、日曜はなにか特別な日なんですか?」
先輩たちにとって、よほど大切なイベントがあるのだろうと思っていた。莉子先輩の名前が出ていたから、邪魔になってはとあの時はチューリップの作業を進めることしかできなかった。
「特別っていうか。日曜は俺の……」
「…………? 先輩の?」
先輩の、なんだろう。気になって、言葉の先をじっと待つ。けれど先輩は、どこかいたずらに口角を上げてみせた。
「いや、やっぱ内緒」
「ええ! なんでですかあ」
「言ったら真白が気にしそうだから」
「そんなあ……内緒にされて、今絶賛気にしとりますけど……」
「はは、だよな。当日にはちゃんと言うから」
「んー……約束ですよ?」
「ああ、絶対」
先輩はそう言って、小指を差し出してくれた。ああ、また先輩に触れることになる。先輩にはどうってことないことでも、小指だけだとしたって恋をするオレには大事件なのに。悟られないようにと願いつつ、そっと小指を絡ませる。
「真白に会えるの、楽しみにしてる」
「オレもです。へへ、先輩と遊べるとか、夢みたいです」
「大げさじゃね?」
「全然。オレ、先輩と一緒にいるの、その……好き、なんで」
「……ん、そっか」
わざと意味をちょっと反らして、好きという言葉を声に乗せる。それだけで、ものすごい勇気が必要だった。絡んだ小指までドキドキと脈打っているみたいで、こっそり息を飲みこむ。
「えっと、どこに行きます? オレ、全然この辺のこと分からんくて」
「それなら、色々考えてあるから任せろ」
「そうなんですか!? 先輩かっこいい」
「はは、それこそ大げさ」
それからオレたちは、今週の昼休みを取り返すみたいにたくさん話をした。屋上へ続く窓から射す光が、いつの間にかオレンジになるくらいに。
この時間がずっと続けばいいのに、なんて思う。でも今は、日曜がすごく楽しみだ。私服の先輩も、とびきりかっこいいんだろうな。
今この瞬間と、日曜というちょっと先の未来がオレの中で入り混じる。心の中のあっちもこっちも先輩ばかりで、甘い感覚がオレを満たした。



