ダウナー先輩のあまい条件

「ねえお母さん。このベーコンとアスパラ、使っても()か?」
「良かよー。お弁当? えらい頑張るね」
「へへ、まあね。たまご焼きだけじゃなくて、他にも作ってみよっかなって」
「へえ……」

 冷蔵庫の中を覗きながら、家を出る準備をしている母に背中で答える。十分くらい前には、あくびを零す父を見送ったばかりだ。いつもならオレが起きる頃には誰もいないから、ちょっと新鮮。

 今朝は昨日までより、30分早くアラームをセットした。けれどオレは、それが鳴る5分前に目を覚ました。どっちかというと朝は苦手だったのに、自分でも驚きだ。

 それくらい、弁当を作るのが楽しみだった。昨夜は男子高校生に人気のおかずとか、色々検索しちゃったくらいに。自分の分だけだと、こんな気持ちにはならなかった。これが誰かのために、って原動力なのかな。世良(せら)先輩がまた美味しいって言ってくれたらって、考えるだけで鼻歌までこぼれてくる。

 昨日調べた通りに、アスパラガスの根元をちょっと落として、少しだけピーラーで皮をむく。3等分くらいに切ったら、ベーコンで巻いていく。イメトレでは手際よくできるはずだったのに、やっぱり初めての作業はちょっと難しい。

真白(ましろ)〜」
「んー?」

 苦戦していると、母がオレの隣にやってきた。肘でちょいちょいと体を突つかれて、せっかく巻いたベーコンがほどけてしまった。

「あっ! もうお母さーん……せっかく巻いたとにぃ……」
「あ、ごめんごめん。なんか、嬉しくて」
「え?」
「ほら、急な引っ越しだったから。転校して、毎日辛かろうなって。でも今日はなんか、楽しそうね」
「お母さん……」
「あっ、もう出らんと仕事遅れる!」

 母はオレのことを、根掘り葉掘り聞いてくるタイプの人じゃない。いつもオレの言葉を待っていてくれる。それでもやはり、心配をかけていたみたいだ。

「お母さん!」
「なにー?」
「今日、学校行くの楽しみ! 当たり! 行ってらっしゃい!」
「ふふ、そっか。行ってきまーす!」


 四時間目の授業は音楽だった。音楽室は教室とは違う棟にあるけど、もう委員長の案内がなくても迷わず行き来できる。それでもまだ、目に映る景色は真新しい。あちこち見回しながら歩いていたら、気づけばもう周りにクラスメイトたちはいなかった。

 階段を上がって教室へと近づいてきた頃、なんだか廊下が騒がしいことに気づく。なにかあったのかな。不思議に思いつつ歩いていると、その騒ぎの大元はオレのクラス、一年三組だと気づく。教室内はもちろん、他クラスの生徒たちも廊下に出て色めきだっている。みんなの視線が集まるのは、教室の後ろ扉のところだ。芸能人でも来てるのかな、と思えるくらいに騒がしい。

 気になって、人だかりの外から背伸びして覗いてみる。するとその中心にいた人物と目が合った。

「あっ、世良先輩」
「真白……よかった、会えた。ちょっとどいて」

 なんと、そこにいたのは世良先輩だった。眉間をきゅっと寄せていて、疲れたような顔をしている。どうしたのだろう。心配でいっぱいになっていたら、近づいてきた先輩がぎゅっとオレの肩を抱き寄せた。

「へっ? えっと、先輩?」

 先輩の大きな手が俺の体に触れて、あのゆるくウェーブがかった髪が、オレの癖っ毛の上をさらりと滑った。途端に、オレの体全部に熱が走る。突然のことに、胸がドキドキと音を立てはじめる。

「俺、昼はコイツと食うって決めたから」

 ドギマギとしていたら、先輩がそう宣言した。教室内や廊下からも、驚きの声が上がる。あの子誰? とか、たしか転校生だよとか、そんな声が聞こえてくる。ただ、先輩が宣言した相手は一年のみんなじゃなかったみたいだ。先輩とオレの目の前で、手と手をきゅっと握りしめている女子がいる。明るい髪はきれいに巻かれていて、指先もくちびるも色づいている。まさに、洗練された都会の素敵な女の子、という感じだ。

 その人の隣には友だちなのだろう女子が、もうひとり立っていて。心配そうに「莉子(りこ)……」と呼びかけたり、ちょっと怒った目を世良先輩に向けたりしている。

「莉子、世良と食べたいっていつも言ってるじゃん」

 莉子と呼ばれたその人は、意を決したような目で世良先輩を見上げた。莉子って名前、どこかで聞いた気がする。そうだ、世良先輩と初めて逢った日。世良先輩を探していた人たちが、口にしていた名前だ。

「……だなあ」

 視線を床へと落として、気だるそうに世良先輩が答えた。その様子に、莉子先輩は肩を浮かせながら息を飲んだ。瞳がうるうるし始めている。

 世良先輩のこと、好きなんだろうな。恋愛ごとに縁のないオレにも分かるくらい、それは明白だった。もしかしなくても、オレって邪魔者じゃない? と戸惑いを覚えはじめたのも束の間。涙の浮かんでいる瞳がキッと細められたかと思えば、それはオレへと向けられてしまう。

「誰、この一年」
「え……っ? えっと、オレは……」
「関係ねえだろ」
「っ、でも世良はこの子とお昼食べるんでしょ?」
「そうだけど、だから? やっぱ関係ねえよな」
「……っ!」

 突き放すような言葉がトドメになったのか、莉子先輩はくちびるをぎゅっと噛んだ。そしてすぐに走り出してしまう。

「莉子! 世良、いくらなんでも言い方ひどいよ」

 莉子先輩の友だちは世良先輩に釘を刺して、莉子先輩の後を追い去っていく。その様子を見届けて、先輩は天井を仰ぎながら大きく息を吐いた。

「……知らねえよ。俺にだって意志はあるっつうの」
「先輩……」

 世良先輩の言葉は、たしかに辛辣だったと思う。でも先輩は先輩で、辛そうに見える。気がかりで、でもただただ見上げることしかできずにいたら、あの大きな手がオレの髪をぽんと撫でた。

「巻きこんでごめんな。真白の席どこ?」
「へ……えっと、あそこです。ひとつだけ飛び出てる、いちばん後ろの……」

 問われるままに答えると、まるで自分の教室みたいに中に入った先輩は、机の横にかけてあるオレのリュックを手に戻ってきた。

「行こ。腹減った」
「はい……あ、先輩! リュック! 自分で持ちます!」
「はいはい、いいから行くぞー」

 片方の紐だけ肩にかけて、先輩はすたすたと歩いていく。なにが起きたか分からないと言いたげに、静まり返る教室が気がかりだけれど。置いていかれないようにと、オレは先輩を追いかけた。


「先輩」
「んー?」

 先輩は足が長いからか、歩くのが速い。少し後ろを小走りするオレに気づいて、立ち止まってくれた。そこからは並んで歩く。

 さっきの出来事が頭を離れない。莉子先輩は、悲しそうな顔をしていた。世良先輩をオレが奪ってしまったみたいで、胸がざわつく。

「さっきの……」
「さっきの?」

 本当によかったんですか。そう言いかけて、でもやめた。世良先輩の苦々しい顔を思い出したからだ。オレが今大事にできるのは、世良先輩だ。オレにできることなんてなにもないかもしれないけど、元気になってほしい。

「いえ、なんでもなかです。えっと、お弁当! 今日はたまご焼きと、もう一個作ったんですよ」
「マジ? 実はすげー楽しみにしてた。俺は今日は、クッキー持ってきた」
「クッキー! やった、大好きです」
「本当に甘いの好きなんだな」

 体育館横の階段のところに到着して、さっそく世良先輩にお弁当を差し出す。

 昨日はオレの分から、たまご焼きをひとつおすそ分けしただけだったけど。今日は、先輩の分は別によそってきた。同じようなサイズの容器が家にはいくつかあって、選んだのは水色にドット柄のかわいらしいものだ。

「え? もしかして、これ全部俺の分?」
「はい! へへ、朝から張り切っちゃいました」
「…………」

 ゆっくりと蓋を開けた先輩が、中身を見てフリーズする。どうしたのだろう。それを見ていたら、今更になって不安に襲われてきた。

「え、えっと! もしかして、キライなの入ってました? 聞いておけばよかったですね! てか、多かったですかね? ……ほんと、無理せんでくださいね?」

 昨日のうちに、ちゃんとリサーチすべきだった。次々と後悔が口からこぼれていく。先輩の反応が怖くて、ついぎゅっと目をつむってしまう。でもそんなオレに届いた先輩の声は、

「すげー……」

 という感嘆のものだった。

「……へ?」

 恐る恐る開いた目には、まだ弁当をじいっと見つめる先輩が映る。

「これ、全部真白が作ったのか?」
「はい。作ったって言えるのはたまご焼きと、アスパラのベーコン巻きだけですけどね」

 あとはウインナーをタコの形に切って焼いて、それから冷凍食品のほうれん草のカップと、ミニトマトが入っているだけ。見つめられているのはおかずなのに、心の中を覗かれているみたいに恥ずかしい。縮こまっていたら、先輩がスマホで弁当の写真を撮りはじめた。

「えっ、なんで撮っとですか!?」
「なんでって、記念に」
「記念にするようなものじゃなかですって!」
「俺にとってはするようなもんなの」
「そんな……」

 数枚撮った写真を確認して、先輩は満足そうに「よし、おっけー」とつぶやいた。それから

「ん」

 とオレのほうに手を差し出してくる。なんだろう? 不思議に思いつつそこに手を乗せてみる。

「はは、ちげーよ。箸、ある?」
「あっ、箸!」

 そりゃあそうだ。箸がなきゃ食べられない。慌てて取り出して、先輩に手渡す。

「さんきゅ。食べていい?」
「はいっ、お口に合えばいいんですけど!」
「合うよ。見ただけで美味しいし」

 持参したおにぎりを袋から取り出して、箸をきちんと手に持って、先輩は

「いただきます」

 と丁寧に言ってくれた。それに胸をじーんとさせていると、

「てかさ、アイツらは?」

 と先輩がオレのポケットを指差した。指先を目で辿って、一瞬を置いてハッとする。

「……あっ! ケンちゃんと(さわ)っち!」

 しまった、先輩のことで頭がいっぱいだった。慌てていつものようにスマホをセットして、ふたりとのグループにコールをかける。その隣にホイップを並べるのも忘れない。

「ごめん、遅くなった!」
<今日はかかってこんかと思っとった>
<お、今日もイケメンの先輩おる!>
「ケンちゃん、世良先輩ね」
<そうそう、世良先輩な!>

 先輩はさっそくたまご焼きを頬張っていて、無言ながらもふたりに手を振ってくれた。

「真白、今日もたまご焼きすげー美味い」
「あ……へへ。ありがとうございます。えっと、オレもいただきます」

 世良先輩とおそろいの弁当を食べながら、沢っちとケンちゃんと一緒に四人で笑って、昼休みがこんなにも楽しい。たまに吹く風も最高だ。先に昼休みが終わるふたりにバイバイをした頃に、先輩が先に食べ終わった。

「真白、ごちそうさま。マジで全部美味かった。アスパラのベーコン巻き、無限に食えそう」
「はは、嬉しいです。また入れますね」
「楽しみにしてる。じゃあ次は俺からだな」

 空になった弁当を受け取ると、先輩が袋からなにかを取り出しはじめる。それを見て、オレは慌てて最後のミニトマトを口に入れた。

「え、そんな急ぐ?」
「だって、すごく楽しみにしてたんで」
「ふ、マジか」

 先輩のためにお弁当を用意するのは、すごく楽しかった。それと同じくらい、先輩が持ってきてくれるお菓子が楽しみだったのも本当で。急いでトマトを咀嚼しながら、姿勢を正す。

「はい、これ」
「っ、ありがとうございます! えっ、うさぎのかたち? それになんかキラキラしとる!」

 先輩が差し出す袋を、両手で受け取る。透明な袋の上の部分は、昨日のマフィンのカップと同じ水色と白のストライプの紙が飾られている。四枚入ったクッキーは丸形で、うさぎの耳つき。その真ん中には、透き通ってキラキラした赤いものが乗っている。

「その赤いの、昨日言ったドレンチェリーな」
「あ、ホイップの目の?」
「そう」

 ホイップに手を伸ばした先輩は、オレが持つクッキーの横に添えてくれた。ホイップとクッキーを見比べる。クッキーと言えば少し焼き目がついているイメージだったけど、このクッキーは白くて、それもホイップにぴったりだ。

「すごい……本当に一緒だ。かわいい」
「クッキーのかたちは絞り出しにするか、悩んだんだけどな。うさぎのほうが分かりやすいと思って」
「え、これもしかして、先輩が作ってくれたとですか?」
「……あー、いや。これも母親が……な」
「そうなんですね! 最初はお店のかと思いました。ラッピングもかわいかし、クッキーも綺麗で」
「そっか。なあ、食ってみて」
「はい。あっ、写真! 写真撮ってから!」
「ふ、真白も撮るんじゃん」
「あ……へへ。撮りたくなるもんなんですね。今分かりました」

 先輩の行動にさっきは戸惑ったのに、自然に同じことをし始めた自分に驚く。でも本当に、記念にそうしたいと思った。先輩の言った通りだ。昨日のマフィンも撮ればよかったと後悔しつつ、クッキーだけのショットとホイップと並べてのものも撮影する。ブレたりしていないのをきちんと確認してから、ようやく中身をひとつ取り出す。

「いただきます!」

 そう言って、口を開いたところまではよかったのだけれど。手にしたクッキーを見つめたオレは、動けなくなってしまった。

「真白?」
「どうしよう、先輩……もったいなくて食べられんです……」
「は……?」
「だって……昨日のマフィンも本当はもったいなかったとですけど! これ、ホイップなんだって思ったらすっごくかわいくて……お菓子ってどうにかして永久保存出来んですかね? 真空パックとか?」
「……ふっ、ははっ!」
「なっ、なんで笑うとですかあ」

 オレは至って真剣なのに、世良先輩はなぜか大笑いしはじめた。なにがそんなにおかしいのか、目尻に涙まで浮かんだらしい。それを拭った指先が、オレの手にあるクッキーを奪う。

「あっ。先輩?」
「ほら、口開けろ」
「ええ、でも……」

 突然のことに、戸惑ってしまう。クッキーを食べる決心がまだつかないこともだけど、世良先輩にあーんされるなんて。心臓が跳ねて、定位置が分からなくなったみたいにドキドキしてしまう。

「俺、真白がこれ食ってるとこ見るの、楽しみにしてたんだよな」
「へ……そうなんですか?」
「うん。もったいないって思ってくれてんのも嬉しいけど」
「…………」
「だから食ってほしい」

 首を傾げながら、「な?」と先輩が先を促す。その仕草があまりにかっこよくて、オレはつい見惚れてしまった。そして無性に、先輩の願いを叶えたくなった。もったいないのもドキドキしているのも本当なのに、不思議な感覚だ。

 恥ずかしさを打ち消せはしないまま、おずおずと口を開く。先輩と見つめ合いつつそっと歯を立てると、クッキーからサクッと小気味いい音がした。それからすぐに、ドレンチェリーのとびきりの甘さが口中に広がる。お菓子が大好きなオレでも驚くほどで、けれどクッキーのほうは優しい甘さで、重なって完成する味にオレは目を見開いた。

「っ、んんっ!」
「慌てずに食え、喉に詰まるぞ」
「ん……、っ、先輩! これすごい美味しかです!」
「マジ? よかった」
「今まで食べたクッキーの中で、いちばん美味しか……」
「それ、昨日のマフィンでも聞いたな?」
「だって本当ですもん! 大げさじゃなかですよ!? 先輩のおかげで、二日連続で最高更新した……」

 先輩のお母さんは、間違いなくお菓子作りの天才なのだと思う。いつの間にかオレは両手を自分の頬に当てていて、ほっぺが落ちるってこういうことなのだと確信する。

「二枚目もあーんしてやろうか?」
「えっ!? それも魅力的ですけど、さすがに自分で食べます!」
「魅力的なんだ?」
「あっ……」
「ふ。なあ、食ってるとこもっと見せて」
「は、恥ずかしかです……」

 美しい目をそっと細めて、お菓子を食べるオレを先輩は本当にじいっと見つめてくる。照れくさくて仕方ないけど、それが楽しみだと言われればオレには従うしか術がない。あーんされるのと同じくらい、顔が熱い。クッキーにかじりついて、そろそろと目線を上げたら先輩とバチッと目が合って。体のあちこちが鼓動するのを感じながら食べるクッキーは、ひときわ甘い気がした。


「教室まで送ってく」

 弁当箱を片づけて、スマホとホイップをポケットに入れて、ひとつだけ残したクッキーを大事に包み直して。ごちそうさまと言い合った後、先輩がそんなことを言った。

「え? そんな! オレ、さすがに教室までの道分かりますよ?」
「知ってる。俺がそうしたいだけ。ほら、行くぞ」
「あっ、またリュック! オレ持ちますって!」
「弁当のお礼」
「それはクッキーでもらったですよお……」

 予鈴が鳴る廊下をふたりで歩く。先輩に気づいた人たちはみんななぜか端に寄って、道を開けていく。かっこいい、と漏れ出たような声が聞こえてきた。薄々気づいていたけれど――

「世良先輩って、有名人?」
「あー……みたいだなー。俺は目立ちたくねぇし、別に普通なんだけどな」

 みんなの気持ちが正直分かる。だってこんなかっこいい人、初めて見たから。オレが田舎者だからじゃなくて、他の人たちにとってもそうらしい。見惚れて、一目置いて、ただ見つめるしかないくらいに。

 そんな人と、オレが一緒に過ごしてもいいのかな。そんなことが頭を過ぎるけど。先輩の言葉や、時折見せてくれるやわらかな笑顔とか。芯に持つなら先輩がくれるものにしたいなあ、なんて思う。

「わっ」
「真白? 大丈夫か?」
「ごめんなさい、先輩こそ大丈夫ですか?」

 考えこんでいたら、立ち止まった先輩の背中にぶつかってしまった。

「全然平気」

 と振り返ってくれた先輩の向こうに、“1−3”の表示が見える。オレの教室についたようだ。わざわざ送ってもらったお礼をと顔を上げると、先輩が先に口を開いた。

「なあ真白」
「はい」
「訛ってるの気にしてるみたいだったけど、俺は好きだよ」
「え……」
「周りの目なんか、気にすんな。まあ……それが難しいって、知ってんだけどさ」
「……先輩? えっと……」

 世良先輩の言葉の真意が、いまいち掴めない。そんな自分を歯がゆく思うオレの肩を抱いて、先輩は前の扉から教室へと入った。それだけで、教室そのものが息を飲んだみたいに静まり返った。全員と目を合わせるみたいにたっぷりと見渡して、先輩はオレの肩をさらにぎゅっと引き寄せる。そして、

「あー……さっきはここで騒いで悪かったな。真白まで巻きこんじまったけど、コイツ、俺の大事なヤツだから。よろしく」

 なんてことをクラスのみんなに向かって言い放った。

「へっ、先輩!? なっ、なに!?」
「じゃ、また明日の昼休みな」

 呆気にとられ口をぽかんと開ける間抜けなオレとは反対に、先輩は飄々とした顔をしている。オレの頭をぽんぽんと撫で、教室を出ていく。でもすぐに引き返してきた。

「真白、スマホ。連絡先出して」
「へ……はい!」
「ん、おっけ。今送ったの俺な。登録しとけよ」
「は、はい!」

 今度こそ先輩は教室を去っていった。それを呆然と見送っていたら、一気に教室が湧き上がった。何事かと振り返れば、さっき先輩が集めていた視線丸ごと、オレに向けられていた。

「えっ、なに!?」
「ねえ七原(ななはら)くん、世良先輩と知り合いなの!?」
「マジびびったー。仲良いんだな」
「連絡先知ってるの、いいなー」
「え、えっと……」
「てか俺、普通に七原と話してみたかったんだよな」
「私もー!」
「えっ!? お、オレと?」

 驚く暇もないくらい、みんなが次々とオレに話しかけてくる。さっきから衝撃を受けてばかりで、しどろもどろになってしまう。けれど五時間目の始まりを告げるチャイムが鳴り、英語の先生が教室に入ってきた。

「あれ、着席できてない人が多いですね?」

 鋭く光った目に、みんな慌てて席に向かう。オレに至っては、授業の準備すらできていない。席に急いでリュックを机のフックにかけたところで、日直の号令がかかった。みんなで挨拶をすると、先生からのお咎めは特になく授業がはじまった。ほっと胸を撫で下ろしていたら、前の席の男子が振り返った。転校初日に熊本ってどこだっけと訊いてくれた、飯田(いいだ)くんだ。

「ギリセーフ」
「っ、うん。えっと、よかった」
「だな」

 すごい、普通に話せている。ほんの一時間前には、有り得なかったことだ。

 ノートだけはどうにか取りながらも、今オレの頭の中は世良先輩のことでいっぱいだ。教室まで送ると言ってくれた時、どうしてだろうと不思議だった。莉子先輩との一件があったし、オレに友だちがいないことも心配してくれていたのだろう。先輩がこの教室に立って、オレをよろしくと言ってくれた。そのひと言だけで、すでに激変している。みんなが声をかけてくれた。転校してきてからずっと、ひとりだったのに。

 ふと、つい先ほどの先輩の言葉を思い出す。目立ちたくないと言っていた。それなのに、わざと注目を集めてくれたように思う。もしかしなくても、オレのために?

 そこまで考えたところで、大きく息を吸って止めた。両手で口元を覆って、そうっと細く細く吐き出す。なんだかそうしないと、変なうめき声が出てしまいそうだったからだ。世良先輩に大事にしてもらえたことが、体中に沁み渡っていく。こんな喜び、オレは知らない。慣れなくて、そわそわしてしまう。

 火照った頬をどうにか落ち着けようと、窓の外へ目を向ける。先輩、チャイムの前に教室に帰れたかな。お弁当はあれで足りたかな。また明日って、言ってくれたな。

 ああ、結局先輩のことばかりで胸はぎゅうぎゅうに詰まっている。先生の流暢な英語が耳をすり抜けていく。

 ため息が甘い気がするのは、さっき食べたドレンチェリーのせいだろうか。