鬼神の番〜払いの力を失った贄嫁は、唯一の番として溺愛される〜

 ――三か月の刻は過ぎ、季節はうつろい始めた。
 祝言の支度に忙殺された数ヶ月。夜刀谷家の若き当主・夜刀谷恒一の婚礼は当初、静かな内々の席合となる予定であった。
 だが事情が変わった。黒峰香織――いや、黒峰家の一人娘にして新たな夜刀谷当主夫人となった香織が「澪の時よりも盛大なものにしたい」と我儘を言い始めたのだ。
 
「……私ども夫妻の大切な日ですもの。お世話になった方々にもきちんとご挨拶しなければなりませんよね」
 
 香織の声には甘えた調子がある。夜刀谷家の財政状況も顧みない発言に、恒一は内心苦い思いが湧いた。
 
「夜刀神家のご当主様もきっと参列なさるでしょう」
 
 香織の言葉に恒一の心臓が強く脈打った。
 
(暁刃様が来る……ならば澪も)
 
 そして彼の心は騒ぎ始めた。
 かつて自分が踏み躙りかけた婚約者。誤解ゆえとはいえ酷い言葉を浴びせてしまった女性。澪との過去を清算したいという衝動が湧き上がり、抑えきれなくなっていた。



 祝宴は豪奢であった。
 広大な座敷の中央には紅梅や白梅の装飾が施され、金箔入りの巻物には祝言の寿詞が書き連ねられている。その賑やかさの一方で恒一の心中は不安と期待で揺れ続けていた。
 そして彼の目は一つの人物を探し続ける――瑠璃色の薄羽織に身を包み、落ち着いた佇まいを見せている澪の姿を。
 
「澪……」
 
 思わず零れる呟きは宴会の喧騒に掻き消されたが、澪は敏感にそれを拾い上げたようだった。
 
(昔と同じだな)
 
 かつて彼女を追いかけていた日々。彼が呼ぶと必ず応じてくれた。その純粋さと誠実さに惹かれていた。だが今はもう違う。澪には暁刃という強固な絆を持つ番がいて、彼女の視線もその男に注がれている。
 宴も半ばを過ぎた頃、恒一は遂に決意した。
 
「澪……様」
 
 呼び掛けた声は意外に大きく響き渡り、幾人かの貴賓たちがこちらを見る。しかし彼は構わず続けた。
 
「少しだけお時間をいただけませんか?」
 
「いま……ですか?」
 
 澪は暁刃と並んで杯を傾けていたが、一瞬困惑した表情を見せた。
 
「どうしても……お祝いの席が終わる前に、あの謝罪させていただきたくて………ここではない場所で」
 
 暁刃の鋭い視線から顔を背けて、恒一はボソリと言う。
 
「二人きりを警戒なさるのでしたら、私と澪様は暁刃様から見える位置におりますので……」
 
 一族の長の番となったのだから、恒一も礼を尽くした態度を取らねばならない。
 
(これまでは、もっと近い距離だったのに……)
 
 そう思うと歯がゆくて仕方なかった。澪のことで暁刃に許可を求めなければならないことも。
 澪はどうしようか悩んでいる様子だった。
 
「謝罪を受けたいのなら、行ってくると良い。少し離れた場所から見守っているから」
 
 そう暁刃に背を押されて、澪はわずかに逡巡した後に「はい」と、うなずいた。
 暁刃は本当は澪を他の男に近づけたくないのだろう。けれど、分家当主の恒一の体面を尊重してくれたのだと分かった。
 
「どちらへ?」
 
 暁刃と澪が立ち上がり、恒一の後についてくる。
 
「お時間をいただき、ありがとうございます。……それでは裏庭へ」
 
 暁刃も一緒とはいえ、澪が従順に応じてくれたことで胸のつかえが少し解けたように感じたが、同時に暁刃の視線を意識する。氷の矢のように突き刺さってくる圧は、まるで背中に錐を当てられたかのようだ。
 恒一の喉奥が乾いた。やっと澪と話せるという安堵と同時に、拒絶されるのではないかという恐れが這い上がってくる。
 裏庭へ続く石畳の上で風が吹く。冷たい空気が頬を撫でていく感触が現実感を与えてくれた。 
 恒一が松の木のそばで立ち止まると、少し離れてついてきていた澪が背後にいる暁刃に向かって言う。
 
「暁刃様。すぐ戻りますので」
 
 暁刃は恒一を一瞥し、無言の承諾をした。暁刃は澪に任せるつもりなのか、こちらに歩を進める様子はない。
 澪が恒一のもとへやってきたとき、内に秘めた熱が燃え上がるような心地になった。

 ◆

 澪は恒一に向き直った。
 
「お久しぶりですね。恒一様。このたびはご結婚、おめでとうございます」
 
 澪は複雑な気持ちでかつての婚約者を見つめた。まさか婚約破棄された相手の婚儀に参加することになるとは、三か月前には想像もしていなかったことだ。
 恒一は動揺したように言葉を詰まらせた。
 
「あっ、ああ……。本当に、随分と時が過ぎてしまった。君と祝言を挙げようとした日のことが夢のように遠く思える……」
 
 澪はじっと彼を見つめた。最近は夜刀谷家の結界があまり安定していないと聞いている。
 黒く染まった爪が掌に食い込み、少し開いた口から鋭い牙が見えていた。少し出っ張った額の角は、澪といた頃にはなかったものだ。
 恒一はじっと澪を見つめている。
  
「……あの日以来ずっと考えていたことがある」
 
 かすれた声で、彼は訴えてきた。
 
「君を責めてしまったこと……心から謝りたい。本当に申し訳なかった」
 
 恒一が頭を垂れると、沈黙が続いた。しばしの間が流れてから澪が口を開く。
 
「お気持ちは受け止めました。もう十分です」
 
「いや待ってくれ」
 
 恒一は弾かれたように顔を上げる。
 
「私はまだ許されていないと思ってる。本当は君が私の暴走を鎮めてくれたんだろう? それを他の者が成し遂げたと思い込まされていた。私は浅はかだった……」
 
 恒一の必死の謝罪にも、澪の気持ちは動かない。あの日の静かな諦念と哀しみはいまも心に棘のように残ったままだ。
 ――けれども、恒一にずっと後悔してほしいとは思っていない。
 だから、澪は新たな彼の門出にわだかまりを残さないように、恒一からの謝罪を受けることに決めたのだ。
 
「もう終わったことです」
 
 澪は微笑んだ。
 これで、彼との関係も区切りを付けられるだろう。いつまでも過去に囚われても仕方ない。まだ香織に対しては許せない気持ちもあるけれど、時間が解決してくれると信じたかった。
 
「では、これで――」
 
 澪がそう言って、暁刃のほうへ向かおうとした途端。
 
「澪! 待ってくれ! これで俺たちは終わりなのか!?」
 
 恒一が衝動的に叫んだ。澪は眉をひそめる。
 
「君は今も私を助けてくれた時のことを覚えているだろう? あの時感じた君のぬくもり……それがどれほど大きかったか。ようやく気づいたんだ。どんなに君が大切な存在だったか」
 
「恒一様。申し上げましたが、もうお話しすることはございません」
 
「違うんだ! 君と話せなくなるなんて耐えられない。お願いだ。どうかもう一度考えてほしい」
 
「考えてほしい……? 何を……」
 
 恒一の口から漏れた言葉は、彼自身も驚くほどに残酷なものだった。
 
「暁刃様のもとより私の傍の方が君は幸せになれるはずだ」
 
 時間が止まったかのようだった。
 澪の目が大きく見開かれ、やがて細い溜息が洩れる。
 
「……そんなことをおっしゃる為に私を呼び出したのですか?」
 
 喉から出てきた声音は低く冷ややかだった。
 恒一の顔から血の気が引く。
 
「私はもう夜刀神家の嫁。番として暁刃様をお支えすることが私の生きる道です」
 
 澪がそう決然として言った。
 恒一の口角が引き攣り、喉が鳴った。そして瞳に渇望の色が浮かぶ。
 もはや手に入らないものへの執着が彼の理性を蝕んでいる。
 次の瞬間、恒一が額を両手で押さえて顔を真っ赤にさせていた。
 
「恒一様!?」
 
「違う……」
 
 恒一は汗を流しながら、頭を振っている。
 
「誰かに奪われるくらいなら……」
 
「正気に戻って!」
 
 そう澪が叫んでも、恒一は止まらなかった。
 彼は彼女の肩を鷲掴みにして揺さぶる。
 
「何故……何故だ! どうして私のもとにいてくれない!」
 
 その心からの絶叫に、澪は息ができなくなった。
 恒一の額の角がますます皮膚を突き破り、人外めいた牙が伸びている。鬼の本性が剥き出しとなっていた。
 その刹那――。
 
「触れることは許さない」
 
 雷鳴のような低い声とともに空間が割れた。澪が息を呑む。
 
「……!」
 
 振り返った視線の先には暁刃の姿があった。彼の周囲には紫電のごとき鬼紋が渦巻き、瞳孔が鋭く縦に裂けている。人型を保っているだけ奇跡的と言えるほどの膨大な鬼気が放たれていた。
 
「俺の番に手を出すとは愚かすぎる。恒一……貴様は許さん」
 
 恒一の指先から血が滴る。自分の拳を砕けそうなほど握りしめているのだ。
 
「澪を……返してください!」
 
「返す? 元々俺のものだ!」
 
 暁刃が恒一に飛び掛かる。
 巨大な鬼気をまとった拳が空気を斬り裂く音を立てて迫った。避ける暇もなく衝撃が胴にぶつかり、恒一は地面を転がった。
 
「ぐぅっ……!!」
 
 彼は這うようにして再び立ち上がろうとするが――その前に澪が立ち塞がった。
 
「恒一様、もうやめて下さい!」
 
 彼女の小さな体躯が巨大な鬼の争いの間に入り込む。その行為に恒一は息を呑み、暁刃も一瞬動きを止めた。
 
「澪……危険だ」
 
「暁刃様、恒一様は正気ではありません。私が払います……!」
 
 澪の指先から、金色の光が溢れている。
 柔らかな浄化に、恒一の体から力が抜けていく。みるみるうちに鬼化が、解除されていった。
 恒一の体が、地面に崩れ落ちる。
 その姿は、もう鬼ではなかった。
 ただの、一人の人間だった。
 
「澪……」
 
 恒一の手が、震えながら澪に伸びる。
 
「君は……私の……」
 
「いいえ」
 
 澪は、はっきりと首を振った。
 
「私は、あなたのものではありません。私は暁刃様の妻です」
 
「二度と、触れさせない」
 
 暁刃が、澪を抱き寄せる。
 
「お前には、もうその資格はない。ずっとそばにあったのに、その大切なものに気づかないお前が悪い」
 
 恒一が崩れ落ちたまま、嗚咽を漏らす。
 
「すまない……すまない……」
 
 澪は何も言わず、ただその丸まった背を見つめていた。
 


 祝宴の裏庭は突如静けさを取り戻した。
 残された澪は荒い息を吐きながら何度も胸を押さえた。封印の術は負担が大きい。久しぶりに力を使った彼女にとっては尚更だった。
 暁刃は澪の華奢な身体を支えた。
 
「よくやった。お前のおかげで大きな被害もなく恒一を抑えられた」
 
「はい……とっさのことでしたが、うまくいって良かったです」
 
 澪が力を抜くと《払い》の輝きが霧散していく。同時に疲労がどっと押し寄せ、意識が遠のきかける。
 
「澪」
 
 暁刃が抱き上げると彼女の首筋に柔らかな感触が触れる。払いの気配が安心したように揺らめきながら消えていった。
 
(本当に、皆が無事で良かった……)
 
 澪はうつらうつらとしながら思う。
 その時、遠くで女の慟哭のような悲鳴が聞こえた。
 
「うわああぁっ!」
 
 祝宴の本殿から響く絶叫。まさしく黒峰香織のものだ。
 
「何事だ?」
 
 暁刃が鋭く問いかけた時、夜刀谷家の家臣が蒼褪めた顔で駆け寄ってきた。
 
「恒一様が捕らわれたと知って、香織が暴れだしたのです……!」
 
 顔を歪めながら、家臣は呻くように言った。
 
「我々が問い詰めましたら、香織が自身の恒一様を救ったという手柄を偽っていたこと。恒一様を煽動したこと……全て露見しました」
 
 香織の嘘と裏切りが発覚したのだった。
 
「これで夜刀谷家は面目丸潰れだ。何年も掛けて築き上げた信頼が一夜にして瓦礫と化した……」
 
 夜刀谷家の家臣が呆然とつぶやく。
 そのとき、本殿から激しい足音が近づいてきた。
 
「香織が逃げたぞ!」
 
「追え!!」
 
 何事かとそちらを見ると、香織が鬼の形相で裏庭に向かってきていた。しかしすぐに追手に捕まり、地面に体を押し付けられて後ろ手に拘束される。
 香織は近くにいた澪に気づき、顔を泥まみれにしながら歯を剥いた。
 
「アンタのせいで……っ!」
 
 澪がびくりと肩を震わせる。
 暁刃は澪をかばうように香織の目から隠した。
 暁刃は澪を抱えたまま冷淡な眼差しを送る。
 
「自業自得というものだ。黒峰家は没落は避けられまい」
 
 香織は咆哮を上げ無様に暴れまわっていたが、夜刀谷家と黒峰家の家臣によって囚われて引きずるように連れられて行った。最後まで澪への罵倒の言葉を吐き捨てながら。
 
(これで、ようやく……)
 
 澪はかすかな声で囁いた。
 
「香織は……」
 
「気にすることはない。あの者の人生だ」
 
「でも……」
 
「俺がいる。お前は何も案ずることはない」
 
 暁刃の腕の力が強まる。彼女の背中をしっかりと包み込むその温かさに澪は安堵した。
 
「もう、誰もお前を傷つけることはできない」
 
 暁刃の言葉に、澪は静かに微笑んだ。
 暁刃の腕が、より強く澪を抱きしめる。
 
「二度と、お前のそばを離れない。恒一などに配慮してやる必要はなかったのに……俺も馬鹿なことをした。改心して謝りたいだけかと思ったのに、こともあろうに澪を本気で狙うとは……」
 
「もう大丈夫です。暁刃様がいてくれるから」
 
 澪は彼の胸に顔を埋めた。
 ――かつて座敷牢で一人泣いていた夜を思い出す。
 けれど、もうあの日には戻らない。
 いま、彼女の傍には守ってくれる者がいる。
 そして彼女自身もまた、誰かを守れるだけの力を持っている。
 
(……この人の番になれて良かった)
  
 彼に全てを委ねるように寄り添う。
 そして密かに誓った。
 これから先もずっと傍にいると――。

 ◆

 夜刀谷家の凋落は決定的となった。祝言どころではなくなった邸内は混乱の極みに陥り、やがて本家の介入により正式に処分が下される運びとなった。
 恒一は座敷牢へ収監され、鬼化が進みきる前に鎮静剤を打たれ続けているという。香織もまた詐欺と扇動の罪で裁かれることになり、黒峰家からの支援も打ち切られ天涯孤独となった。
 
 一方で澪と暁刃は静かな日常に戻っていく。
 《払い》の力を取り戻した澪は暴走しそうになる鬼を止めることのできる唯一の存在として、影響力を増していった。夜刀神家当主を支える本家の嫁としての地位を揺るぎなくなっていく。
 
 そしてある朝のこと――。
 暁刃は庭先で彼岸花を摘む澪を見つけた。秋の陽光が彼女の髪を柔らかく照らし出している。
 
「おはよう」
 
 声を掛けると澪が振り向いた。微笑みが浮かぶ。
 
「おはようございます、暁刃様」
 
 彼はそっと背後から近づき抱きしめる。
 
「精が出るな。それは鬼化を和らげるものだろう?」
 
 暁刃の問いに、澪はうなずく。
 彼岸花の毒に鬼化を鈍化させる効果があると知れたのは最近のことだ。発見した澪が先導となり夜刀神家で薬の研究を進めている。
 
「鬼の一族のために、いつもありがとう」
 
「こちらこそ。暁刃様がいてくださるからこそです。お役に立てて嬉しいです」
 
「――お前を守るのが俺の喜びだ」
 
 その腕に僅かな力が籠もる。腕の鬼紋が仄かに光った。
 澪が小さく笑う。
 
「そろそろ『様付け』はやめても良いですか? 私たちは夫婦なのですから」
 
 暁刃の瞳が大きく見開かれ、すぐに細くなった。
 
「では……俺のことは何と呼ぶ?」
 
「『暁刃』と。あなたの名前が好きなので」
 
 その瞬間、空気が和らいだ気がした。風に乗って薫る草葉の香りの中に、二人の絆が溶け込んでいく。
 
(彼女と共にある限り)
 
 暁刃は確信する。どんな災厄が訪れようとも、澪が傍にいてくれる限り乗り越えられると。
 そして澪もまた感じていた。愛する人と共に歩む希望の未来を――。