鬼神の番〜払いの力を失った贄嫁は、唯一の番として溺愛される〜

 夜刀神の本邸の朝は、澪がこれまで知っていたどの朝よりも澄みきっていた。
 障子越しに差し込む光はやわらかく、白砂を敷き詰めた庭は夜露をまとって淡く輝いている。低く枝を張る松の葉を渡った風が、かすかに青い匂いを運んだ。遠くで柄杓が水面を打つ音がして、屋敷の梁や柱までもが静かに呼吸しているようだった。
 
(――こんな朝を、私は知らなかった)
 
 実家の朝はいつも慌ただしかった。
 廊下を行き交う使用人の足音。
 父の重い咳払い。
 本家から来た従姉・香織の、耳に残る高い声。
 目を覚ますたび、胸の奥に灯るのは焦燥だった。
《払いの力》が少ないのだから、せめて努力で補わなければならない。香織と比べられ、劣っていると暗に告げられながら、それでも両親の役に立とうと必死だった。
 そうでなければ、存在を許されない気がして。
 けれど――。
 
(……今は、違う)
 
 ゆっくりと意識が浮上した瞬間、澪は温もりに包まれていることに気づいた。
 胸元に彼の顔がある。
 呼吸に合わせて上下する規則正しい鼓動。
 鼻先をかすめるのは、彼の髪の毛から漂う香木の匂いだ。
 逃がす気のないとでも言うようにきつく抱擁されていた。
 
(……重い)
 
 そこにいるのは、鬼の本家当主。鬼神を宿す鬼の頂点にして――澪の夫、暁刃だ。
 彼は澪を逃がすまいとするように腕を回し、強く抱き寄せたまま眠っていた。
 日中の威圧感は影もなく、伏せられた長い睫毛が形の良い頬に落ちている。額にかかる黒髪は朝光を受けて艶めき、整いすぎた横顔は、ただの若い男のもののようだった。
 けれど澪の肌に触れているその腕の奥には、確かに鬼神の力が息づいている。
 
(私は、このかたの番……)
 
 その事実が、胸の奥で静かに灯る。
 そのとき、腕にわずかに力がこもった。
 
「……澪」
 
 低く、まだ眠りを含んだ声。
 名を呼ばれるだけで、心臓がひとつ跳ねる。
 
「起きていらしたのですか?」
 
「……最初からだ」
 
 嘘だ、とすぐにわかる。
 けれど澪は微笑むだけに留めた。
 暁刃は目を開き、至近距離で澪を見つめる。
 
「今日も、無事だな」
 
「……はい?」
 
「昨日も消えなかった。今日もここにいる」
 
 それは確認というより、祈りに近い声音だった。
 暁刃の母は瘴気に侵されて早逝し、父は鬼神の暴走の末に討たれたと聞いた。
 ――失うことは、彼にとって常に身近なことだったのだろう。
 澪はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。
 
「私は簡単には消えません」
 
 指先にわずかに熱が走る。
 
「あなたの番です。あなたが暴走しない限り、私はあなたのそばにいます」
 
 暁刃の瞳が揺れた。
 鬼神ではなく、一人の男として。
 
「……俺が守る」
 
「いいえ」
 
 澪は小さく首を振る。
 
「私も、あなたを守ります」
 
 一瞬、空気が張り詰めた。
 鬼神の気配がわずかに揺らぐ。
 次の瞬間、強く抱き寄せられ、唇が重なる。
 深く、長く、確かめるように。
 鬼の気配が一瞬だけ滲み、空気が甘く震えた。
 
(……怖いほど、愛されている)
 
 けれど同時に思う。
 
(もし、また大切な人を奪われることがあったら……)
 
 濡れ衣を着せられ、孤独な闇の中に閉じ込められたら、と思うと恐怖が走る。
 座敷牢の湿った匂いが一瞬だけ脳裏をよぎった。
 澪の不安を察したように、彼女を抱く腕の力がさらに強まる。
 
「二度と離さない。お前を誰にも渡さない」
 
 低く、断言する声。
 澪はその胸に額を押しつけた。
 
「……ええ」
 
 もう、あのときのようなことは起こらない。
 
 ◆
 
 昼の暁刃は、完璧な当主だった。
 一族の裁定。都を覆う結界の維持。瘴気の流れの監視。
 膨大な責務を前にしても、その背は揺るがない。
 だが澪が廊下で側近の鬼に声をかけられただけで、空気が不穏なものに変わる。
 
「……澪から距離を取れ」
 
 低い声が落ち、暁刃の首筋に鬼紋が浮かぶ。
 
「はっ、はい! 申し訳ありません!」
 
 側近が怯えたように静かに一歩下がった。
 
「俺の番に不用意に近づくな」
 
 廊下の空気が凍りつく。
 
「暁刃様、私たちはただ挨拶を交わしただけなのに、いくらなんでも……」
 
 澪はそう取りなそうとしたが、暁は真顔で言う。
 
「奪われる可能性のある芽は、すべて摘む」
 
 澪は呆れ混じりにため息をつく。
 
「誰も私を奪いませんよ」
 
 暁刃は首を振り、澪の腰を引き寄せる。
 
「お前は自覚がない。俺を狂わせるほど魅力的なのに」
 
 指先で顎を持ち上げられた。
 額を寄せ低く囁かれると、ビクリと腰が震える。
 
「知らなかったのか?」
 
「あ……っ」
 
 澪の顔面が紅潮する。
 恥じらいながら顔を背けると、いつの間にか暁刃の側近は姿を消していた。
 こうして所構わず暁刃が澪に近づく者をけん制するのだ。
 けれど、その狭量ささえ、澪は愛しいと思ってしまう。
 こんなにも必要とされたことは、これまでなかった。
 
「鬼の独占欲を甘く見ないことだ」
 
 澪はそっと暁刃の胸元を掴む。
 
「……私だって、あなたを離して上げませんから」
 
 照れ隠しに顔を背けると、無理やり両手で顔を包まれて顔を上げさせられる。真っ赤になった顔を凝視されてしまう。
 長い沈黙の後、暁刃は苦しげにこぼす。
 
「……本当にお前は……愛らしすぎて困る。俺をこれ以上、惑わさないでくれ」
 
 深く、甘い口づけを繰り返す。
 彼の腕がやわらかく澪を包み込む。
 鬼の愛がこれほど深いとは知らなかった。
 
(――彼のいるところが私の居場所だ)
 
 いまでは心の底からそう思えて、澪はそっと目蓋を閉じる。 
 彼の懐は、驚くほど心地良く、温かった。


  
 ――その頃、都の外れの夜刀谷(やとかや)家にて。
 屋敷に張られた結界がわずかに軋んだことに、まだ誰も気づいていなかった。