鬼神の番〜払いの力を失った贄嫁は、唯一の番として溺愛される〜

 翌朝の夜刀谷家の広間には、昨夜の混乱が嘘のような整然とした空気が流れていた。鬼の一族と《払いの一族》の人々が、緊張感を滲ませながら座している。その上座には、昨夜まで牢に囚われていた澪がいた。
 既に体は清められ、汚れた白無垢から華やかな牡丹柄の着物に着替えていた。俯き加減の澪の傍らには、黒地に金糸の刺繍が施された装束を纏った暁刃が立ち、その瞳は冷徹に周囲を睥睨していた。
 
「皆の者」
 
 暁刃の声が静寂を切り裂く。鋼のように硬質でありながら、不思議な重みを持つ声音だった。彼の存在は、否が応でも注目を集める。
 
「予想よりも早く夜刀谷恒一の鬼化が進み、二人の門出となるはずだった祝言の日にこのような惨事が起きたことを遺憾に思う」
 
 神妙な顔をして一同は重々しくうなずいた。
 昨夜の出来事――恒一の暴走、澪の功績の簒奪――がまだ生々しい記憶として澪の中にも残っている。
 
「此度の事態は我々鬼の一族にとって看過できぬ問題であった。話し合いの結果、夜刀谷恒一の婚約者であった白峰澪とは婚約関係を解消し、代わりに夜刀谷恒一と黒峰家の香織との婚姻が決まった訳だが……」
 
 彼の視線がちらりと恒一と、その傍らで彼に付き添う香織の方へと滑る。
 香織は顔を強張らせながらも、暁刃へ媚びるような微笑みを崩さない。その頬がわずかに引きつっているのは、暁刃の隣に幽閉されたはずの澪がいるためだろう。
 他の者たちは事態を呑み込めず、視線を彷徨わせていた。
 
「このたび、白峰澪が座敷牢に入れられた経緯については、皆も知っていることだろう」
 
 澪は膝の上で拳を握りしめた。
 だが暁刃の次の言葉が、その場にいる全員の思考を停止させた。
 
「夜刀谷恒一が暴走した際に発した瘴気に触れてしまったためだが……瘴気に触れると穢れるというのは、《払いの一族》だけが信じる迷信だ」
 
 《払いの一族》にざわめきが広がる。鬼の一族にとっては周知の事実なのか、暁刃の言葉に動じる者は見受けられない。
 
「そんな……迷信などと」
 
 誰かがそうつぶやく。
 暁刃は咳払いする。
 
「確かに瘴気に触れると人間の寿命が縮まるのは事実だ。強い《払いの力》を持つ者ほど瘴気を深く体内に引き寄せてしまうため、先祖たちが“穢れ”という扱いにして忌み嫌ったのだろう」
 
 辺りがしんと静まり返る。
 
「……つまり、白峰澪の罪はない。彼女のまとう気配は最初に会った時と変わらず清涼だ。よく見てみるが良い」
 
 暁刃に促されて、《払いの一族》も鬼の一族もじっと澪を観察する。その視線に居心地の悪さを覚えながらも、澪は決して俯かず彼らを見返した。
 
「……確かに。禍々しい気の流れは見受けられませんな」
 
 近くにいた鬼のひとりが首肯すると、次々に「暁刃様のおっしゃる通りだ」と声が上がった。
 払いの一族は浅慮さを責められていると感じたのか、澪の両親を筆頭に顔を真っ赤にしてうつむいている。
 暁刃は彼らを睨めつけてから続けた。
 
「ゆえに澪を座敷牢から解放した。『穢れた者』と烙印を押し付けられ、澪はたいそう傷ついている。これからは白峰家には戻らず、俺が彼女を庇護する」
 
 ざわりと空気が揺れる。恒一も驚いたように澪と暁刃を見つめていた。
 その空気を破ったのは香織だった。
 
「おっ、お待ちください!! 暁刃様、恐れながら申し上げます! 確かに澪は穢れてはいないかもしれません。ですが、私が恒一様をお助けした際にその功績を奪うような発言をしました! そのような虚言を申し立てる者をおそばにおくなんて……」
 
 澪は思わず暁刃を見つめる。暁刃の蜂蜜色の瞳が、正面から香織を見据えている。そこには静謐な怒りがあった。
 暁刃の心中としては、ここで香織の罪を暴露してしまいたいところなのだろう。しかし事前の相談で、澪は暁刃に香織の嘘を追及しないよう頼んだ。
 白峰の禁術は目に見えないため澪がやったと言い張っても、それをいまさら証明できないためだ。それなのに香織が嘘を吐いていると暁刃が指摘すれば、根拠もないことを言う当主だと暁刃の立場も悪くなってしまう。
 暁刃はうんざりしたような表情で嘆息する。
 
「……確かに、お前の《払いの術》によって恒一の暴走は抑えられたのだろう。しかし、お前が動く直前に澪は恒一の鬼神化を抑えようと手を尽くしていたのだ。婚約者のために瘴気に触れるという危険を犯して、直接恒一に触れて、その荒ぶる気を鎮めていた」
 
「なんと……」
 
 広間がざわめく。
 ――真実を語ることは、いまは最善ではない。
 香織にも功績を与えることに不服もあったが、澪ひとりがやったのだと言い張れない以上、仕方がないことだ。
 
(香織の功績を奪おうとしたわけではないのだから、その濡れ衣だけは誤解を解いておきたい……)
 
 そういうことで、やむを得ずこんな言い分になった。これならば香織も否定はできないだろう。
 
「なるほど。だからあの娘は恒一様のそばにいたのか……」
 
「考えてみれば、鬼神化した鬼に近づくなんて危険なことをする理由はない」
 
「婚約者だからこそ、護ろうとしたのだろう」
 
 あのときは動転して冷静に考えられなかった人々も、この段になって暁刃の説明に納得していた。
 一番混乱している様子だったのは恒一だろう。その顔は青白く、瞳は戸惑いに揺れている。
 
「澪が私を助けようとしてくれていたのか……?」
 
 その縋るような眼差しを見ていられず、澪はスッと目を逸らした。
 いまさら事実に気づかれても、あのときの彼の蔑みの言葉が消えるわけではない。関係性は修復できないほどに、もう壊れてしまっているのだから。
 恒一はただ黙り込むしかなかったらしい。 
 その隣で、香織はわなわなと震えているだけだ。
 彼女ならやりかねないとも思っていたが、香織が自分だけの功績だと言い張ることはなかった。
 墓穴を掘ることを恐れたのか、それとも器の小さな娘だと周囲から謗られることを恐れたのか。どちらなのか澪には分からなかったが、これ以上は面倒な展開にならなさそうなことに安堵の息を吐く。
 
「し、しかし、何も暁刃様が澪の面倒を見なくても……そうだ! 黒峰家で澪を預かれば良いのですわ! ねぇ、そうでしょう。お父様?」
 
 香織の視線を受けて、黒峰家当主はうなずく。
 
「確かに、それが妥当でしょうな」
 
 分家の白峰家にいられないのなら、本家の黒峰家が澪を受け入れる。それは道理にかなっているが――。
 
(香織は私をいたぶりたいだけでしょう)
 
 彼女の本性を知らずに香織の外面の良さに騙されていた頃とは違う。香織は口封じのため、澪を黒峰家で預かったのを良いことに澪を手ひどく扱うに違いない。 
 突如、暁刃は澪の肩を抱いた。その距離の近さに驚き、澪は顔を朱に染める。
 
「あっ、暁刃様……」
 
 暁刃はとろけるような笑みを浮かべている。その柔らかな眼差しは鬼の一族の者でさえ見たことがなかったのか、誰もが息を呑んだ。
 
「昨夜、座敷牢において彼女と接触した。その結果を率直に伝えよう。――澪こそが、我が生涯唯一の『番』だ」
 
 その宣言は雷鳴のごとく広間に響き渡った。
 鬼の一族は呼吸を忘れ、《払いの一族》からは悲鳴や怒号が上がる。
 
「番……? あの白峰の娘がか!?」
 
「馬鹿な……そんなはずはないわ!」
 
「黙れ」
 
 暁刃の低い命令が全てを遮断する。
 
「俺は鬼としての本能を無理やり抑えつけているため、番の存在に気づくことが遅れたが……それでも伴侶を間違うはずがない。これは理屈も感情でもなく、鬼としての己がそうだと断じているのだ」
 
 沈黙が戻る。その静けさの中で、香織が真っ先に声を張り上げた。
香織は扇で口元を隠しながらも、目は怒りで爛々と輝いている。
 
「澪が? 暁刃様の番ですって……? そんなの……」
 
 ギリギリと音がしそうなほど、香織は奥歯を噛んでいる。
 そのささやき声には明らかな敵意が含まれていた。
 
「静かにしろ」
 
 暁刃は動じない。彼の視線は冷たく香織を射抜いた。
 
「澪は我が分家筋の鬼を命懸けで鎮めた。その功績を正当に評価しないばかりか、誤った情報を撒き散らし、彼女を罪人に仕立て上げたのはお前たちだ。彼女を罪人とする理由は不当だ。彼女の希望に添い、これからは私が面倒を見る。――異論はないな?」
 
 澪の両親と《払いの一族》は沈鬱な表情でうなだれた。
 あらかじめ、澪の両親には話は通してあったため反論はない。 
 広間に再び重い沈黙が訪れる。
 
「誰からも異論はないようだ。なら……」
 
 暁刃はゆっくりと澪の方へ手を差し伸べる。澪は微笑み、彼のあたたかな手を取った。力強く握り返してくれる。
 
「いまこの時をもって、夜刀神暁刃は白峰澪を正式な婚約者と定める。これからは彼女への暴言は俺への侮辱と捉えると心せよ」
 
 彼はそのまま澪の肩を抱き寄せた。その仕草には迷いがない。
 
「帰るぞ。我が本家へ向かう」
 
 広間に波紋が拡がる中で、澪は父と母に視線を送った。二人は怯えたように肩を縮ませ、顔を上げようともしない。
 悔しげな香織の視線だけが鋭く突き刺さっていた。
 そのすべてを背負うように、澪は暁刃の手に導かれながら広間を後にした。

 

 廊下を進みながら、ふいに暁刃が呟く。
 
「澪……」
 
 彼は立ち止まり、彼女のほうを見た。
 
「本当にあれで良かったのか? あの場で従姉妹たちを断罪し、お前の一族から鬼の庇護を剥奪しても良かったのに」
 
 鬼の庇護を失うことは、この世界では“死”に等しい。
 
「……良いんです」
 
「情をかけるなんて優しいな」
 
「そんなんじゃありません……私がやったとはいまさら証明できませんし、暁刃様が強引に話を進めれば、彼らには横暴と映るでしょうから」
 
「俺の立場を慮ってくれるなんて、澪は優しいな。お前ほど俺の妻にふさわしい人はいない」
 
 澪は顔が赤らむのを感じた。
 照れ隠しに着物の袖で顔を隠す。
 
「……私は暁刃様が信じてくれさえすれば、誰に誤解されたままでも良いんです」
 
 もはや澪の絶対的な味方は彼だけだ。だからこそ、彼以外の人にどう思われようと構わない。
 今回のことで自分を愛してくれない人に好かれようとすることほど虚しいことはない、と骨身に染みて感じたのだ。
 
「可愛いことを言う」
 
 暁刃は澪を抱き寄せ、頬に軽い口づけを落とした。
 
(もう一人じゃない……)
 
 ここはもう、あの座敷牢ではない。
 鬼の一族の当主にして番という圧倒的な存在が彼女を守ってくれている。
 本家の屋敷に向けて歩を進める二人の背を、人々は羨望の混じった視線で見つめていた。