夢を見た__。
静かな午後の木漏れ日の中、桜の木が見える寝室で、母が愛おしいそうに自分の寝顔を見て微笑んだ。
病に蝕まれた体は思うように動かない。それでも、母は痛みに耐えながら上体を起こすと、側に丸まって寝ている優子の頭に、そっと片手を乗せた。
『……ごめんね。先に逝くお母さんを許して……』
窓からキラキラと優しい日差しが降り注ぐ。
母は優子の額に、自分の額を寄せる。
『大丈夫。いつか必ず、あなたを大切に想う人に出逢える』
温かい母の声に、優子の両の目から涙が流れる。
「お母さん……」
呟き、恋しい母の面影を感じながら目を覚ますと、そこは寒くて、冷たい、暗い蔵の中だった。
(……そうだ。私……)
小百合によって蔵の中に閉じ込められたことを思い出す。
いつの間にか、眠りに落ちてしまっていたようだ。
あれから、どれだけ時間が経ったのだろうか。朝も夜も分からない蔵の中は、精神を追い込んでいき、食べ物や飲み物が与えられることもなく、体はだんだんと衰弱していった。
(私、このまま死ぬのかな……)
ハサミで切られた片手を押さえる優子。
刺すような痛みはまだ感じるが、幸いなことに血は止まってくれようだ。
ふと、着物の袖に違和感を感じる。上体をお越し、袖の中を手探りすると、枯れ葉のようなものが入っていた。
なぜこんなところに枯れ葉が……。
疑問に思っていると、自分の身体を包む羽織を思い出す。
(黒羽さん……)
青紫は大丈夫だろうか。自分のせいで、何か痛いことはされていないだろうか。
あんなに助けてもらったのに、何も返すことができなかった。
「蛍、綺麗だったな……」
すでに懐かしく感じる思い出に、優子は弱々しく微笑む。
ゆっくりと上体を倒し、目を閉じる優子。
目を閉じれば、今もあの美しい光景が見える。自分の人生において、一番、幸せだった時。
忘れないでいたい。忘れたくない。
その思いから、虚だった優子の瞳に光が宿る。
高場に嫁入りすることが決まっている以上、新之助と小百合は自分を殺すようなことはしない。自分にはまだ利用価値がある。理由は分からないが、二人は早急に優子を嫁入りさせようとしている。
あとほんの少し時間が立てたば、この蔵からは出られる。出たところで地獄であることには変わりない……。だが、こんなところで死ぬわけにいかない。この人生がどれだけ惨めであっても、生きることだけは、自分の手で終わらせることはしない。
助けてくれた青紫のためにも、生きたかった。
扉の向こう側から足音が近づいてくる。優子は上体を起こし、その足音に耳を澄ませる。
足音は扉の前で止まる。重厚な扉が音を立て開かれ、優子は光の眩しさに目を細める。暗闇の中で閉ざされていた視界が段々とハッキリとし、そこに立っているのが新之助だと分かる。後ろにはメイドが一人、立っている。メイドの額には冷や汗が滲んでいた。目を逸らしたくなるような光景を前に、緊張している様子だ。
外は太陽が沈みかけている。今は夕暮れ時のようだ。
蔵の中に足を踏み入れた新之助は、優子の前に立つと、冷めた目で優子を見下ろした。
「さすがに死にはしないか」
新之助は独り言のようにそう呟くと、優子の手に握られていた、切り裂かれたスカーフに視線を落とす。
「小百合が随分と腹を立てていたようだから、そのままにさせておいたが……」
優子の目の前にしゃがみ込んだ新之助は、優子の顔をじっと見る。
「……随分と痩せたな。まだ三日だというのに」
三日……今日で三日経っていたのか。もっと長い時間ここにいたように感じる。
何も言わない優子に、新之助はああという顔をする。
「水も飲まずにいたから、声も出ないか」
新之助は後ろに控えていたメイドに目配せすると、メイドは優子の隣にしゃがみ込み、水が入ったコップを優子に差し出した。
コップを受け取った優子は、迷わず水を口にする。
「ゴホッ……ゴホッ……ッ」
あまりにも喉が渇いていたせいで、一気に水を飲みむせてしまう。植物に命が吹き返したように、乾いていた喉が潤っていくのを感じる。
「嫁入り日が決まった」
その言葉に、優子は顔を上げる。
「明日の正午、お前は身一つで高馬の屋敷に行ってもらう」
身一つ。新之助のその言葉に、優子は疑問を感じた。二人なら、人形のように自分を飾り付けると思っていた。
疑わしそうにする優子に、新之助は何かを隠すかのような咳払いをする。
「高場は早くお前に会いたいと言っている。祝言なども要らぬと」
高馬が言い出しそうなことだが、それにしてもまた強引な。
「簡単な身支度を整えたら出発しろ」
新之助はそれだけ言うと、蔵を出て行こうとする。
その時__。
不思議な気配を優子は感じ取る。
蔵の外に視線をやると、茂みが不自然に揺れ動いていた。目を凝らし茂みを見ると、そこにはウサギの妖怪の姿があった。閉じ込められてしまった優子を見て、体を震わせるウサギ。優子と目が合うと、ウサギは慌てふためく。どうにしかしようとしてくれているのだ。
(ウサギ……っ)
「お待ちください」
優子の声に、新之助は足を止める。優子は肩にかけられていた青紫の羽織をぎゅっと握る。頭に浮かんだのは、青紫が一度だけ見せてくれた、心からの笑み。その笑みに、優子の口元に小さな笑みが浮かぶ。
(ありがとう……)
優子はスッと笑みを引っ込めると、正座をし、姿勢を正す。そして、真っ直ぐに新之助を見上げた。
「お願いがあります。あの方を牢から出してください」
優子の言葉に、新之助は振り向く。
「高場様の元へ嫁入りし、高場様の言うことを何なりと聞き、前園家に莫大な資産をもたらすことをお約束いたします。ですから……」
優子は両手で三角形を作り地面に置き、その上に額をつける。
「どうかお願いいたします。あの方をお助けください」
ずっと……いろんなことを諦めてきた人生だった。与えられているように見えて、奪われてきた優子の人生。だが、そんな人生の中でも、希望は捨てなかった。これだけは、諦めきれない願いだった。
__愛し、愛される人生を送ること。
それはもう叶わない。だがせめて、せめて青紫を守りたい……。ひと時でも、自分を幸せにしてくれた、青紫のことを__。
「……」
頭を下げ続ける優子を冷酷に見下ろす新之助。どれくらいの時間だっただろうか、長い沈黙の後、新之助は口を開いた。
「お前が人に頭を下げるとはな。なぜあの男のためにそこまでする? 警官からあの男のことを聞いたが、終始不敵な笑みを浮かべ気味が悪いと」
訝し気にそう言った新之助は、優子のことを全く理解できない様子だ。
側からみれば、優子は全てを持って産まれた完璧な人間。美貌、権力、地位、財力、それは多くの人間が手にすることを望むのかもしれない。だか、その全ては優子にとって、何の価値もないものだった。
「……私が欲しかったもの……それは、無償の愛です」
何の見返りもなく自分に手を差し伸べてくれ、愛してくれること。その無償の愛こそ、孤独に生きてきた優子が渇望するほどに、求めていたものだった。
「彼は……この世でただ一人だけ、何の見返りもなく、私を助けてくれた人です」
呪いのようなこの容姿も、なぜ与えられたのかも分からないこの能力も、何を知っても、青紫は優子を否定しなかった。
「確かに、彼は何を考えているのか分かりません。でも、優しい瞳で私を見て、微笑んでくれたのです」
それは嘘偽りのない、利益など考えていない、心からの笑み。
「彼は私という人を見て、手を貸してくださいました。そんな人は初めてです」
この先の人生、幸せとはかけ離れているだろう。それでも、最後に彼に出会えてよかったと思う。
「変わり者同士、気が合って何よりだ」
新之助は冷たくそう言い放つと、蔵を出ていく。
だが、優子はもう嘆かない。
扉は締まり、優子は再び暗闇の中に一人取り残される。
あの様子では、願いは聞き入ってもらえない。せめて、青紫の無事を一目確認できれば、心残りなくこの屋敷を出られるというのに……。
「……明日もう一度、新之助さんに頼もう……」
体を横に倒した優子は、青紫の羽織に顔をうずめる。
「温かい……」
優子の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
それに、彼の香りは落ち着く。
土……花……風……?
いや、違う。その香りではない。
これは、春の日差しのような香りだ。
何度か瞬きを繰り返すうちに、優子は再び眠りについた。
次に目を覚ました時、世界が一変しているとも思わずに__。
静かな午後の木漏れ日の中、桜の木が見える寝室で、母が愛おしいそうに自分の寝顔を見て微笑んだ。
病に蝕まれた体は思うように動かない。それでも、母は痛みに耐えながら上体を起こすと、側に丸まって寝ている優子の頭に、そっと片手を乗せた。
『……ごめんね。先に逝くお母さんを許して……』
窓からキラキラと優しい日差しが降り注ぐ。
母は優子の額に、自分の額を寄せる。
『大丈夫。いつか必ず、あなたを大切に想う人に出逢える』
温かい母の声に、優子の両の目から涙が流れる。
「お母さん……」
呟き、恋しい母の面影を感じながら目を覚ますと、そこは寒くて、冷たい、暗い蔵の中だった。
(……そうだ。私……)
小百合によって蔵の中に閉じ込められたことを思い出す。
いつの間にか、眠りに落ちてしまっていたようだ。
あれから、どれだけ時間が経ったのだろうか。朝も夜も分からない蔵の中は、精神を追い込んでいき、食べ物や飲み物が与えられることもなく、体はだんだんと衰弱していった。
(私、このまま死ぬのかな……)
ハサミで切られた片手を押さえる優子。
刺すような痛みはまだ感じるが、幸いなことに血は止まってくれようだ。
ふと、着物の袖に違和感を感じる。上体をお越し、袖の中を手探りすると、枯れ葉のようなものが入っていた。
なぜこんなところに枯れ葉が……。
疑問に思っていると、自分の身体を包む羽織を思い出す。
(黒羽さん……)
青紫は大丈夫だろうか。自分のせいで、何か痛いことはされていないだろうか。
あんなに助けてもらったのに、何も返すことができなかった。
「蛍、綺麗だったな……」
すでに懐かしく感じる思い出に、優子は弱々しく微笑む。
ゆっくりと上体を倒し、目を閉じる優子。
目を閉じれば、今もあの美しい光景が見える。自分の人生において、一番、幸せだった時。
忘れないでいたい。忘れたくない。
その思いから、虚だった優子の瞳に光が宿る。
高場に嫁入りすることが決まっている以上、新之助と小百合は自分を殺すようなことはしない。自分にはまだ利用価値がある。理由は分からないが、二人は早急に優子を嫁入りさせようとしている。
あとほんの少し時間が立てたば、この蔵からは出られる。出たところで地獄であることには変わりない……。だが、こんなところで死ぬわけにいかない。この人生がどれだけ惨めであっても、生きることだけは、自分の手で終わらせることはしない。
助けてくれた青紫のためにも、生きたかった。
扉の向こう側から足音が近づいてくる。優子は上体を起こし、その足音に耳を澄ませる。
足音は扉の前で止まる。重厚な扉が音を立て開かれ、優子は光の眩しさに目を細める。暗闇の中で閉ざされていた視界が段々とハッキリとし、そこに立っているのが新之助だと分かる。後ろにはメイドが一人、立っている。メイドの額には冷や汗が滲んでいた。目を逸らしたくなるような光景を前に、緊張している様子だ。
外は太陽が沈みかけている。今は夕暮れ時のようだ。
蔵の中に足を踏み入れた新之助は、優子の前に立つと、冷めた目で優子を見下ろした。
「さすがに死にはしないか」
新之助は独り言のようにそう呟くと、優子の手に握られていた、切り裂かれたスカーフに視線を落とす。
「小百合が随分と腹を立てていたようだから、そのままにさせておいたが……」
優子の目の前にしゃがみ込んだ新之助は、優子の顔をじっと見る。
「……随分と痩せたな。まだ三日だというのに」
三日……今日で三日経っていたのか。もっと長い時間ここにいたように感じる。
何も言わない優子に、新之助はああという顔をする。
「水も飲まずにいたから、声も出ないか」
新之助は後ろに控えていたメイドに目配せすると、メイドは優子の隣にしゃがみ込み、水が入ったコップを優子に差し出した。
コップを受け取った優子は、迷わず水を口にする。
「ゴホッ……ゴホッ……ッ」
あまりにも喉が渇いていたせいで、一気に水を飲みむせてしまう。植物に命が吹き返したように、乾いていた喉が潤っていくのを感じる。
「嫁入り日が決まった」
その言葉に、優子は顔を上げる。
「明日の正午、お前は身一つで高馬の屋敷に行ってもらう」
身一つ。新之助のその言葉に、優子は疑問を感じた。二人なら、人形のように自分を飾り付けると思っていた。
疑わしそうにする優子に、新之助は何かを隠すかのような咳払いをする。
「高場は早くお前に会いたいと言っている。祝言なども要らぬと」
高馬が言い出しそうなことだが、それにしてもまた強引な。
「簡単な身支度を整えたら出発しろ」
新之助はそれだけ言うと、蔵を出て行こうとする。
その時__。
不思議な気配を優子は感じ取る。
蔵の外に視線をやると、茂みが不自然に揺れ動いていた。目を凝らし茂みを見ると、そこにはウサギの妖怪の姿があった。閉じ込められてしまった優子を見て、体を震わせるウサギ。優子と目が合うと、ウサギは慌てふためく。どうにしかしようとしてくれているのだ。
(ウサギ……っ)
「お待ちください」
優子の声に、新之助は足を止める。優子は肩にかけられていた青紫の羽織をぎゅっと握る。頭に浮かんだのは、青紫が一度だけ見せてくれた、心からの笑み。その笑みに、優子の口元に小さな笑みが浮かぶ。
(ありがとう……)
優子はスッと笑みを引っ込めると、正座をし、姿勢を正す。そして、真っ直ぐに新之助を見上げた。
「お願いがあります。あの方を牢から出してください」
優子の言葉に、新之助は振り向く。
「高場様の元へ嫁入りし、高場様の言うことを何なりと聞き、前園家に莫大な資産をもたらすことをお約束いたします。ですから……」
優子は両手で三角形を作り地面に置き、その上に額をつける。
「どうかお願いいたします。あの方をお助けください」
ずっと……いろんなことを諦めてきた人生だった。与えられているように見えて、奪われてきた優子の人生。だが、そんな人生の中でも、希望は捨てなかった。これだけは、諦めきれない願いだった。
__愛し、愛される人生を送ること。
それはもう叶わない。だがせめて、せめて青紫を守りたい……。ひと時でも、自分を幸せにしてくれた、青紫のことを__。
「……」
頭を下げ続ける優子を冷酷に見下ろす新之助。どれくらいの時間だっただろうか、長い沈黙の後、新之助は口を開いた。
「お前が人に頭を下げるとはな。なぜあの男のためにそこまでする? 警官からあの男のことを聞いたが、終始不敵な笑みを浮かべ気味が悪いと」
訝し気にそう言った新之助は、優子のことを全く理解できない様子だ。
側からみれば、優子は全てを持って産まれた完璧な人間。美貌、権力、地位、財力、それは多くの人間が手にすることを望むのかもしれない。だか、その全ては優子にとって、何の価値もないものだった。
「……私が欲しかったもの……それは、無償の愛です」
何の見返りもなく自分に手を差し伸べてくれ、愛してくれること。その無償の愛こそ、孤独に生きてきた優子が渇望するほどに、求めていたものだった。
「彼は……この世でただ一人だけ、何の見返りもなく、私を助けてくれた人です」
呪いのようなこの容姿も、なぜ与えられたのかも分からないこの能力も、何を知っても、青紫は優子を否定しなかった。
「確かに、彼は何を考えているのか分かりません。でも、優しい瞳で私を見て、微笑んでくれたのです」
それは嘘偽りのない、利益など考えていない、心からの笑み。
「彼は私という人を見て、手を貸してくださいました。そんな人は初めてです」
この先の人生、幸せとはかけ離れているだろう。それでも、最後に彼に出会えてよかったと思う。
「変わり者同士、気が合って何よりだ」
新之助は冷たくそう言い放つと、蔵を出ていく。
だが、優子はもう嘆かない。
扉は締まり、優子は再び暗闇の中に一人取り残される。
あの様子では、願いは聞き入ってもらえない。せめて、青紫の無事を一目確認できれば、心残りなくこの屋敷を出られるというのに……。
「……明日もう一度、新之助さんに頼もう……」
体を横に倒した優子は、青紫の羽織に顔をうずめる。
「温かい……」
優子の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
それに、彼の香りは落ち着く。
土……花……風……?
いや、違う。その香りではない。
これは、春の日差しのような香りだ。
何度か瞬きを繰り返すうちに、優子は再び眠りについた。
次に目を覚ました時、世界が一変しているとも思わずに__。
