自宅に戻ると、優子は小百合から平手打ちをくらった。
「っ……!」
床に正座していた優子は、腫れ上がった頬を片手で押さえながら、烈火の如く怒る小百合を見上げた。
「あんたはっ……親を馬鹿にするのも大概にしなっ!!」
息を荒くし、今にでももう一発くらわせそうな勢いの小百合をメイドたちが宥める。
少しの期待もしていなかったが、行方が分からなくなっていた優子を二人が心配することはなかった。
汚れた着物に、額に巻かれた包帯を見ても何も問わない。むしろ、姿を消し自分たちを困らせたと思っていた。
「あんたがほっつき歩いている間に、誠一郎くんは、他の娘と縁談を決めたそうよ」
(そう言うことね……)
それを聞き、優子は小百合の行動に強く納得した。
小百合は今までどんなに優子を罵っても、手だけは上げなかった。商品とも言える優子に、少しの傷もつかないようにしていたからだ。その小百合がついに手を上げた。前園家にとって、一世一代のチャンスであった誠一郎との結婚。誠一郎が新たな相手と婚約したとなれば、前園家と長沼家の縁は完全に切れる。つまりは、優子に商品としての価値が無くなったことを意味する。
「一体、今まであんたにいくら使ったと思っているのよ。その分を返そうとは思わないわけ?」
見た目ばかりを美しくするものなんて、欲しがったことは一度もない。そう言ってやりたいが、今の小百合に何を言っても火に油を注ぐだけだ。
(耐えなければ……)
いつものように言い返してしまえば、今は何をされるか分からない。
「今、新之助さんが新たな縁談を持ってきてくれようとしているわ」
「……新たな、縁談?」
誠一郎との縁談が破談になったとはいえ、いくらなんでも早すぎではないか。
「あなたも聞いたことくらいはあるはずよ、宝石商の高場様」
「高場……」
高馬とは、帝都で宝石商をする男の名だ。宝石の貴重価値は年々上がり、最近では結婚指輪として宝石を送り合う者が増え、宝石商の高場家は羽振が良いらしく、かなりの額を稼いでいるとか。
しかし、高場は傍若無人で、金と女にだらしのない男だと噂に聞く。もし、本当に噂通りの男なら、この家にいるよりももっと残酷なことが待っているかもしれない。それに、高場は五十過ぎの男。それを分かっていて、新之助は縁談を申し込みに行っているというのか。
「高場様は、色白の若い娘が好きらしいわ」
小百合は着物の袖で口元を隠し、哀れな目で優子を見ながら言う。
(っ……なんてことをっ……)
高場がどんな男か、小百合は分かっている。つまりは、新之助も……。
「これが最後のチャンスよ。あんたがどれだけ喚こうとも、高場様と結婚してもらうわ。逃げられると思わないことね」
高場は華族でなければ、旧家の血筋でもない。生まれは貧しくいわば成金。小百合が一番嫌う存在のはず。今まで家柄を重視していた二人が、ここに来て財力だけで結婚相手を選んだ。噂とは本人の意図しないところで広まっていく。変わり者の無愛想な女を嫁にしたい男など、もうこの帝都にはいないのかもしれない。だから、少しでも利益のある高場と何がなんでも結婚させる気だ。
「そうそう、あの男のことだけど、牢屋に入れといてもらったわ」
やはりあの後、青紫あ警察に連れて行かれてしまったようだ。
(私のせいだ……)
優子は自責の念を感じた。
「あの方は何もしていません。私を助けてくれたのです。牢に入れるのは間違っています」
青紫がいなければ死んでいたかもしれない。手当をしてくれ、一緒に母のスカーフを探してくれた。それだけじゃない。あの時間、青紫と一緒にいたあの時間だけは、誠一郎のことも、妖怪が見えることで抱えていた煩わしさも、この家での苦しさも、全て忘れられていた。
「真実なんてどうだっていいのよ。よからぬ噂が立ったらどうしてくれるの? こっちが不利益になることだけは避けたいの」
「自分たちの体裁のために、罪のないものを牢に閉じ込めても構わないと?」
「そうよ」
一切、悪ぶる様子のない小百合に、優子は怒りを感じる。
(人ひとり人生を、なんだと思っているの?)
俯き肩を振るわせながら、両手の拳を握りしめる優子。
「何よ。文句でもあるわけ?」
何も言わず怒りを耐える優子に、小百合は顔を顰めると、優子が持っていたスカーフを無理矢理、取り上げた。
「なっ……返してください……!」
小百合は汚いものを触るかのように指先でスカーフを摘み上げると、忌々しそうにスカーフを見る。
「このスカーフ、あんたの母親が使っていたものだそうけど、ずいぶん大事なものみたいね」
小百合はそう言い、何か良いことを思いついたようにニヤリと口の端を釣り上げると、棚からハサミを取り出した。
嫌な予感がした。
「っこんなもの……!!」
「何を!」
立ち上がった優子が止める間もなく、小百合はスカーフをハサミで切り裂く。目の前で母の形見である大事なスカーフがズタズタに切り裂かれていく。メイドたちが唖然とその様を見ている中、優子は声を上げ必死に手を伸ばす。
「やめて……!!」
小百合が優子を押しのける。その拍子に、小百合の持っていたハサミの先が優子の手に甲に当たり切れてしまう。
「うっ……!」
押しのけられた優子は床にドカッと尻餅をつく。
手の甲からは血が流れ、腕を通り床に滴り落ちる。
痛みから、優子は片手を押さえ込んだ。
「やめて……もう、やめてよ……」
優子の弱々しく乞う声など耳に届くはずもなく、小百合はスカーフを切り刻み続ける。優子はただその光景を見ていることしかできなかった。
無惨な姿になったスカーフは、ゴミのように地面に散らばった。
小百合は清々した顔をして、スカーフを見下ろす。
(そんな……)
優子はゆっくりと切り刻まれたスカーフに手を伸ばす。
「ふんっ、無様ね」
小百合に嘲笑われても、無我夢中でスカーフを拾い集め続ける。
「そんな物の何がいいのか」
(酷い……酷い……っ)
優子は込み上げてくる悲しみと苦しみに耐えながら、傷を負った手を動かす。
「なぜここまでするのですか……?」
今までどんなことにも耐えてきた。だが、これはあまりにも酷いことだ。
「なぜ……!!」
両の目に涙を浮かべ叫ぶ優子を、小百合は冷酷に見下ろす。
「……あんたが悪いのよ」
「私が一体、何をしたというのですか! 私はっ……私はただ……っ」
__自由に、生きたいだけ……。
「蔵に閉じ込めて」
「……嫌……」
首を横に振る優子。
蔵は寒くて……冷たくて……真っ暗……。
小百合の言葉に頷いた用心棒は、嫌がる優子の手首を乱暴に掴むと強引に立たせ、廊下に連れ出そうとする。
「嫌よ離して!!」
優子は必死に抵抗を試みるが、屈強な男相手に華奢な優子が太刀打ちできるはずもなく、廊下を引きずられようにして外に連れて行かれてしまう。
用心棒は投げ込むように優子を蔵に入れる。
「待って……!!」
立ち上がり扉に駆け寄るが、乞うこともできずに、バッンと大きな音を立て、扉は閉まる。ガチャっと鍵がかけられた音がする。完全に閉じ込められてしまった。
(そんな……)
窓もない蔵は月明かりも届かない。
優子は暗闇の中に一人ぼっちになった。
「お願いよ……ここから出して……っ……」
(ここは嫌……寒くて……冷たくて……真っ暗……)
物置き場として使われている蔵に、人が近寄ることはまずない。叫んだところで誰も助けになんて来ない。普段、気前よく世話をしてくれるメイドも、小百合には歯向かえない。歯向かえば、仕事を失うと分かっているから。
足掻いたところでどうにもならない。
手の中に残った母のスカーフを握りしめ、体を横に倒した優子はうずくまり、声を押し殺して泣いた。
「っ……!」
床に正座していた優子は、腫れ上がった頬を片手で押さえながら、烈火の如く怒る小百合を見上げた。
「あんたはっ……親を馬鹿にするのも大概にしなっ!!」
息を荒くし、今にでももう一発くらわせそうな勢いの小百合をメイドたちが宥める。
少しの期待もしていなかったが、行方が分からなくなっていた優子を二人が心配することはなかった。
汚れた着物に、額に巻かれた包帯を見ても何も問わない。むしろ、姿を消し自分たちを困らせたと思っていた。
「あんたがほっつき歩いている間に、誠一郎くんは、他の娘と縁談を決めたそうよ」
(そう言うことね……)
それを聞き、優子は小百合の行動に強く納得した。
小百合は今までどんなに優子を罵っても、手だけは上げなかった。商品とも言える優子に、少しの傷もつかないようにしていたからだ。その小百合がついに手を上げた。前園家にとって、一世一代のチャンスであった誠一郎との結婚。誠一郎が新たな相手と婚約したとなれば、前園家と長沼家の縁は完全に切れる。つまりは、優子に商品としての価値が無くなったことを意味する。
「一体、今まであんたにいくら使ったと思っているのよ。その分を返そうとは思わないわけ?」
見た目ばかりを美しくするものなんて、欲しがったことは一度もない。そう言ってやりたいが、今の小百合に何を言っても火に油を注ぐだけだ。
(耐えなければ……)
いつものように言い返してしまえば、今は何をされるか分からない。
「今、新之助さんが新たな縁談を持ってきてくれようとしているわ」
「……新たな、縁談?」
誠一郎との縁談が破談になったとはいえ、いくらなんでも早すぎではないか。
「あなたも聞いたことくらいはあるはずよ、宝石商の高場様」
「高場……」
高馬とは、帝都で宝石商をする男の名だ。宝石の貴重価値は年々上がり、最近では結婚指輪として宝石を送り合う者が増え、宝石商の高場家は羽振が良いらしく、かなりの額を稼いでいるとか。
しかし、高場は傍若無人で、金と女にだらしのない男だと噂に聞く。もし、本当に噂通りの男なら、この家にいるよりももっと残酷なことが待っているかもしれない。それに、高場は五十過ぎの男。それを分かっていて、新之助は縁談を申し込みに行っているというのか。
「高場様は、色白の若い娘が好きらしいわ」
小百合は着物の袖で口元を隠し、哀れな目で優子を見ながら言う。
(っ……なんてことをっ……)
高場がどんな男か、小百合は分かっている。つまりは、新之助も……。
「これが最後のチャンスよ。あんたがどれだけ喚こうとも、高場様と結婚してもらうわ。逃げられると思わないことね」
高場は華族でなければ、旧家の血筋でもない。生まれは貧しくいわば成金。小百合が一番嫌う存在のはず。今まで家柄を重視していた二人が、ここに来て財力だけで結婚相手を選んだ。噂とは本人の意図しないところで広まっていく。変わり者の無愛想な女を嫁にしたい男など、もうこの帝都にはいないのかもしれない。だから、少しでも利益のある高場と何がなんでも結婚させる気だ。
「そうそう、あの男のことだけど、牢屋に入れといてもらったわ」
やはりあの後、青紫あ警察に連れて行かれてしまったようだ。
(私のせいだ……)
優子は自責の念を感じた。
「あの方は何もしていません。私を助けてくれたのです。牢に入れるのは間違っています」
青紫がいなければ死んでいたかもしれない。手当をしてくれ、一緒に母のスカーフを探してくれた。それだけじゃない。あの時間、青紫と一緒にいたあの時間だけは、誠一郎のことも、妖怪が見えることで抱えていた煩わしさも、この家での苦しさも、全て忘れられていた。
「真実なんてどうだっていいのよ。よからぬ噂が立ったらどうしてくれるの? こっちが不利益になることだけは避けたいの」
「自分たちの体裁のために、罪のないものを牢に閉じ込めても構わないと?」
「そうよ」
一切、悪ぶる様子のない小百合に、優子は怒りを感じる。
(人ひとり人生を、なんだと思っているの?)
俯き肩を振るわせながら、両手の拳を握りしめる優子。
「何よ。文句でもあるわけ?」
何も言わず怒りを耐える優子に、小百合は顔を顰めると、優子が持っていたスカーフを無理矢理、取り上げた。
「なっ……返してください……!」
小百合は汚いものを触るかのように指先でスカーフを摘み上げると、忌々しそうにスカーフを見る。
「このスカーフ、あんたの母親が使っていたものだそうけど、ずいぶん大事なものみたいね」
小百合はそう言い、何か良いことを思いついたようにニヤリと口の端を釣り上げると、棚からハサミを取り出した。
嫌な予感がした。
「っこんなもの……!!」
「何を!」
立ち上がった優子が止める間もなく、小百合はスカーフをハサミで切り裂く。目の前で母の形見である大事なスカーフがズタズタに切り裂かれていく。メイドたちが唖然とその様を見ている中、優子は声を上げ必死に手を伸ばす。
「やめて……!!」
小百合が優子を押しのける。その拍子に、小百合の持っていたハサミの先が優子の手に甲に当たり切れてしまう。
「うっ……!」
押しのけられた優子は床にドカッと尻餅をつく。
手の甲からは血が流れ、腕を通り床に滴り落ちる。
痛みから、優子は片手を押さえ込んだ。
「やめて……もう、やめてよ……」
優子の弱々しく乞う声など耳に届くはずもなく、小百合はスカーフを切り刻み続ける。優子はただその光景を見ていることしかできなかった。
無惨な姿になったスカーフは、ゴミのように地面に散らばった。
小百合は清々した顔をして、スカーフを見下ろす。
(そんな……)
優子はゆっくりと切り刻まれたスカーフに手を伸ばす。
「ふんっ、無様ね」
小百合に嘲笑われても、無我夢中でスカーフを拾い集め続ける。
「そんな物の何がいいのか」
(酷い……酷い……っ)
優子は込み上げてくる悲しみと苦しみに耐えながら、傷を負った手を動かす。
「なぜここまでするのですか……?」
今までどんなことにも耐えてきた。だが、これはあまりにも酷いことだ。
「なぜ……!!」
両の目に涙を浮かべ叫ぶ優子を、小百合は冷酷に見下ろす。
「……あんたが悪いのよ」
「私が一体、何をしたというのですか! 私はっ……私はただ……っ」
__自由に、生きたいだけ……。
「蔵に閉じ込めて」
「……嫌……」
首を横に振る優子。
蔵は寒くて……冷たくて……真っ暗……。
小百合の言葉に頷いた用心棒は、嫌がる優子の手首を乱暴に掴むと強引に立たせ、廊下に連れ出そうとする。
「嫌よ離して!!」
優子は必死に抵抗を試みるが、屈強な男相手に華奢な優子が太刀打ちできるはずもなく、廊下を引きずられようにして外に連れて行かれてしまう。
用心棒は投げ込むように優子を蔵に入れる。
「待って……!!」
立ち上がり扉に駆け寄るが、乞うこともできずに、バッンと大きな音を立て、扉は閉まる。ガチャっと鍵がかけられた音がする。完全に閉じ込められてしまった。
(そんな……)
窓もない蔵は月明かりも届かない。
優子は暗闇の中に一人ぼっちになった。
「お願いよ……ここから出して……っ……」
(ここは嫌……寒くて……冷たくて……真っ暗……)
物置き場として使われている蔵に、人が近寄ることはまずない。叫んだところで誰も助けになんて来ない。普段、気前よく世話をしてくれるメイドも、小百合には歯向かえない。歯向かえば、仕事を失うと分かっているから。
足掻いたところでどうにもならない。
手の中に残った母のスカーフを握りしめ、体を横に倒した優子はうずくまり、声を押し殺して泣いた。
