窓の外には、閑静な田舎が広がっている。
「あの……本当にここで降りられるのですか?」
物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す運転手。
「ええ、ここで降ります」
優子の返答に、運転手は車を降りようとする。
「あっ、大丈夫です。三十分ほどで戻りますから」
そう言うと、優子は自分でドアを開け、車を降りる。
外はどんよりとしていて、今にでも雨が降ってきそうな天気だ。
こんな気分には、ちょうどいい天気だ。
優子は持っていた布で髪を覆った。
髪を覆うのは、桜色のスカーフ。このスカーフは、優子の母の形見だ。外に出る時は、煩わしい視線を少しでも避けるために、こうして髪を隠している。それに、母の形見であるこのスカーフを傍に置いておくと、少しは安心できた。
木と草に囲まれた小道を歩く。
田舎は空気が新鮮で、人もほとんどおらず、心が落ち着く。
あれから、誠一郎が屋敷を訪ねてきた。
話がしたい。
誠一郎は強く懇願してきたそうだが、優子は会わないの一点張りだった。それがさらに小百合の怒りを勝ったようで、外出禁止を命じられた。誠一郎に裏切られたショックと、小百合からの罵倒の日々に、心身ともに疲れ切っていた優子は、どこに行く気力もなく、言われた通りしばらくの間、屋敷を出なかった。
(誠一郎さん、追って来てくれなかった……)
あの時、ベッドの上でもつれ合う二人を見て、早くあの場から立ち去りたいという思いはあった。だが、歩くスピードは至って普通、いや、いつもよりはゆっくりとした足取りであの屋敷を出た。使用人にも引き止められた。時間は十分にあったはず。それに、鞄を忘れていることに気づいたのは、きっと誠一郎だ。弁解の余地がなくとも、追いかける理由はあった。それなのに、誠一郎は追いかけてきてくれなかった。
それが、誠一郎の自分に対する想いのような気がした。
そこでふと、足を止めた。
道端で女がうずくまっていたのだ。
「どうかされましたか?」
優子は近寄り声をかけるも、女はうずくまったままで何も言わない。
「あの……ご体調でも悪いのですか?」
言いながら、優子は女の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「……ってる」
「え?」
シワのある口元で、女はぶつぶつ何かを言っているが、聞き取れず、優子は女の口元に耳を近づける。
「なんですか?」
「いいものを……持って……いる」
っと、次の瞬間。
「ぐっ……!」
立ち上がった女は、乱暴に優子の首を掴むと、そのまま体勢を崩し、優子に覆い被さり、優子は地面に押さえつけられる。
「こんな細い首、すぐにへし折ってやるわい……!!」
(妖怪……!!)
女の顔は泥のように溶け出し原型がなく、両目は真っ黒く穴が空いているかのようだ。
「っぐっ……っ!」
首を絞める力はどんどん強まり、優子は息が出来ず、足をジタバタとさせる。
(っ……このままでは殺される……!)
優子は必死に片手を伸ばし、地面の砂を掴み取ると、妖怪の顔に向かって投げる。
「グアアアアッ!」
妖怪は悶え、優子は立ち上がると一目散に走り出す。
「オノレェェ……コムスメ……マテェェ……!!」
逆上した妖怪が、烈火の勢いで優子を追ってくる。運転手に助けを求めようと、車が待機している方向に逃げるも、足を止めた。
(ダメだ……巻き込んでしまう)
人の話し声がする。見ると、若い男女がこちらに向かって歩いて来ていた。
どこか人のいないところに行かなくては。
辺りを見回すと、人気のない生い茂った道を見つけ、優子は両手で草をかき分けながら進んだ。茂みを抜けると、そこには石階段があった。
(あんなところに石階段なんて、あったかしら……?)
石階段は霧に包まれ、不気味な雰囲気を漂わせている。
この先に進んだら、この世でないどこかに消えてしまいそうだ。
「マテェェ……マテェェ……」
声がして後ろを振り向くと、妖怪がすぐそこまで来ていた。
躊躇っている暇はない。
優子は両手で着物の裾を広げるようにして持ち上げると、石階段に片足を乗せた。
その瞬間、どこからともなく冷たい風が、優子の頬を撫でた。氷のような冷たさとは裏腹に、優しく撫でるかのような風に温かさを感じ、優子は息を呑んだ。
それはまるで、自分のことを待ち望んだ誰かが、迎え入れてくれているかのようだった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
息を切らしながら、必死に石階段を上がる。疲れから足はおぼつき、霧は徐々に濃くなり、視界が悪くなる。
あの妖怪はどうしてここまでして自分を追うのか。それに、いいものを持っているとは、一体、何のことを言って……。
「あっ……!」
階段を踏み外し、顔から前に倒れ込んでしまう。
額から刺すような痛みを感じ、顔を歪める。
片手で額に触れると、ペチャっと何かがついた。
血だ。
石で額を切ってしまったようだ。血は頬を通り、顎まで伝う。
「くっ……」
優子は歯を食いしばると、自分を奮い立たせる。
(立つのよ……ここで諦めてはダメ)
立ち上がり、おぼつかない足を引きずり、一歩一歩、石階段を上がる。
なんとか上まで辿りつくと、そこは静寂に包まれ、朝か夜かも分からない、不思議な空間が広がっていた。
どこかに身を隠せる場所はないか。そう思い辺りを見回すも、霧が濃くてよく見えない。
「ヨコ、セ……ヨコ、セ……ソレヲヨコセ……」
霧の中、すぐ後ろから、妖怪の声が聞こえる。
もう追いつかれてしまった。
必死に足を動かすも、上手く歩けない。身体はすでに限界に達している。
引きずっていた足が絡まり合い、優子はその場に崩れるように横倒しになる。
「ツカマエタ」
妖怪はすかさず優子に襲いかかる。
(もう、ダメだ……食われる……)
諦めかけた、その時だった。
空から、漆黒の翼を羽ばたかせた、黒い何かが舞い降りてくる。優子は途絶えそうになる意識の中、朧げな視界で空を見上げ、霧をかき分け舞い降りてくるその様を見ていた。
(……妖怪? いや、人……?)
地に舞い降りた黒い何かは、優子の華奢な肩を掴むと引き寄せる。そして、守るように優子を包み込んだ。
「オ、オマエハ……!!」
黒い何かを見て、大きく気を動転させる妖怪。
「__去れ」
気高い声が聞こえたかと思うと、目を開けていられないほどの眩しい青い光が放たれ、優子は咄嗟に目を瞑った。
「ギャアァァァァァ__!!」
妖怪の苦痛な叫び声が響き渡る。
「……逃げたか。まぁいい」
黒い何かはそう呟くと、腕に抱いていた優子を見る。
優子は気を失っていた。
「……」
力なく目を閉じる優子を数秒見つめると、黒い何かは優子の膝裏に両手を差し込み、そっと抱き上げる。そして、そのまま優子を連れ、深い森の奥へと消えた。
「あの……本当にここで降りられるのですか?」
物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す運転手。
「ええ、ここで降ります」
優子の返答に、運転手は車を降りようとする。
「あっ、大丈夫です。三十分ほどで戻りますから」
そう言うと、優子は自分でドアを開け、車を降りる。
外はどんよりとしていて、今にでも雨が降ってきそうな天気だ。
こんな気分には、ちょうどいい天気だ。
優子は持っていた布で髪を覆った。
髪を覆うのは、桜色のスカーフ。このスカーフは、優子の母の形見だ。外に出る時は、煩わしい視線を少しでも避けるために、こうして髪を隠している。それに、母の形見であるこのスカーフを傍に置いておくと、少しは安心できた。
木と草に囲まれた小道を歩く。
田舎は空気が新鮮で、人もほとんどおらず、心が落ち着く。
あれから、誠一郎が屋敷を訪ねてきた。
話がしたい。
誠一郎は強く懇願してきたそうだが、優子は会わないの一点張りだった。それがさらに小百合の怒りを勝ったようで、外出禁止を命じられた。誠一郎に裏切られたショックと、小百合からの罵倒の日々に、心身ともに疲れ切っていた優子は、どこに行く気力もなく、言われた通りしばらくの間、屋敷を出なかった。
(誠一郎さん、追って来てくれなかった……)
あの時、ベッドの上でもつれ合う二人を見て、早くあの場から立ち去りたいという思いはあった。だが、歩くスピードは至って普通、いや、いつもよりはゆっくりとした足取りであの屋敷を出た。使用人にも引き止められた。時間は十分にあったはず。それに、鞄を忘れていることに気づいたのは、きっと誠一郎だ。弁解の余地がなくとも、追いかける理由はあった。それなのに、誠一郎は追いかけてきてくれなかった。
それが、誠一郎の自分に対する想いのような気がした。
そこでふと、足を止めた。
道端で女がうずくまっていたのだ。
「どうかされましたか?」
優子は近寄り声をかけるも、女はうずくまったままで何も言わない。
「あの……ご体調でも悪いのですか?」
言いながら、優子は女の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「……ってる」
「え?」
シワのある口元で、女はぶつぶつ何かを言っているが、聞き取れず、優子は女の口元に耳を近づける。
「なんですか?」
「いいものを……持って……いる」
っと、次の瞬間。
「ぐっ……!」
立ち上がった女は、乱暴に優子の首を掴むと、そのまま体勢を崩し、優子に覆い被さり、優子は地面に押さえつけられる。
「こんな細い首、すぐにへし折ってやるわい……!!」
(妖怪……!!)
女の顔は泥のように溶け出し原型がなく、両目は真っ黒く穴が空いているかのようだ。
「っぐっ……っ!」
首を絞める力はどんどん強まり、優子は息が出来ず、足をジタバタとさせる。
(っ……このままでは殺される……!)
優子は必死に片手を伸ばし、地面の砂を掴み取ると、妖怪の顔に向かって投げる。
「グアアアアッ!」
妖怪は悶え、優子は立ち上がると一目散に走り出す。
「オノレェェ……コムスメ……マテェェ……!!」
逆上した妖怪が、烈火の勢いで優子を追ってくる。運転手に助けを求めようと、車が待機している方向に逃げるも、足を止めた。
(ダメだ……巻き込んでしまう)
人の話し声がする。見ると、若い男女がこちらに向かって歩いて来ていた。
どこか人のいないところに行かなくては。
辺りを見回すと、人気のない生い茂った道を見つけ、優子は両手で草をかき分けながら進んだ。茂みを抜けると、そこには石階段があった。
(あんなところに石階段なんて、あったかしら……?)
石階段は霧に包まれ、不気味な雰囲気を漂わせている。
この先に進んだら、この世でないどこかに消えてしまいそうだ。
「マテェェ……マテェェ……」
声がして後ろを振り向くと、妖怪がすぐそこまで来ていた。
躊躇っている暇はない。
優子は両手で着物の裾を広げるようにして持ち上げると、石階段に片足を乗せた。
その瞬間、どこからともなく冷たい風が、優子の頬を撫でた。氷のような冷たさとは裏腹に、優しく撫でるかのような風に温かさを感じ、優子は息を呑んだ。
それはまるで、自分のことを待ち望んだ誰かが、迎え入れてくれているかのようだった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
息を切らしながら、必死に石階段を上がる。疲れから足はおぼつき、霧は徐々に濃くなり、視界が悪くなる。
あの妖怪はどうしてここまでして自分を追うのか。それに、いいものを持っているとは、一体、何のことを言って……。
「あっ……!」
階段を踏み外し、顔から前に倒れ込んでしまう。
額から刺すような痛みを感じ、顔を歪める。
片手で額に触れると、ペチャっと何かがついた。
血だ。
石で額を切ってしまったようだ。血は頬を通り、顎まで伝う。
「くっ……」
優子は歯を食いしばると、自分を奮い立たせる。
(立つのよ……ここで諦めてはダメ)
立ち上がり、おぼつかない足を引きずり、一歩一歩、石階段を上がる。
なんとか上まで辿りつくと、そこは静寂に包まれ、朝か夜かも分からない、不思議な空間が広がっていた。
どこかに身を隠せる場所はないか。そう思い辺りを見回すも、霧が濃くてよく見えない。
「ヨコ、セ……ヨコ、セ……ソレヲヨコセ……」
霧の中、すぐ後ろから、妖怪の声が聞こえる。
もう追いつかれてしまった。
必死に足を動かすも、上手く歩けない。身体はすでに限界に達している。
引きずっていた足が絡まり合い、優子はその場に崩れるように横倒しになる。
「ツカマエタ」
妖怪はすかさず優子に襲いかかる。
(もう、ダメだ……食われる……)
諦めかけた、その時だった。
空から、漆黒の翼を羽ばたかせた、黒い何かが舞い降りてくる。優子は途絶えそうになる意識の中、朧げな視界で空を見上げ、霧をかき分け舞い降りてくるその様を見ていた。
(……妖怪? いや、人……?)
地に舞い降りた黒い何かは、優子の華奢な肩を掴むと引き寄せる。そして、守るように優子を包み込んだ。
「オ、オマエハ……!!」
黒い何かを見て、大きく気を動転させる妖怪。
「__去れ」
気高い声が聞こえたかと思うと、目を開けていられないほどの眩しい青い光が放たれ、優子は咄嗟に目を瞑った。
「ギャアァァァァァ__!!」
妖怪の苦痛な叫び声が響き渡る。
「……逃げたか。まぁいい」
黒い何かはそう呟くと、腕に抱いていた優子を見る。
優子は気を失っていた。
「……」
力なく目を閉じる優子を数秒見つめると、黒い何かは優子の膝裏に両手を差し込み、そっと抱き上げる。そして、そのまま優子を連れ、深い森の奥へと消えた。
