青紫に続き、車を降りる優子。優子は見知った屋敷を見上げた。
(……もう二度と、ここには来ないと思っていた)
「お待ちしておりました。黒羽様」
出迎えてくれた執事長は、青紫に向かって丁寧にお辞儀をすると、隣に立つ優子に目を向ける。
「お久しぶりでございます。優子様」
執事長はそう言い、優子に微笑んだ。
「お久しぶりです」
執事長に会うのも、あの日以来だ。
「どうぞ、中で当主がお待ちです」
優子は深呼吸をすると、屋敷の中に足を踏み入れた。
青紫と共に屋敷の中に通され、客間に入ると、そこには誠一郎の姿がある。
誠一郎は優子を見ると、大きく動揺した。
「ど、どうして優子さんが……」
優子も一瞬、驚くが、すぐに冷静な顔つきになる。執事長は当主が待っていると言った。つまり、誠一郎は正式に爵位を継いだ。ということは、婚約したという話も本当だったようだ。
優子は青紫と並び、誠一郎の正面の椅子に腰掛けた。
事の発端は、数日前のこと。手紙を受け取った青紫から伝えられたのは、ある伯爵家からの依頼のことだった。屋敷の中で妖怪が悪さをするから祓ってほしいと依頼され、以前一度、青紫が屋敷に赴き屋敷の中を調査したそうだが、妖怪の姿は見当たらず、特に変わった様子はなかったという。しばらく様子見をしていたが、どうやら、暴れ出してしまったのだと言う。
『もしかしすると、優子さんなら、何か分かるかもしれないですね』
『その伯爵家とは?』
『長沼家です』
行かないという選択もできた。だが、優子はそうしなかった。この屋敷に来ている時、奇妙な気配を感じてはいた。その事実を無視することができなかった。それが理由の一つだ。
客間の空気が重いように、優子の気持ちも重かった。だが、もうやると決めたのだ。腹を括らなければ。
優子は自分を律し、毅然とした態度を見せる。正面に座る優子に、気まずそうに顔を俯かせる誠一郎。青紫はそんな二人の様子を伺うように見ると、口を開いた。
「今回のご依頼ですが、私一人では力及ばず。妻にも協力してもらうことにしました」
「えっ……」
誠一郎は俯かせていた顔を上げ、青紫を見ると、隣の優子に視線を向ける。
「妻も私と同じで、妖怪を見ることができます」
誠一郎は驚いた顔で優子を見る。
「君が、妖怪を……? じゃあ、あの噂は嘘ではなく、本当だったのか……」
混乱したような顔をして、何かを考え込む誠一郎。誠一郎の耳にも、優子のあの噂__妖怪が見えると言う真実が、入っていたのだろう。
「ぼ、僕は__」
「ご依頼内容を聞かせていただいても?」
誠一郎は焦ったような顔で優子を見て、何かを言いかけようとしたが、青紫により、それは遮られた。
「あっ、はい……」
誠一郎は肩を落とすと、気を取り直し、屋敷であったこと話し始めた。
「一ヶ月ほど前になります」
夜中、ベッドで寝ていた誠一郎が目を覚ますと、天井からガタガタと物音がしていた。
「最初はネズミか何かと思ったんです。でも、そういうことが何日も続いて、日中に屋敷を歩いていると、誰かに見られているような感じがするんです」
優子もこの屋敷に来るたびに、誰かに見られているような感じがしていた。
優子が感じていた奇妙な気配と、この屋敷を混乱させている何かは結びつくのかもしれない。
「黒羽さんが一度、屋敷に来てくださってからは、しばらく何もなかったのですが、最近、また同じようなことが起こり始めて……。昨日なんて、夜中に誰かに首を絞められたりもして、このまま殺されるのかと思いました……」
よく見ると、誠一郎の目の下にはクマがある。ずっと、寝られてないようだ。
「なるほど、それは早急に祓った方が良さそうだ。私が以前、こちらにお伺いした時、妖怪の残影も感じられなかった。ですが、今回は妻がいます」
優子を見て、柔らかな笑みを浮かべる青紫。
(青紫さん……私のことを信じてくれて)
青紫の期待に応えたい。優子は青紫を見て力強く頷くと、真っ直ぐに誠一郎を見た。
「はい、ご安心下さい。必ず、祓ってみせます」
妖怪を傷つけたくはない。けど、青紫の力になりたい。その想いは、何にも勝っている。
「……よろしくお願いします」
優子と青紫の確固たる絆を前に、誠一郎の顔には影が差す。
「まずは手がかりを掴むため、屋敷の中を捜索しましょう」
「分かりました」
青紫とは玄関を入れた一階を、優子は二階を捜索することに。
優子は寝室から客室まで、部屋の中を隅々まで見たが、特に変わったところはないように思えた。廊下をいくら歩いていても、あの日のように嫌な視線も感じない。どこかに隠れてるのか。だが、一体どうやって。妖怪の血を引く青紫が残影を感じられないとは、もしかすると、この屋敷にいる妖怪は、異能持ちの妖怪で、何かの術を使って隠れている可能性も考えられる。
花の優美な香りが、鼻の奥を刺激する。廊下の先の窓が、開放的に開けられている。確かあそこには、テラスがあったはずだ。土の香りがする風に手招きされるように、優子はテラスへと歩み出す。テラスに入って、すぐに足を止めた。誠一郎の姿があったのだ。誠一郎は手すりに両腕を預け、深いため息をついている。ふと後ろを向いた誠一郎が、優子に気づく。
「優子さん……」
「失礼いたしました」
優子はそう言い、背中を折り曲げ一例すると、誠一郎に背を向け、そのまま立ち去ろうとする。
「待ってくれ……!」
誠一郎の言葉に立ち止まった優子は、振り向き言う。
「あの時と同じですね」
その言葉に、誠一郎は気まずそうに俯いた。
「……少し、話をしないか」
「私と二人でいるのは、奥様がよく思われないとかと」
優子の言葉に、誠一郎は訝し気な顔をする。
「僕に妻はいない」
「でも、ご結婚されたから、爵位を継がれたのでは?」
誠一郎の父は、男は家庭を持って一人前という考え方をしている人で、爵位を継ぐのは結婚をしてからだと、口うるさく言われていた。だからてっきり、結婚をしたのだとばかり思っていた。
「それは、父が体調を崩しがちで、体に負担がかからないように、僕が当主になっただけであって」
「え……お父様、ご体調がよろしくないのですか?」
心配げに問う優子に、誠一郎は弱々しく笑みを浮かる。
「相変わらず優しいね。自分よりも、他人を優先するっていうのかな、そんな君が好きだった」
優子は少しムッとしたような表情を浮かべる。
「よく平気でそんなことが言えますね」
(そっちが浮気したくせに)
誠一郎は申し訳なさそうに、身をすくめる。
「ごめん……。テラスからの眺めを見ない?」
切り替えるような明るい笑みを浮かべそう言う誠一郎。
「結構です」
優子はスパッと断る。誠一郎の望みに沿うようで癪に触ったのだ。
「そう言わず、何かわかるかもしれないだろ?」
「それは、そうですけど……」
「さあ」と手で促してくる誠一郎。優子は小さく息をつくと、仕方がなくテラスに足を踏み入れる。テラスからの眺めは悪くなかった。二階建てとはいえ、高さのある長沼家の屋敷は見晴らしもよく、帝都も見える。目の前に広がる庭園には、四季折々の花が咲いてて、彩られ美しい。前園家にも庭園はあったが、伯爵家である長沼家の庭園は比べ物にならないくらいに面積が広い。さすがは華族の中でも上位の爵位を持つ長沼家だ。だが、優子のとっての美しい庭とは、青紫がくれたあの小さな裏庭だ。あの裏庭にまさる庭は、この世にないのだ。
「家が火事になったって、新聞で見たよ。心配してたんだ。新之助さんと小百合はさんは、元気にしてる?」
「どうでしょう。家を出てから会っていないので」
誠一郎は知らない、あの家で、優子がどんな扱いを受けていたのか。蔑視と冷遇に耐える日々。
「黒羽さんとは、夫婦……なんだよね」
「ええ」
「結婚……したんだね」
「ええ」
誠一郎は分かりやすく落胆した表情を見せる。
「そんな顔、やめてください。まるで私が悪いみたいです」
「ご、ごめん……」
(すぐに謝る……気の弱いところは変わってないのね)
誠一郎と夫婦になっていれば、あの家とも縁を切れず、妖怪に怯える毎日だったはずだ。
「馬鹿なことをしたと、これでも反省しているんだ。君を傷つけた。僕たちは、夫婦になるはずだった。君を大切にしないといけなかったのに、あろうことか、僕は……」
強い後悔を抱えているのか、思い詰めた顔をする誠一郎。しかし、どんな懺悔があっても、過ぎ去ったことは変わらない。
「もう、過去のことです」
気丈な態度でそう言った優子に、誠一郎はハッとした顔をすると、悲しそうに俯いた。
「……そう、だよね」
会釈をすると、優子は誠一郎に背を向け歩き出す。迷うことない、確かな足取りで進む優子。そんな優子を誠一郎が引き止めることはしなかった。
踵を返し歩いていると、後ろから人の足音が聞こえた。ドンッドンッドンッと騒がしい音で、足の踵で地面を蹴っているような、大きな音だった。後ろを振り向くが、そこには誰もおらず、同時に足音も止まった。
気のせいか。
そう思い、再び歩き出すと、それに倣うように足音も聞こえた。
「……」
再び足を止めると、後ろから聞こえてくる足音も止まった。
(おかしい……)
止まると止まって、歩くと足音が聞こえる。誰かにつけられているかのようだ。だが、誰の姿も見えない。
もしや、妖怪……?
歩きながら顔だけ後ろに振り向かせるが、やはりそこには誰もない。足音はどんどん大きくなり、優子は徐々に恐怖を感じ始めた。
(なんなの一体。怖いわ……)
優子が歩くスペードを速めると、足音も速まる。走り出すと、足音も走り出す。人間一人が走っている足音にしては大きく。何か大きなものが近づいているような気がした。
っと、次の瞬間。
「うっ……!」
大きな物体のようなものが優子の上に覆い被さり、優子は地面に倒れ込んだ。
(何……!?)
地面に押さえつけられるも、這いつくばりながら両手を動かし、必死に逃げようとするが、重くて動けない。
(重い……どうしてこんなに重いの)
「くっ……!」
胸元から妖除けの札を出そうとするも、思うように体が動かせず、出せない。
このままでは踏み殺されてしまう。
一か八か、やるしかない。
優子はそこにいるであろう妖怪目掛け、腕を思いっきり横に振るった。
「グアァァァァ……!!」
(当たった……!)
妖怪が怯んだ隙に急いで立ち上がると、一目散に走り、廊下の角を曲がった。
「っ……!」
角を曲がった瞬間、何かにぶつかり、優子は尻餅をつきそうになるが、力強い腕が、優子の腰に回され体を支えた。
「優子さん……」
突然現れた優子に、青紫は驚いた。
「どうしましたか」
少し乱れた着物、怯えている優子に、青紫はすぐに何かを察した。冷静に問う青紫に、優子は首を横に振る。
「分からない……分からないんです。後をつけられているみたいだったんですけど、姿が見えないんです。覆い被さられて、動けなくなって、私……っ」
(息が、できない……)
胸を鷲掴みにされているかのように苦しくて、酸素が体の中に上手く入っていかない。どんなに息を吸っても、息はできず、苦しくなる一方だ。
「優子さん……!?」
ガクガクと体を震わせる、必死に息を吸い込もうとしている優子に、青紫は過呼吸になっていると気づいた。青紫は優子を抱きしめると、後頭部に手を当て、ゆっくりと頭を撫でる。
「ゆっくり大きく息を吐いて、呼吸を整えましょう」
優子は言われた通り、ゆっくりと大きく息を吐き、乱れていた息を整えようとする。
「大丈夫です。私はここにいます」
青紫の優しい抱擁と声に、徐々に落ち着気を取り戻していく優子。
(あれ……どうしてだろう……なんだか、力抜けていく……)
呼吸が安定し、青紫がいることで安堵したのか、優子の体からはストッパーが外れたかのように、力が抜け、優子は青紫の胸に顔をうずめた。騒ぎを聞きつけてやって来たであろう誠一郎は、青紫の腕の中にいる疲れ切った優子を見て、驚いた様子でその場に立ち尽くした。
「一体、何が……」
「少し休ませていただいてもいいでしょうか?」
「もちろんです」
青紫は優子の膝裏に両腕を通し横抱きにすると、客間へと移動した。
(……もう二度と、ここには来ないと思っていた)
「お待ちしておりました。黒羽様」
出迎えてくれた執事長は、青紫に向かって丁寧にお辞儀をすると、隣に立つ優子に目を向ける。
「お久しぶりでございます。優子様」
執事長はそう言い、優子に微笑んだ。
「お久しぶりです」
執事長に会うのも、あの日以来だ。
「どうぞ、中で当主がお待ちです」
優子は深呼吸をすると、屋敷の中に足を踏み入れた。
青紫と共に屋敷の中に通され、客間に入ると、そこには誠一郎の姿がある。
誠一郎は優子を見ると、大きく動揺した。
「ど、どうして優子さんが……」
優子も一瞬、驚くが、すぐに冷静な顔つきになる。執事長は当主が待っていると言った。つまり、誠一郎は正式に爵位を継いだ。ということは、婚約したという話も本当だったようだ。
優子は青紫と並び、誠一郎の正面の椅子に腰掛けた。
事の発端は、数日前のこと。手紙を受け取った青紫から伝えられたのは、ある伯爵家からの依頼のことだった。屋敷の中で妖怪が悪さをするから祓ってほしいと依頼され、以前一度、青紫が屋敷に赴き屋敷の中を調査したそうだが、妖怪の姿は見当たらず、特に変わった様子はなかったという。しばらく様子見をしていたが、どうやら、暴れ出してしまったのだと言う。
『もしかしすると、優子さんなら、何か分かるかもしれないですね』
『その伯爵家とは?』
『長沼家です』
行かないという選択もできた。だが、優子はそうしなかった。この屋敷に来ている時、奇妙な気配を感じてはいた。その事実を無視することができなかった。それが理由の一つだ。
客間の空気が重いように、優子の気持ちも重かった。だが、もうやると決めたのだ。腹を括らなければ。
優子は自分を律し、毅然とした態度を見せる。正面に座る優子に、気まずそうに顔を俯かせる誠一郎。青紫はそんな二人の様子を伺うように見ると、口を開いた。
「今回のご依頼ですが、私一人では力及ばず。妻にも協力してもらうことにしました」
「えっ……」
誠一郎は俯かせていた顔を上げ、青紫を見ると、隣の優子に視線を向ける。
「妻も私と同じで、妖怪を見ることができます」
誠一郎は驚いた顔で優子を見る。
「君が、妖怪を……? じゃあ、あの噂は嘘ではなく、本当だったのか……」
混乱したような顔をして、何かを考え込む誠一郎。誠一郎の耳にも、優子のあの噂__妖怪が見えると言う真実が、入っていたのだろう。
「ぼ、僕は__」
「ご依頼内容を聞かせていただいても?」
誠一郎は焦ったような顔で優子を見て、何かを言いかけようとしたが、青紫により、それは遮られた。
「あっ、はい……」
誠一郎は肩を落とすと、気を取り直し、屋敷であったこと話し始めた。
「一ヶ月ほど前になります」
夜中、ベッドで寝ていた誠一郎が目を覚ますと、天井からガタガタと物音がしていた。
「最初はネズミか何かと思ったんです。でも、そういうことが何日も続いて、日中に屋敷を歩いていると、誰かに見られているような感じがするんです」
優子もこの屋敷に来るたびに、誰かに見られているような感じがしていた。
優子が感じていた奇妙な気配と、この屋敷を混乱させている何かは結びつくのかもしれない。
「黒羽さんが一度、屋敷に来てくださってからは、しばらく何もなかったのですが、最近、また同じようなことが起こり始めて……。昨日なんて、夜中に誰かに首を絞められたりもして、このまま殺されるのかと思いました……」
よく見ると、誠一郎の目の下にはクマがある。ずっと、寝られてないようだ。
「なるほど、それは早急に祓った方が良さそうだ。私が以前、こちらにお伺いした時、妖怪の残影も感じられなかった。ですが、今回は妻がいます」
優子を見て、柔らかな笑みを浮かべる青紫。
(青紫さん……私のことを信じてくれて)
青紫の期待に応えたい。優子は青紫を見て力強く頷くと、真っ直ぐに誠一郎を見た。
「はい、ご安心下さい。必ず、祓ってみせます」
妖怪を傷つけたくはない。けど、青紫の力になりたい。その想いは、何にも勝っている。
「……よろしくお願いします」
優子と青紫の確固たる絆を前に、誠一郎の顔には影が差す。
「まずは手がかりを掴むため、屋敷の中を捜索しましょう」
「分かりました」
青紫とは玄関を入れた一階を、優子は二階を捜索することに。
優子は寝室から客室まで、部屋の中を隅々まで見たが、特に変わったところはないように思えた。廊下をいくら歩いていても、あの日のように嫌な視線も感じない。どこかに隠れてるのか。だが、一体どうやって。妖怪の血を引く青紫が残影を感じられないとは、もしかすると、この屋敷にいる妖怪は、異能持ちの妖怪で、何かの術を使って隠れている可能性も考えられる。
花の優美な香りが、鼻の奥を刺激する。廊下の先の窓が、開放的に開けられている。確かあそこには、テラスがあったはずだ。土の香りがする風に手招きされるように、優子はテラスへと歩み出す。テラスに入って、すぐに足を止めた。誠一郎の姿があったのだ。誠一郎は手すりに両腕を預け、深いため息をついている。ふと後ろを向いた誠一郎が、優子に気づく。
「優子さん……」
「失礼いたしました」
優子はそう言い、背中を折り曲げ一例すると、誠一郎に背を向け、そのまま立ち去ろうとする。
「待ってくれ……!」
誠一郎の言葉に立ち止まった優子は、振り向き言う。
「あの時と同じですね」
その言葉に、誠一郎は気まずそうに俯いた。
「……少し、話をしないか」
「私と二人でいるのは、奥様がよく思われないとかと」
優子の言葉に、誠一郎は訝し気な顔をする。
「僕に妻はいない」
「でも、ご結婚されたから、爵位を継がれたのでは?」
誠一郎の父は、男は家庭を持って一人前という考え方をしている人で、爵位を継ぐのは結婚をしてからだと、口うるさく言われていた。だからてっきり、結婚をしたのだとばかり思っていた。
「それは、父が体調を崩しがちで、体に負担がかからないように、僕が当主になっただけであって」
「え……お父様、ご体調がよろしくないのですか?」
心配げに問う優子に、誠一郎は弱々しく笑みを浮かる。
「相変わらず優しいね。自分よりも、他人を優先するっていうのかな、そんな君が好きだった」
優子は少しムッとしたような表情を浮かべる。
「よく平気でそんなことが言えますね」
(そっちが浮気したくせに)
誠一郎は申し訳なさそうに、身をすくめる。
「ごめん……。テラスからの眺めを見ない?」
切り替えるような明るい笑みを浮かべそう言う誠一郎。
「結構です」
優子はスパッと断る。誠一郎の望みに沿うようで癪に触ったのだ。
「そう言わず、何かわかるかもしれないだろ?」
「それは、そうですけど……」
「さあ」と手で促してくる誠一郎。優子は小さく息をつくと、仕方がなくテラスに足を踏み入れる。テラスからの眺めは悪くなかった。二階建てとはいえ、高さのある長沼家の屋敷は見晴らしもよく、帝都も見える。目の前に広がる庭園には、四季折々の花が咲いてて、彩られ美しい。前園家にも庭園はあったが、伯爵家である長沼家の庭園は比べ物にならないくらいに面積が広い。さすがは華族の中でも上位の爵位を持つ長沼家だ。だが、優子のとっての美しい庭とは、青紫がくれたあの小さな裏庭だ。あの裏庭にまさる庭は、この世にないのだ。
「家が火事になったって、新聞で見たよ。心配してたんだ。新之助さんと小百合はさんは、元気にしてる?」
「どうでしょう。家を出てから会っていないので」
誠一郎は知らない、あの家で、優子がどんな扱いを受けていたのか。蔑視と冷遇に耐える日々。
「黒羽さんとは、夫婦……なんだよね」
「ええ」
「結婚……したんだね」
「ええ」
誠一郎は分かりやすく落胆した表情を見せる。
「そんな顔、やめてください。まるで私が悪いみたいです」
「ご、ごめん……」
(すぐに謝る……気の弱いところは変わってないのね)
誠一郎と夫婦になっていれば、あの家とも縁を切れず、妖怪に怯える毎日だったはずだ。
「馬鹿なことをしたと、これでも反省しているんだ。君を傷つけた。僕たちは、夫婦になるはずだった。君を大切にしないといけなかったのに、あろうことか、僕は……」
強い後悔を抱えているのか、思い詰めた顔をする誠一郎。しかし、どんな懺悔があっても、過ぎ去ったことは変わらない。
「もう、過去のことです」
気丈な態度でそう言った優子に、誠一郎はハッとした顔をすると、悲しそうに俯いた。
「……そう、だよね」
会釈をすると、優子は誠一郎に背を向け歩き出す。迷うことない、確かな足取りで進む優子。そんな優子を誠一郎が引き止めることはしなかった。
踵を返し歩いていると、後ろから人の足音が聞こえた。ドンッドンッドンッと騒がしい音で、足の踵で地面を蹴っているような、大きな音だった。後ろを振り向くが、そこには誰もおらず、同時に足音も止まった。
気のせいか。
そう思い、再び歩き出すと、それに倣うように足音も聞こえた。
「……」
再び足を止めると、後ろから聞こえてくる足音も止まった。
(おかしい……)
止まると止まって、歩くと足音が聞こえる。誰かにつけられているかのようだ。だが、誰の姿も見えない。
もしや、妖怪……?
歩きながら顔だけ後ろに振り向かせるが、やはりそこには誰もない。足音はどんどん大きくなり、優子は徐々に恐怖を感じ始めた。
(なんなの一体。怖いわ……)
優子が歩くスペードを速めると、足音も速まる。走り出すと、足音も走り出す。人間一人が走っている足音にしては大きく。何か大きなものが近づいているような気がした。
っと、次の瞬間。
「うっ……!」
大きな物体のようなものが優子の上に覆い被さり、優子は地面に倒れ込んだ。
(何……!?)
地面に押さえつけられるも、這いつくばりながら両手を動かし、必死に逃げようとするが、重くて動けない。
(重い……どうしてこんなに重いの)
「くっ……!」
胸元から妖除けの札を出そうとするも、思うように体が動かせず、出せない。
このままでは踏み殺されてしまう。
一か八か、やるしかない。
優子はそこにいるであろう妖怪目掛け、腕を思いっきり横に振るった。
「グアァァァァ……!!」
(当たった……!)
妖怪が怯んだ隙に急いで立ち上がると、一目散に走り、廊下の角を曲がった。
「っ……!」
角を曲がった瞬間、何かにぶつかり、優子は尻餅をつきそうになるが、力強い腕が、優子の腰に回され体を支えた。
「優子さん……」
突然現れた優子に、青紫は驚いた。
「どうしましたか」
少し乱れた着物、怯えている優子に、青紫はすぐに何かを察した。冷静に問う青紫に、優子は首を横に振る。
「分からない……分からないんです。後をつけられているみたいだったんですけど、姿が見えないんです。覆い被さられて、動けなくなって、私……っ」
(息が、できない……)
胸を鷲掴みにされているかのように苦しくて、酸素が体の中に上手く入っていかない。どんなに息を吸っても、息はできず、苦しくなる一方だ。
「優子さん……!?」
ガクガクと体を震わせる、必死に息を吸い込もうとしている優子に、青紫は過呼吸になっていると気づいた。青紫は優子を抱きしめると、後頭部に手を当て、ゆっくりと頭を撫でる。
「ゆっくり大きく息を吐いて、呼吸を整えましょう」
優子は言われた通り、ゆっくりと大きく息を吐き、乱れていた息を整えようとする。
「大丈夫です。私はここにいます」
青紫の優しい抱擁と声に、徐々に落ち着気を取り戻していく優子。
(あれ……どうしてだろう……なんだか、力抜けていく……)
呼吸が安定し、青紫がいることで安堵したのか、優子の体からはストッパーが外れたかのように、力が抜け、優子は青紫の胸に顔をうずめた。騒ぎを聞きつけてやって来たであろう誠一郎は、青紫の腕の中にいる疲れ切った優子を見て、驚いた様子でその場に立ち尽くした。
「一体、何が……」
「少し休ませていただいてもいいでしょうか?」
「もちろんです」
青紫は優子の膝裏に両腕を通し横抱きにすると、客間へと移動した。
