祓い屋である青紫が仕事に行く時間は様々。早朝に家を出ることも多かったが、どんなに朝が早くとも、家を出る際、優子は青紫を見送った。
この日も、青紫は早朝から仕事に行く予定だった。優子はまだ眠い目をこすりながら布団から起き上がると、冷水で顔を洗い目を覚まさせる。そして身なりを整えると部屋を出た。
台所に立ち一番始めにするのは、お米を炊くこと。必要な薪は青紫が手の空いた時に割ってくれている。薪を釜戸に入れると火をつけ、その間に今日の朝ご飯のおかずを作る。氷箱からきゅうりのぬか漬を取り出し、まな板の上に置く。左手は猫の手を意識して、右手で包丁を握る。焦らずゆっくりと包丁を動かすと同時に、左手もスライドするように動かしていく。これがなかなか難しい。前園家にいる時は、怪我をしないようにと家事は一切やらず、この屋敷に来るまで包丁すら握ったことがなかった優子は、何をするにも苦戦した。雑巾を絞る時は、横ではなく縦にする方が水が絞れることや、洗濯物を干すときは皺を伸ばしたり、お米は研がなければ食べられなかったりと、そんな簡単なことすらも、優子は多江に教わらなければ知らなかった。自分の無知さと不器用さに落ち込むこともあったが、多江の励ましもあり、なんとか頑張れていた。
台所の襖が開かれ、多江が入って来る。
「おはようございます」
「おはようございます」
多江は優子の手元を見ると、微笑む。
「良くできていますよ」
「ありがとうございます」
多江は優しい。困っていると手を差し伸べてくれ、頑張っている時は後ろからそっと見守ってくれる。転んだから大丈夫だと手を差し出してくれ、一緒に歩こうと支えてくれる。もしかしたら、母親の愛情というものは、こういうものなのかもしれない。優子はそう思った。優しいのは青紫もだ。味付けを失敗してしまった時でも、おかずの切り方が不恰好でも、美味しいと言って食べてくれる。
おにぎりを握り終わり時計を見ると、時計の針は青紫が仕事へ行く時間になっていた。優子は作ったおにぎりを風呂敷に入れると、急ぎ玄関へ向かう。
「おはようございます」
玄関にはすでに青紫の姿があった。
腰を下ろし、草履を履いていた青紫は、優子の声に振り向く。
「毎回、見送らなくてもいいのに」
足早に自分の元にやって来た優子に、苦笑いをする青紫。だが、その笑みはどこか嬉しそうだ。
「いえ、これも妻の務めですから」
言いながら、優子は青紫の側に正座をする。
「もっと肩の力を抜いてくれていいんですよ。祝言の日にもお伝えしましたが、私はあなたに妻として何かを強要することはありません」
世間体を気にして、良い妻でいようと思う必要はないし、後継ぎを産もうというプレッシャーも背負わなくていい。祝言をあげた日の夜、青紫が優子に言ったことだ。二人に初夜というものはなく、寝室も別々。優子は普通の夫婦のように、同じ部屋で夜を共にすると思っていたが、青紫は裏庭が見える景色の綺麗な部屋を優子に与えたのだ。
夫婦といえど、青紫が望んでいるのは形だけのもの、これは利害一致で結んだ婚姻。やっと、道具ではなく人になれた。自分はただの優子でいていい。
それでも……。
「それは分かっていますが、私が黒羽さんを支えたいから、だから見送るではダメですか……?」
「優子さん……」
優子がそんな風に言うと思っていなかったのか、青紫は驚いて言葉が出なかった。
(あっ……これは少し、ストレートすぎだったかしら……)
二人の間に気まずい沈黙が流れる。その流れを断ち切るように、黒カラスの鳴き声がする。
「よく鳴くカラスだ」
「ふふっ……」
呆れ笑いをしそう言う青紫に、優子はつられて笑ってしまう。
あの黒カラスは、青紫が八咫烏だと分かって親近感が湧いているのか、屋敷があるこの森を住み家として、番犬の様な役割をしているのだとか。
「帰りは夕方頃になるかと」
「はい。あの、これ……」
優子は持っていた風呂敷を青紫に差し出す。
「これは?」
「おにぎりを作ってみました。朝ごはんを食べていないでしょう? お仕事の合間にでもいいので、食べられたらと思って。迷惑でしたらすいません」
優子の自信なさげな表情と声に、青紫は微笑むと、風呂敷を受け取る。
「ありがとうござます。仕事の楽しみができました」
青紫のその言葉に、優子の顔には笑みが浮かぶ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
そう言い立ち上がった青紫は、側に置いていた白い筒を背負う。
(今日も持っていくのね)
白い筒の中には弓が入っていると、前に言っていた。弓はなんのために使っているのかと聞いたことがあったが、それははぐらかされた。気にならなくもなかったが、これ以上無理に聞くのもと思い、追求することはしなかった。
(何事もなく、無事に帰ってきますように)
青紫の背中を見つめ、優子は心の中で願った。
この日も、青紫は早朝から仕事に行く予定だった。優子はまだ眠い目をこすりながら布団から起き上がると、冷水で顔を洗い目を覚まさせる。そして身なりを整えると部屋を出た。
台所に立ち一番始めにするのは、お米を炊くこと。必要な薪は青紫が手の空いた時に割ってくれている。薪を釜戸に入れると火をつけ、その間に今日の朝ご飯のおかずを作る。氷箱からきゅうりのぬか漬を取り出し、まな板の上に置く。左手は猫の手を意識して、右手で包丁を握る。焦らずゆっくりと包丁を動かすと同時に、左手もスライドするように動かしていく。これがなかなか難しい。前園家にいる時は、怪我をしないようにと家事は一切やらず、この屋敷に来るまで包丁すら握ったことがなかった優子は、何をするにも苦戦した。雑巾を絞る時は、横ではなく縦にする方が水が絞れることや、洗濯物を干すときは皺を伸ばしたり、お米は研がなければ食べられなかったりと、そんな簡単なことすらも、優子は多江に教わらなければ知らなかった。自分の無知さと不器用さに落ち込むこともあったが、多江の励ましもあり、なんとか頑張れていた。
台所の襖が開かれ、多江が入って来る。
「おはようございます」
「おはようございます」
多江は優子の手元を見ると、微笑む。
「良くできていますよ」
「ありがとうございます」
多江は優しい。困っていると手を差し伸べてくれ、頑張っている時は後ろからそっと見守ってくれる。転んだから大丈夫だと手を差し出してくれ、一緒に歩こうと支えてくれる。もしかしたら、母親の愛情というものは、こういうものなのかもしれない。優子はそう思った。優しいのは青紫もだ。味付けを失敗してしまった時でも、おかずの切り方が不恰好でも、美味しいと言って食べてくれる。
おにぎりを握り終わり時計を見ると、時計の針は青紫が仕事へ行く時間になっていた。優子は作ったおにぎりを風呂敷に入れると、急ぎ玄関へ向かう。
「おはようございます」
玄関にはすでに青紫の姿があった。
腰を下ろし、草履を履いていた青紫は、優子の声に振り向く。
「毎回、見送らなくてもいいのに」
足早に自分の元にやって来た優子に、苦笑いをする青紫。だが、その笑みはどこか嬉しそうだ。
「いえ、これも妻の務めですから」
言いながら、優子は青紫の側に正座をする。
「もっと肩の力を抜いてくれていいんですよ。祝言の日にもお伝えしましたが、私はあなたに妻として何かを強要することはありません」
世間体を気にして、良い妻でいようと思う必要はないし、後継ぎを産もうというプレッシャーも背負わなくていい。祝言をあげた日の夜、青紫が優子に言ったことだ。二人に初夜というものはなく、寝室も別々。優子は普通の夫婦のように、同じ部屋で夜を共にすると思っていたが、青紫は裏庭が見える景色の綺麗な部屋を優子に与えたのだ。
夫婦といえど、青紫が望んでいるのは形だけのもの、これは利害一致で結んだ婚姻。やっと、道具ではなく人になれた。自分はただの優子でいていい。
それでも……。
「それは分かっていますが、私が黒羽さんを支えたいから、だから見送るではダメですか……?」
「優子さん……」
優子がそんな風に言うと思っていなかったのか、青紫は驚いて言葉が出なかった。
(あっ……これは少し、ストレートすぎだったかしら……)
二人の間に気まずい沈黙が流れる。その流れを断ち切るように、黒カラスの鳴き声がする。
「よく鳴くカラスだ」
「ふふっ……」
呆れ笑いをしそう言う青紫に、優子はつられて笑ってしまう。
あの黒カラスは、青紫が八咫烏だと分かって親近感が湧いているのか、屋敷があるこの森を住み家として、番犬の様な役割をしているのだとか。
「帰りは夕方頃になるかと」
「はい。あの、これ……」
優子は持っていた風呂敷を青紫に差し出す。
「これは?」
「おにぎりを作ってみました。朝ごはんを食べていないでしょう? お仕事の合間にでもいいので、食べられたらと思って。迷惑でしたらすいません」
優子の自信なさげな表情と声に、青紫は微笑むと、風呂敷を受け取る。
「ありがとうござます。仕事の楽しみができました」
青紫のその言葉に、優子の顔には笑みが浮かぶ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
そう言い立ち上がった青紫は、側に置いていた白い筒を背負う。
(今日も持っていくのね)
白い筒の中には弓が入っていると、前に言っていた。弓はなんのために使っているのかと聞いたことがあったが、それははぐらかされた。気にならなくもなかったが、これ以上無理に聞くのもと思い、追求することはしなかった。
(何事もなく、無事に帰ってきますように)
青紫の背中を見つめ、優子は心の中で願った。
