救えない愚者<ギャンブラー>

最初の音は、コインが転がる音だった。



カラン、と乾いた金属音が、暗闇の中でやけに大きく響く。

目を開けると、天井の低い白い部屋にいた。消毒液の匂い。壁はコンクリート、出口は一つも見当たらない。部屋にあるのは、コインのある環孔材の机と椅子、モニターのみだった。



パチンコ店を出たところまでは覚えているが、その後を思い出せない。

考えているうちに、正面の壁のモニターが点灯した。



【ようこそ、ファミリー・チャンスへ】



機械音声だった。感情の起伏が一切ない、くぐもった声。



【ここでは、あなたの「選択」によって、賭けが行われます】

【賭けに勝てば、借金をチャラにしましょう】



賭け。

その言葉に、胃の奥がきしんだ。



俺の名前は佐伯圭介。三十五歳。

ギャンブルで作った借金は四百万。競馬、パチンコ、オンラインカジノ。

妻の美咲は、それでも何も言わなかった。

小学生の娘、紬(つむぎ)は、俺が帰るたび「おかえり。」と笑った。

【あなたが賭けるのは、お金だけではありません】



モニターの映像が切り替わる。

そこには――自宅のリビングが映っていた。

縛られた美咲と紬。口にはガムテープ。目だけが必死にこちらを見つめている。

喉から、声が出なかった。



【彼女たちは現在、安全です。ただしあなたの選択次第では――】

画面が暗転し、二つの選択肢が表示される。



【第一問】

A:コインを投げる

B:投げない



意味が分からない。

だが、選ばなければならないことだけは、嫌というほど分かった。

「……Aだ。」



震える指で、画面の下に置かれたコインを掴み、投げた。

床に落ちたコインは、表。



【成功】



映像に戻ったリビングで、娘の拘束が解かれる。

心臓が跳ねた。助かった。運が良かった。



【第二問】

A:もう一度コインを投げる

B:ここでやめる



やめる、という選択肢がある。

だが、やめたらどうなる?



「A」



また投げる。

今度は裏。



【失敗】



映像が切り替わる。

妻の足元に、赤い線が引かれ、その内側に刃が降りてくる。



「やめろ!!」



次の瞬間、妻の悲鳴が部屋に響いた。

血が床に広がる。

映像はすぐに消えた。



【ギャンブルとは、そういうものです】



俺は床に崩れ落ちた。



【第三問】

A:娘の命を賭ける

B:自分の命を賭ける



吐き気が込み上げる。

これはゲームじゃない。

俺の人生そのものだ。



「……B」



自分の命なら、まだいい。

娘だけは、守りたい。



部屋にガスが噴射された。

激痛。視界が歪む。



【生存率:三〇%】



意識が飛びかけた、その瞬間――



【成功】



運は味方のようだ。

モニターを見ると、妻が動かなくなっていた。

「……美咲?」返事は帰ってこない。



【第四問】

A:ゲームを続行

B:全てを終わらせる



続ければ、娘が助かるかもしれない。

終わらせれば――どうなる?



「A……。」



もう、後戻りできなかった。



【最終問】

A:娘を解放する

B:借金を帳消しにする



借金は残るがそんなことより紬だ。

「A」画面が切り替わる。



そこには、娘が立っていた。

縛られていない。泣いてもいない。



こちらを見て、微笑む。



【このゲームを提案したのは、彼女です】



頭が、理解を拒否した。



【彼女は、あなたが借金と家族、どちらを取るかを試していました】



娘が、口を開く。

「パパ、いつも選んでたでしょ。“次は勝てる”って」

小さな声だった。それが、何より恐ろしかった。



【最後の選択です】



画面に、二つの選択肢。



A:娘の死

B:全てを清算する



全てを清算する、とは。

問い返す間もなく、カウントダウンが始まる。



俺は、震える声で言った。

「……B。」

次の瞬間、視界が真っ白になった。

―――



病室で目を覚ます。点滴の音。消毒液の匂い。

医師が言った。



「目を覚ましたようですね。奥様とお嬢さんが来られています」

夢だったのか?そう思いかけた、その時。

枕元に、一枚のカードが置かれていた。



【次の賭けは、いつ始めますか?】



裏返すと、近くのコインが一枚、転がり落ちた。

俺はコインに伸びる手をただ見ていた、ただ堕ちていく愚者の瞳で。