猫かぶり君の、愛しい沼男君

 教科棟にある理科準備室は、教室棟より静かだった。

 だからだろう先に来て待っていると、階段の下から話し声がはっきりと聞こえてきた。たぶん、佐伯君と佐伯君の彼女だ。

 「しゅん君って優しいね。あの子、教室でも一人だもんね」
 二人の会話を聞いてしまうのは、よくないことだと分かっていた。でも「教室で一人」っていうのには、心当たりがある……僕だ。僕のことを話している?

 「そんな風に言うなよ。俺にも責任があるんだから……」
 (責任? 膝を抱えて扉の前にうずくまった。責任?)
 「一緒に修学旅行回りたかったなあ」
 彼女の声は甘えるようだった。
 「それについては話しただろう。ここまで追いかけてきて何が言いたいの?」
 佐伯君の苛立った声が聞こえる。そんな声出すんだ。

 遠のく足音と、近づく足音。
 僕は抱えていた膝をぎゅっと強く抱きしめた。
 佐伯君が僕を見下ろして、すごく驚いていた。

 「藤野……?」
 顔を上げそうになったのをこらえて、僕はじっと前を見た。
 「止める。やっぱり、佐伯君とは修学旅行一緒に回らない」
 僕はそう言って理科準備室に入り、鍵を閉めた。僕は扉越しに叫んだ。

 「佐伯君に責任なんてないよ。僕は僕が選んで一人なんだ!」

 何度か扉がガタガタと鳴ったけど、ちょっとすると静かになった。
 ぎゅっと強張っていた体が痛い。だからかな、涙がこぼれてきた。

 確かに教室では一人でいることが多かった。佐伯君ほど、そばにいて居心地良い人はいなかったから。だけどずっと一人だったわけじゃない。体育や移動教室は、誘ってくれる子もいた。ただなんとなく、休み時間は一人で静かに過ごしたいと思った。たぶん誰かとの会話で、あの時間を上書きしたくないって思っちゃったんだ。
 それなのに。
 彼にとってあの時間は、責任を感じるような時間だったのか。

 グラウンドを見ると、佐伯君はもう部活に出ていた。こっちを見たようにも見えたけど、僕はすぐに戸締りして家に帰った。また、下駄箱でエンカウントしても困る。
 夜、スマホに「ごめん」と一言だけ入っていた。僕はそれに何も返さなかった。

 数日後、風の噂であの子と、佐伯君が別れたと聞いた。僕にはどうしようもないことだ。
 でも、彼には僕がさみしそうに見えたんだ、と反省もした。だから、ずっと誘ってくれていた三好君、白石君、森川君のグループに身を寄せることにした。移動教室や体育のとき、何度も声をかけてくれていた。白石君と森川君も、僕が混じることを、歓迎するように受け入れてくれた。

 そして、学年集会で修学旅行の説明会が行われた。行き先は沖縄。一日目は平和学習。二日目は午前中が美ら海水族館、午後は琉球村。三日目が首里城、国際通りの自由行動だ。
 先生たちが「二日目のホテルを奮発しました」と言ってなんだか盛り上がっている。
 「なあ、どうする?」
 と三好君が聞いてきたのは、自由行動のことだった。あれから、佐伯君とは話していない。

 「じゃあ、自由行動の班を決めるから、それぞれ班を作って、できたら座って」
 先生がそう言い、笛を吹いた。

 僕はぼーっと三好君のそばに立っていた。
 「俺らは四人で良いよね」
 三好君がそう言うので、僕がうなずこうとした時だった。不意にグイっと手を引っ張られて振り返る。

 「藤野は俺と班組むから」
 声で分かった。佐伯君だ。

 「ああ、そかそか。仲良かったもんな二人」
 三好君たちはあっさり引いて、三人で班を組んでしまった。周りではどんどん班が決まっていって、座っていった。何か言い返そうにも、周りに人が多くて、何を言っていいかもわからなくて。佐伯君の宣言通り、僕らは二人で班を組むことになった。佐伯君のつかむ腕をじっと見てしまう。僕は逃げない。けど、逃げたのはどっちだよ。

 教室に戻ると、三好君たちは「困ったらいつでも言えよ」と言ってくれた。「ありがとう」と返事して僕は自分の席に戻った。佐伯君がつかんでいた腕を触ってみる。決まっちゃったなと思った。