あの夏祭りの夜、僕が泣いた理由

 ――時は少し遡る。

「今はやっぱりさ、ほら、妖怪といえどなぁ」

 火口桔嶺が階段を下りていると、一階のリビングから楽しそうな声が響いてきた。声の主は、分かっている。

 ――ウラドだ。

 耳を傾けていると、ウラドの明るい声が続いて聞こえてくる。

「働いて収入を得る時代だろ? 葉っぱを小判に変える時代は終わったんだ」

 果たして、吸血鬼であるウラドが、狸のように、木の葉を小判に変化させた事があるのか、火口には疑問だった。だが、さも当然だという風に響いてくるウラドの声を耳にしていると、特に言葉を挟もうとは思わない。なので、静かに火口は耳を澄ます。

 ウラドが話している相手は、綾香詩砂鳥(あやかしさとり)という名前の、外見は少年だ。

「働くって今更……何するの?」
「ん? 喫茶店」

 何気ない様子で、ウラドが答える。当然だと、そう言うような声音だった。実は火口は、事前にこの話を聞いていた。その時も、非常に唐突ではあったのだが。

「なぁ、火口」

 そう声をかけられたのは、昨夜の事だ。

「なんです?」
「お前さ、前に、人間のする『勉強』というものを、してみたいだのと、言っていたよな?」
「ええ、まぁ。なので僕は、相応に読書などをしていますよ」
「ほら! もっと、専門的に、勉強するっていうのはどうだ?」
「専門的?」
「大学生になる――楽しそうじゃないか? 大学に通え」

 ニヤリと笑ったウラドを見て、火口はこの時には、既にそれは決定であり、己が口を挟む余地は無いのだろうと、確信していた。実際、それは事実である。ウラドの決定は、ほぼ絶対と言える。嘆息してから、火口は改めてウラドを見た。

「何故、大学なんです?」
「ん? 火口の見た目が、まさに大学生だからだ」

 その声に、火口は吹き出しそうになった。妖怪であるから、見た目を変える事は、そう困難では無い。ある種の暗示をかければ、人間は火口の姿を、個々人の頭の中で、様々に認識するからだ。もっとも、確かに現在は固定して、二十代前半くらいの青年姿を、火口はとっている。

 薄い茶色の髪色に、それよりは少しだけ暗い土色の瞳だ。
 大学生と聞いたとしても、誰も疑問を抱かないだろう。

 さて――その後も火口は、階下から響いてくる、ウラドと砂鳥のやり取りを聞いていた。

 最終的に、砂鳥はウラドに言いくるめられていた。

 砂鳥の外見は、十代後半くらいに見えるのだが、彼は高校生になるわけではないそうだ。ウラドが思いつきで始める事にしたらしき、喫茶店のバイトをするらしい。

「大学が無い日は、桔嶺も手伝ってくれるらしいしな」

 続いて放たれた声に、そんな約束をした覚えが無かったので、内心で火口は苦笑した。

 このようにして、人間のする引越しというものを、妖怪である彼らも行う事になったのである。これからの新生活が、火口は楽しみだった。

 さて、それから数日後の出来事である。

 北梓市のはずれ、合併により市に含まれる事になった、小さな村――集落が形成している住宅街の一角に、その日、新しいカフェがオープンしようとしていた。

 ただの喫茶店ではない。

 住民達すら、いつからそこに、その洋館風の店があったのかを記憶してはいないのだが、そういう意味合いではなく、看板に印字された店名が一風変わっていた。

 ――綾香詩カフェ&マッサージ。

 最初にそれを見た時、火口は買い物袋を抱えたまま、少しの間だけ立ち止まってしまった。

 過去にもウラドが気まぐれに、引越しをした事はある。それは砂鳥が加わる前の話であるが、大抵の場合、こうした西洋風の家をウラドは出現させる。今回は、看板が出ている側の店舗スペースと、その後方に居住スペースがあるらしい。

 昨日見た、今後の家の方は、火口が過去にも見た事のある、ごく一般的な人間の住む家とさして差が無かった。だからこれまでの生活においても、妖怪は娯楽として、人間と同じ食事をするので、料理担当の火口は、今後も己が担当するのだと考えて、現在は最寄りのスーパーに出かけてきた帰りである。

「……マッサージ?」

 まじまじと看板を見ながら呟いて、火口は思った。
 相変わらず、ウラドが何を考えているのかは、さっぱり理解できない。

 しかし、質問するだけ無駄だという事もよく知っていたので、彼は裏手にある、住居スペースに直通する扉へと向かう事にした。