あの夏祭りの夜、僕が泣いた理由

 ――紡が危うく、夏目教授に喰べられそうになっていたため、舌打ちして飛び出した火口は、右腕で庇ったままの状態の紡を、改めて見た。己の腕に、そっと触れられたからだ。

 紡の指先は、僅かに震えている。
 それはそうだろう。吸血鬼に襲われかけたら、一般的に人間は恐怖する。当然だ。

「大丈夫ですか?」

 しかし迂闊な紡に対して苛立っていたので、火口は冷たい声で聞いた。

 本当は穏やかな声で、慰め、恐怖を和らげてあげるべきだと分かっていたのだが、そうする気分にならなかったのだ。

「……」

 紡は何も言わない。ただ震えている。俯いて、指先で火口の浴衣を掴んでいるだけだ。
 そんなに怖かったのだろうかと、火口は呆れそうになった。
 所詮、強力な霊能力を持つと言っても、人間はこの程度という事なのかと考える。

「安心して下さい。夏目先生ならもうここにはいませんし、僕も紡くんに危害を加えるつもりはありませんから」

 嘆息しながら火口が告げた時、紡の肩が震えた。
 それを見て初めて――火口は、紡が泣いている事に気がついた。

「紡くん?」
「……良かった」
「え?」
「火口くんに、会えて良かった。また会えて良かった」

 涙混じりの小声で、紡が言った。虚をつかれて、火口が息を呑む。

「――怖くて泣いているんじゃ……?」

 静かに火口が尋ねると、紡が大きく首を振った。
 その時閉じた瞼から、透明な雫が紡の頬を伝う。

「もう……もう、会えないのかと思って、それで、っ、あ……良かった」
「紡くん……」
「火口くん、もう見えなくならないで。いなくならないで」

 泣いている紡を見て、火口は息を飲んだ。今度こそ、慰めるべきだと確信した。なにせ、紡が泣いている理由は――自分の行動が原因だ。

「――ええ。僕は、きちんとここにいます」
「ここだけじゃない。ちゃんと、いつもと同じように、ずっと、いて」

 どこに、だとか、いつもとはどういう意味かだとか、火口は聞いてみたいと思ったが、紡があんまりにも震えているから、言葉を止めた。

「火口くんは、僕の大切な友達だから。僕の初めての友達だから、もう、会えなくなるのは嫌だ。吸血鬼よりも、人間じゃない事よりも、僕は友達が、火口くんがいなくなるのが怖い」

 それを聞いた火口は、最初は驚いた後、それから思わず苦笑した。

「――僕にとっても、透花院くんが、初めての人間の友人です。そうですね、ええ。また、一緒に色々な所に遊びに行きましょう。僕は、もういなくならない事にします。きちんと、見てもらえるように」

 火口は優しい声で言った。だがそれは、普段のような作り物の声では無かった。
 紡を見ていたら、自然と出てきた声音だった。

 その後、紡の背中を撫でて、火口は落ち着くのを待った。
 そして、二人で林を抜ける。
 既に神社に灯りは無い。暗い中を進んで石段まで向かい、火口は大きく吐息した。

 もう――この先は、人のテリトリーである。

「紡くん」
「……何?」
「来年は、きちんと一緒に花火を見ましょうね」

 そう告げて火口が微笑する。これも自然と浮かんできた笑みだ。
 すると目を丸くしてから、何度も紡が頷いた。

 こうして夏祭りが終わった夜、ある妖怪と人間は、正しく友人となったのである。