――夏祭りの当日が訪れたのは、八月の最後の週の事だった。
もう一ヶ月以上前の事ではあるが、バスの中で約束した午後五時に祭りに行くという話を思い出しながら、火口は朝から上機嫌でいた。キッチンの椅子に座り、長い足を組んで時計を眺める。正面にはアイスコーヒーがある。紡に美味しいと教えてもらった店で購入してきた、最近お気に入りの飲み物だ。
そして時計が午後二時を回った時、火口は紺色の浴衣に着替えた。
これもまた、紡に推してもらった店で買った浴衣だ。
その後、綾香詩カフェを出て、火口はピッタリ午後三時に、御遼神社へと到着した。
果たして紡は来るのだろうか?
来ると半ば確信しながら待ち合わせをしている鳥居を見た時、既にそこには紡がいた。
鳥居の左側に立ち、まだ出店などが準備中の敷地を不安げに見ている。
それから幾度も、石段の下へと視線を向けている。
――一体いつから待っていたのだろうか?
火口は興味があった。二時間前には来ている気がしていたが、紡はそれよりも早くからそこにいたらしい。しかし、それよりも興味があるのは、いつまで己を待つかという事だった。
火口は鳥居の右側に陣取り、堂々と左手に視線を向ける。
紡には火口が見えていない。
通行人達は、紡の姿を見ると会釈をして通り過ぎる事が多い。
それもまた、紡には距離を感じさせているようだと、火口は判断した。
本日は、紡もまた浴衣姿だ。
火口と同じ店で買ったのだと分かる。どちらの色にするか、火口が迷った――もう一方の色を着ている。黄緑色のその浴衣は、紡によく似合っていた。
人が横を通るたびに、紡は表情を引き締めている。
不安など微塵も感じさせないように――取り繕っているのが、火口には分かった。
だが、ずっと見ていると、押し殺せない寂しそうな瞳をするから、本当は心細いのだろうと、手に取るように分かる。それを眺めていると、火口の気分がさらに良くなった。
時計の文字盤が四時を指し、四時半を指し、ついに五時を指す。
紡が辛そうな顔で周囲を一瞥している。
ただそれを、火口は楽しそうに笑いながら見ていた。
――祭りが始まったのは、午後六時の事である。
笛や太鼓の音が谺する中、ぞくぞくと見物客が集まり始める。
石段を登り、敷地へと入っていく人の波が、紡と火口の間を流れていく。
どこか焦燥感に駆られているような表情で、紡が通行人を見ていた。
六時半、七時、七時半――花火が始まったのは、その時だった。
二人の背後、夜空には、満開の炎で出来た花が咲いている。
しかし、紡がそれを見上げる事は無い。
ただひたすら、紡は大勢の人の中に、火口がいないか探しているようだった。
その白い横顔を見て、苦しそうな眼差しを見て、火口は考える。
花火よりもよほど情緒的で風流だ。
人間が生み出すある種の芸術よりも、人間そのものの方が見ていて刺激的だ。
長い刻を生きてきた火口だが、今までその事に気付かなかった。
そのまま眺めていると、八時となり、花火が終了した。
祭り自体は八時半までを予定しているようだったが、帰り始めた客が多い。
二人の間には、再び人の波が出来る。
九時になる頃には、帰る人の波が最高潮に達した。
渋滞しだしたせいで、列が進むのは非常に遅い。
そうして九時半、十時。
既に敷地の出店は撤収準備を始め、幾ばくか人の波が緩まった。
「五時間、ですか」
火口がそう呟いたのは、諦観するように紡が腕時計を見た時の事だ。
暗い表情で俯きながら嘆息した紡が、何度か瞬きをしてから歩き出そうとした。
それを見て、火口は吐息に笑みをのせてから、紡に歩み寄った。
そして――穏やかに声をかける。
「紡くん」
「!」
紡の足が止まった。息を飲んでいるのがよく分かる。
火口はそれに気を良くしてから、帰る人の波に紛れ、逆方向――神社の中へと歩き始めた。



