あの夏祭りの夜、僕が泣いた理由



 僕は、特別講義の初日、バスから降りた。

 夏期休暇中のゼミの特別講義は、民俗学科の三年生が火曜日の三限、四年生が四限と決まっている。だから変わらず、この日だけは、大学に人が溢れている。

 出席は自由だし、内容は卒論の相談が主だから、既に資料集めをしている学生も多い。

 嘗てだったら、僕はさっさと図書館へ向かったかもしれない。
 だけど最近の僕は、講義だけが目的じゃなくて、みんなと話をするのも楽しい。

 歩きながら、僕は自然と、いつも火口くんが座っているベンチを見た。
 七号館前のそのベンチは、講義前に早めに来た学生が座っている事が多い。

 ただ、最近では、火口くんの定位置と化している。
 そして彼は、普段いつも、通りかかった僕に、自然と挨拶をしてくれるのだ。

「……?」

 だがこの日、火口くんの姿がベンチに見えなかった。
 なんとはなしに、勝手にいると想像していたから、僕は少しだけ寂しくなった。

「自由登校だしね。来てるとは、限らないか」

 ポツリと呟いて、僕はその前を通過した。

 僕が早めについた事もあって、まだゼミの教室には、誰もいなかった。
 自分の席へと向かいながら、僕は本日は不在の火口くんの椅子を一瞥する。

 もうテーマが決まっているのだろうか?火口くんは、何を卒論に書くんだろう?

 沢山話がしたい。漠然とそう考えていた時、扉が開いた。

「よぉ、相変わらず早いな」

 入ってきたのは時岡だった。隣には、本日は宮永ではなく、南方がいる。
 ――二人は、お揃いの指輪をしている。

 本格的に、恋人同士になったらしい。
 僕も、いつかカノジョが欲しい。そう、考えていた時だった。

「紡くんも、火口くんも、いつも早いよね」

 南方が明るく笑いながら、僕と――誰も座っていない火口くんの席を見た。
 僕は思わず硬直した。

 ――え?

 反射的に火口くんの席を見る。
 椅子は僅かにテーブルから距離を作っていて、確かに人が一人、座っていても不思議は無い。
 だが、僕の目には、そこには誰も見えない。

 事態が理解できなかったが、全身に冷や汗をびっしりとかいていた。

「おはよーございまーす」

 もう午後であるが、宮永がそう言いながら入ってきた。
 大抵の場合、宮永はいつの時間帯でも「おはよう」と口にする。

「イチャラブしてるリア充共は爆ぜろ。透花院と火口は、許す。お前らは早く来すぎ。偉い」

 宮永もまた、僕と、僕の横の空席を交互に見た。
 目を見開いたまま、僕は動く事が出来なくなり、言葉にも詰まった。

 その後やってきた日之出くんと楠原も、みんなに挨拶をしていた。
 ――僕には見えない、火口くんにも、だ。

 最後に、夏目先生が顔を出して悠然と笑った。

「自由参加なのに、七名全員が出席するなんて、私のゼミの諸君は、非常に優秀だね」

 その後、特別講義が始まったが、僕は一切身が入らない。
 何度か火口くんの席を見たが――僕には、誰も見えない。

 先生に相談する傍ら、自由な時間だから、みんなは雑談交じりで、その最中にも火口くんの名前が出る。これ、は。

 ――僕が、火口くんを見えなかった頃と、全く同じ状況だ。

 時々、火口くんの言葉を待つように、みんなは言葉を止めて、空席を見る。

 また、先生は、まるで二人で話しているかのように、火口くんから相談されているかのごとく、間を置きながら、一人で喋っている時間もあった。

 だが、どう目を凝らしても、僕には火口くんが見えない。
 心臓が、ドクンドクンと煩い。
 嫌な汗が止まらない。夏の熱気のせいじゃない。

 雑談中、何度かみんなが火口くんに話しかけた様子の後、一斉に僕へと視線を向けた。
 僕の反応を待っているのは明らかだった。

「お前ら、喧嘩でもしたのか?」

 すると、不思議そうに、不意に時岡が言った。
 僕が小さく首を振ると、日之出くんが口紅で真っ赤な唇を持ち上げた。

「じゃあどうして透花院くんは、火口くんを無視しているんだい?」

 その言葉に、僕は硬直した。

 ――どうして?
 ――どうしていきなり見えなくなったんだろう?

 無論、僕は火口くんが手品師なんかじゃないと、本当は分かっている。
 動揺するあまり、僕は何も言えないまま、思わず立ち上がった。
 そして改めて隣の空席を見据えてから――教室を後にした。

 混乱が収まらない。

 確かに、当初僕は、火口くんが見えなかった。
 その状態に、戻ってしまったという事なのだろうか?

 狼狽えるなという方が無理だった。
 僕は悪い夢である事を祈りながら、バスに乗り込み、震えながら帰宅した。
 自室に戻り、唇を手で覆う。

「嘘……だろ? 来週には……見えるよね?」

 一人そう呟いた僕の声は、虚しく室内で消えていった。



 翌日、僕は動揺を鎮めようと――卒論のテーマの選択に集中する事にして、大学へと向かった。僕と同じような考えの学生も多いようで、普段よりは人が少ないが、それなりの学生が歩いていた。部活やサークル活動で来ている学生もいるみたいだ。

 無意識に僕は、いつも火口くんが座っているベンチの方を見た。
 今日も火口くんの姿は見えない。
 もっとも今日は、来る可能性すらあまりないから、気にしないで通り過ぎようとした。

「そうなんだ、火口くん」

 その時――声がした。

 見れば、数人の同じ学科の女子達が、ベンチの……人が一人分空いている場所に向かって話しかけていた。そこは、火口くんが座っている事が、特に多い場所だった。え?

 驚いていると、すぐに女子達が僕を見た。
 それから挨拶されたので返すと、彼女達は再び空きベンチを見て、その後また僕を見た。

 沈黙が訪れる。僕の言葉を待っているのが分かる。

「え、えっと……? 透花院くん?」
「何?」
「な、何って、紡くん……あの、火口くんが今……」

 するとまた、沈黙が降りた。火口くんが、何だろう……?

「え!?」
「嘘、また?」
「何の心当たりもないの?」

 その後、彼女達は小声でそんな事を囁きあっていた。

 僕に聞こえないようにしているつもりらしかったが、僕はそちらを凝視していたから、しっかりと耳に入ってきた。

 何が、「また」なのだろう? 心当たりとは、何なのだろう?

 よく分からないままだったが、彼女達が引きつるような笑顔を浮かべてから立ち去ったので、僕は誰も座っていないベンチを少しの間眺めてから、図書館へと向かった。

 嫌な動悸がする。

 その後の日々も何度か大学へと足を運んだのだが、日増しに同じ学科の学生達が、僕を見ると、以前のように、心なしか硬い表情になり、離れていくようになった。

 そして迎えた翌週の特別講義の時間――僕は、歩いていると、時岡に呼び止められた。
 火口くんが不在のベンチの前を通り過ぎて、少ししてからの事だった。

「な、なぁ、透花院」
「何?」
「火口と一体何があったんだ? 挨拶まで、スルーするとか……」

 僕は短く息を呑んだ。僕には、火口くんの姿が、道中で一度も見えなかったし、挨拶をされた記憶もない。

「この一週間でも、学科の奴らの間で、お前が無視してるって広まってるぞ?」
「……」
「喧嘩か……?」

 困るような時岡の声に、僕は俯いた。
 僕はその日――特別講義を欠席し、家へと帰った。自主休講だ。出席義務は無いのだし。
 時岡に、なんて答えたのかは、思い出せない。

 それから僕は、何度も何度も、大学へと足を運ぶたびに、火口くんの姿を探した。
 周囲の会話に耳を澄ませ、火口くんがいるらしき所を何度も見た。
 けれど、僕には火口くんが見えない。

 火口くんがいそうな所で名前を呼んでみた事もあるが、何の反応も無かった。
 メッセージアプリで数度連絡をしてみたが――『存在しません』という表示が出た。

 嫌な胸騒ぎが広がっていく。
 次第に周囲もよそよそしくなっていく。

 火口くんがいなければ、僕は人の輪には入れない。
 だがそれ以上に、初めて出来た大切な友人の喪失に、息が詰まりそうになる。

「どうして……」

 どうして見えなくなってしまったのだろう。
 存在しませんというあのアプリの表示はなんだろう?
 ブロックされているのだろうか?

 僕は両手で顔を覆った。胸が痛い。ジクジクと痛む。
 僕の世界からだけ、火口くんが、消えてしまった。

 ――もうすぐ、一緒に行こうと約束した、夏祭りの日が近づいてくる。

 このままもう、僕は二度と、火口くんと会う事は出来ないのだろうか?
 誰もそんな僕の疑問には、答えてくれない。