この町は昔から不可思議な噂が絶えない。それが嘘か本当かは誰も知り得ない。噂はただの噂であり、話題のひとつにしかすぎないからだ。
日上神社。
はるか昔からこの地を守ってきたその神社は、この町の地図からすでに消され、その存在すら忘れ去られてしまっていた。小さな祠と御神体の鏡が祀られているだけのその神社は、禍からこの地を守護するために建てられた。
禍はこの地に怪異や穢れを引き寄せ、この地に住む人々に不幸を齎した。その禍を封じるために、人々は裏山に御神体と祠を建てて日上神社と名を付け、土地神として祀ったのがはじまり。人々の信仰が土地神を強くし、禍を生み出す禍神は少しずつだがその力を弱めていった。
黄昏時。神社の鳥居の上に座り、遠くからやって来る人影に向かって手を振った。陽ノ神。長い黒髪を後ろでゆるく結び、顔を白い狐面で隠している十代半ばくらいの少年の姿。白い着物を纏い生白い素足をさらけ出しているそのひとは、日上神社に棲む土地神である。
穏やかでにこやかなその神は人間が好きで、よくひとの姿に化けて町を散歩したりするのが趣味だった。時に少年の姿、時に青年の姿、時に老人の姿と気分によって変えては、町の人々と共に同じ時間を過ごすことが多かった。
永い永遠ほどの時間。そんな中、ひとりだけ正体を見抜いた子どもがいた。最初は驚いてお互いに警戒し距離を置いていたのだが、気付けば離れがたい大切な存在となっていた。
「灯夜、こっちこっち」
陽ノ神はひらひらと手招きをし、見上げてくる青年に声をかけた。藍染めの着物を纏った短髪の青年は「いや、無理だから」と首を振って、鳥居の上に座り足をぷらぷらとさせている白い狐面を付けた神に対して、そのお誘いを拒否した。
「神様のくせに罰当たりなことをするんじゃない」
「神様なんだから、別にいいでしょう?」
神がひとに素顔を見せることはない。ひとの姿に化けている時は気まぐれで顔を変えているらしく、それは青年に対しても同じだった。
神とひと。
そういう"ひとには見えないもの"が視える体質の青年は、まさか生きているうちに神様を目にする日がくるとは、あの日まで思いもしなかっただろう。はじめて遭ったあの日から、もう十年以上経つ。
少年だったあの頃。今は立派な青年となった灯夜は、神様のくせにまったく威厳のない陽ノ神に対して、随分前から敬語で話すのをやめている。
仕方ない、とひらりと降りてきた陽ノ神は、ひと目見て、灯夜の様子がいつもと少し違うことに気付いていたが、自分からそれを問うことはなかった。境内などない、ただの祠だけがある神社。鳥居の下に並んで立ち、灯夜が口を開くのを待った。
「結婚することになった。親同士が決めた見合いだが、良縁だと思う。相手は君に似ていつも穏やかで明るいひとだ。こうやって逢いに来たり、一緒に過ごす時間はほとんどなくなると思う。子ができればどんどん足は遠のくだろう」
灯夜も今年で十八歳。
伴侶をもらってもおかしくない歳だ。
「そっか。おめでとう。君と、君のお嫁さん、それからいつか生まれてくるかもしれない子の幸せを、心から願うよ」
「……陽は、きっとそう言うと思った」
触れていただけの手をぎゅっと握りしめ、灯夜は苦笑を浮かべる。
神とひと。
けして混じり合うことは赦されない。
「離れていても、あなたを忘れることはない」
こうやって手を握るくらいしか、自分たちには赦されない。故に。お互いの気持ちは知っていたが、抱きしめることも、口付けもしない。ただ、隣にいるだけで幸せだった。
「大丈夫。僕はこの町が大好きだから。たとえみんなが僕のことを忘れてしまっても、平気だよ。ちゃんと役目をはたすと決めている。それに、相棒もいるしね。大人しく遠くから見守ってるよ。化けて遊びに行くこともないから安心して?」
「……そういう意味じゃないんだけどな」
無愛想ながらも、たまに見せる笑みが好きだった。彼が住む町を守ろう。彼の子やその子の子、続いていく彼の血が流れる子孫を守ろう。そう決めていた。贔屓と言われても誰にも文句は言わせない。陽ノ神は狐面の奥で目を細める。
絡めた指先がひんやりと冷たい。
どんなに強く握りしめても。
優しく触れたとしても。
あたためてあげることは叶わないと知っている。
その横顔は隠れて見えないけれど。きっと自分にとっては、どこまでも無邪気で残酷なのだ。だからといって、灯夜にはどうすることもできない。握りしめていた冷たい手が、そっと解かれる。
「約束するよ。いつか完全に禍神を封じて、町のみんながなににも怯えずに過ごせる日がくるように。僕がこの町を守り続けるって」
黄昏時。
夏の終わり。
薄暗くなった空を見上げ、優しい土地神は白い狐面の奥で哀しげに微笑んだ。
□ 第■章 遠い日の約束 〜終〜 □


