あの日、君は黄昏空の下で微笑んだ。



「……は? ……な、に? …… うそ、でしょ?」

 石井奈々はぱくぱくと口を動かしたまま、音を発せなくなった。目の前で起こったことに対して、頭が追いついてこない。

 数秒前まで酷い言葉を撒き散らしていた佐々木椎菜。最後のひと言を口にしたその瞬間、彼女は後ろから伸びてきた影に呑み込まれた。

「あれはもう育ちすぎていた。最後に宿主の願いを叶えて異界に落ちたのだろう」
「……願いって、佐々木さんは俺たち全員消えろって言ってなかった?」
「そうだな。自分以外消えろと言っていた。だから、(わざわい)は一番手っ取り早い方法で彼女の願いを叶えたんだ」

 つまり。佐々木椎菜の願いである、自分以外の全員を消すというそれは、彼女自身が消されることで成就されたと?

(わざわい)は周りを不運にすることで宿主の運を上げるが、それによって願いが叶う確率を上げているだけ。もちろんそのすべてを叶えられるわけではない。育てばそれも可能になるだろうが、個体によって限界がある。呑み込まれたら最後。もうこの世には存在しない」
「冗談、だよな? そんなこと、信じられるわけないだろ……、」

 存在しないと言いながらも、記憶として残っている。彼女の本性というか本音は、誰もがもっている欲望だったり不安だったり、不安定で歪な人間らしさだったと思う。それは優羽の中にある、それと同じだと。あの最後の言葉を聞いて思ってしまった。

 朔夜以外はどうでもいい。
 他には興味がない。
 本当に欲しいものは、手に入らないと知っていても。それでも、欲は止まらないから。

「わた、し……も、ああなっちゃう、のかな?」

 怯えながらも引きつった笑顔で見上げてくる奈々に、優羽はかける言葉が見つからなかった。動揺はしている。冗談であればいいと思いつつも、ゲームみたいにリセットできるわけでもないと理解していたから。

「それは、君がここに来るまでにどういう行動をしてきたかだろう。他人にできることはなにもない」

 そう言って、陽は曖昧な答えで濁しているようにも思える。元凶はふたり。その片方が目の前で消えてしまった事実。

「……日上センパイ、佐々木さんが現実セカイから消えたってことは、具体的にどうなるんだ? 存在自体がなかったことになる?」
「そうだ。最初からいなかったことになれば、誰もその者を捜す者はいない。つまり、いなくなっても誰も気にしないということだ。彼女がやったこと、彼女と関わったことで生まれたもの、会話、出来事、すべてが無かったことになる」

 ということは……。

「この曖昧な空間も終わりを迎える」

 陽がそう言った瞬間、見計らったかのように奥の廊下がボロボロと崩れ始めた。崩れてなくなった場所から黒が白に塗り替えられていく。眩しいくらいの白。ずっと薄暗闇にいたせいで、思わず目を瞑りそうになる。

「行くぞ」
「……って、ちょっと待った!」
「きゃっ⁉︎」

 先に奥の方へと走り出した陽。優羽は呆然としている奈々の腕を掴んで立ち上がらせると、走って! と声をかけて背中を軽く押した。

 陽にとってはどうでもいいのだろうが、優羽はさすがにそこまで無情ではなかった。陽を先頭にして、一番後ろをついて行く。崩れていく廊下の方が早いのだろう。すぐそこまで迫っている危機に、光を纏った白よりも薄暗い廊下の方が安心だなんて、脳がバグりそうだ。

「あそこまで走れるか?」

 息のひとつも乱すことなく、陽はまっすぐ前を指さした。そこにはいつの間にか両開きの扉のような出口があり、優羽は奈々を横目に並走する。今は余計なことなど考えずただ走って欲しいと願いつつ。なにかあっても、どうにもできないだろうという無力さも感じていた。

 そんな中、横を走っていた奈々の姿が忽然と視界から消えた。

「石井さん⁉︎」
「さ、三枝く……本当に、ごめ、ごめんなさい……私のことはいいから、早く行って!」
「石井さんも一緒に帰るんだ!」
「でも、わ、たし·····、私は、もう·······」

 優羽は足を止めて奈々が座り込んでいる場所まで戻ると、再び腕を掴んで立ち上がらせた。ここまで来て、諦めるなんてあり得ない。そのまま奈々を陽の方へと押し出す。意外なことに陽もまた足を止めてくれていたようで、目が合った。

 扉はもう目の前だった。

 戸惑う奈々を先に扉の向こうへと無理矢理押し込むと、陽は優羽の方へ手を伸ばした。

「あれに呑まれれば終わりだ。さっさと手を、」

 優羽は迷わずに言われた通りに手を伸ばした。しかし、その指が重なろうとしたその瞬間、足もとにあったはずの感覚がなくなり、目の前にいたはずの陽の姿が離れていく。

(やば……っ)

 気付けば視界が白一色になっていた。どこまでも落ちていくその浮遊感に、優羽はどうすることもできなかった。このままこの空間に取り残され、自分もまた存在しないものとなってしまうのだろうか。

(でも、だったら……まあ、いいか)

 誰も悲しむことはない。気に病むこともない。家族も朔夜も陽も直も真白も拓海もみんな。最初からいなかったことになるなら、それはそれで……。白いセカイの恐怖から逃げるように、目を閉じる。

 闇。
 暗闇。
 瞼に映る微かなヒカリ。

「優羽! だめだ!」

 空耳?
 幻聴?
 マボロシ?

「先生、もうちょっと早く飛んで! ……優羽のバカ! 諦めるな!」

 黒い翼がばさりと大きく音を立てた。誰かの手が優羽の手を掴み、落下していた身体が反転する。止まったのはその一瞬だけで、そのまま今度は上昇していく。薄れていく意識の中で、なにかに包まれているあたたかさを感じた。

 耳元で囁かれた声は、安堵の色を浮かべているようにも思えて。優羽はそのぬくもりに抱かれながら、その温度に懐かしさを覚えた。