目を覚ますと、そこは薄暗い教室だった。ぼやけた視界が戻ってくるまで数秒かかったが、朔夜は口元を押さえながらゆっくりと上半身を起こした。窓の外は真っ黒闇で、なんの色も存在しない。かろうじて物が見える程度の暗さ。
ひらり。
ひらり。
なにかがゆっくりと自分の周りに落ちてきていることに気付く。床についたままの左手の甲をくすぐったそれは、どうやらなにかの羽根のようだった。
「お〜、起きたか」
聞き覚えのある呑気な声が、上の方から聞こえてきた。思った通りの人物がこちらを見下ろしてくる。久保田先生だ。
「大丈夫か? けどここはまだマシな方だぞ。さっき他の場所も見てきたが、穢れの度合いが違いすぎて俺でも酔ったぞ」
いったい、なにを言っているのだろうか。
もしかして先生もあっち側のひと? 朔夜は血の気の引いた冷たい顔から手を離し、うまく回らない頭で考える。力の強い怪異やアヤカシほど、それを隠すのが上手いということは体験済みで、例えばあのグラウンドの幽霊少年が中くらいだとすれば、目の前に立っているそれは上級以上といえよう。
朔夜も今の今までまったく気付かなかったし、陽《はる》もおそらく気付いていない。気付いていたらその時点で教えてくれたはずだ。
久保田先生は間違いなく強いアヤカシだ。いったいいつからこの学校にいたんだろうか。他の先生たちの記憶操作もしているのだろう。
周りに落ちている羽根を一枚拾い上げる。視線を落として見てみれば、思いの外大きな羽根だった。
「……ええっと、先生は、どちら様?」
「皆藤、日本語おかしいぞ〜」
「いや、おかしくもなるというか……どうせ話す気ないですよね? そんなことより、俺、めちゃくちゃキモチワルいんですけど……」
「まあ。そうだろうな。ここは禍神の影響を受けている空間っぽいからな」
禍神。
裏側のセカイで目にしたあれは、本当に禍々しいという言葉がぴったりな存在だった。あれを目の前にした時ほどではないが、眩暈がするくらい気分が悪いのは確か。にしても、先生って何者? という疑問がさらに大きくなる。
「……他のみんなは? なんでこんなことに?」
「うーん。この空間自体は広くなかったが、俺たち以外はいなかったぞ。おそらく、だが。隔離された、が正しいかもな」
「隔離? って、なんでそんなことに?」
「さあ。当人同士の話し合いを望んだからでは?」
さっきから知らない風を装いつつも、なにか知ってそうな雰囲気で話す久保田に対して、朔夜は想像する余裕はなかった。吐きそうで吐けない、微妙な感覚。一番辛い状態で、立ち上がるのもままならない。指でつまんだ羽根を目の前に持ってきて、じっと見つめる。
黒い大きな羽根。
これはなにか関係がある?
(烏? 悪魔? 黒い羽根っていったら、それくらいしか思い浮かばないけど……)
アヤカシには遭遇したことがある。といっても、猫のアヤカシだが。猫は近所に昔からいる野良猫で、猫又だと自分で言っていた。その猫又が言うには、この町には人に扮して生活しているアヤカシがけっこういるのだとか。
(先生もそのうちのひとりってことか……)
異界に禍神、怪異にアヤカシ。この町は不思議なことだらけだ。
「皆藤はこちら側にしてみれば、かなり異質な存在だ。あれがお前を気に入った理由は、なんとなくわかったよ。とりあえずここにいる間は責任もって守ってやる」
「いや、唐突すぎてなんにも頭に入ってこない!」
「まあまあ。落ち着けって。一応ほら教師という立場上、生徒は守ってやらんと」
「いやいやいや、説明必要! 大事!」
そんなんで納得できるか!
朔夜は先ほどまでの気分の悪さが消えていることに、今更だが気付く。
「あっちは陽ノ神の分身がいるから悪いようにはならないだろうが、そもそもの問題は……。お前も感じただろ? あれは根が深いぞ?」
久保田はその場にしゃがみ、朔夜と視線を合わせる。前髪で半分くらい隠れているその目は、この薄暗闇の中で野生動物のそれのように光っているように見えた。
それを考える間もなく、その背に一瞬にして生えた漆黒の翼に朔夜は息を呑む。白衣の白と黒い翼。お互いの色を引き立てるようなその配色に目を奪われる。黒い羽根が辺りに舞い、新たに数枚の羽根が朔夜の周りに追加される。
「言ったろ? お前は俺が守ってやる。だが約束しろ。このことは他言無用。誰かに話したら、すぐにわかるからな。俺の部下の烏たちの情報網はすごいんだぞ〜」
「……か、カラス? 先生って、もしかして」
烏のアヤカシ?
「ヒノカミって、」
「なんだ、知らないで一緒にいたのか? てっきり話してるもんだと。ああ、まああの分身の方はそういう感じじゃないもんな。にしても、トクベツってのは時に悩ましいな」
くしゃくしゃと自身のボサボサの髪の毛をかいて、久保田は苦笑を浮かべた。


