あの日、君は黄昏空の下で微笑んだ。



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 赦せない。

 どうしていつも、あの子だけがいい思いをするのだろう。
 自分より下のくせに。
 気付いたら、私が欲しかったものを持っている。
 どうしてあんな子が優遇されるのか。

 赦せない。

 なんで私はこんな思いをしているのに、あの子は笑っているんだろう?

 赦せない。赦せない。赦さない。

「……椎菜もあいつらもみんな消えろ」

 ぼそりと紡いだ言葉は奈々自身の心の声だったが、その音は思った以上に低く、自分のものではなかった。どうでもいい。だってこれも遊びのひとつでしょ、と自分に言い聞かせるように。悪いのはあいつらで、こっちは被害者なのだ。

「消えろ消エろキエロ……」

 足もとの影がゆらりと一瞬途切れた次の瞬間、少女は背後に現れた暗く重たい深淵に呑み込まれて、その場から跡形もなく消えた。

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 ピアノの音がだんだんと音色を奏でていき、教室内はパニックになった。扉は二人がかりでも開かないし、一か八かと窓に椅子を思い切りぶつけても、割れるどころかヒビのひとつも入ることはなかった。

 櫻井はまさか自分が口にしたことがフラグになるとは思っていなかったため、あまりのショックに放心状態のままぶつぶつと元素記号を呟き出す始末。二年生たちは耳を塞いでその場に蹲り、やばいやばい! と身を震わせる。

 真白(ましろ)の腕を咄嗟につかんだ拓海(たくみ)は、一旦ピアノから離れ遠くから見守ることにしたが、当の本人は不服そうだ。久保田はやれやれと頭をかき、逆にピアノの方へと近づいていく。

「落ち着け、って言っても無理か……」
「久保田センセ、これって怪異ですかね?」
「三枝は通常運転だな。さて、どうしたものか……、」

 ピアノの音は噂通り、綺麗な音色で曲を奏でている。曲名まではわからないが、今の状況にはそぐわない軽快で楽しげな曲だった。椎菜(しいな)は呆然とした表情でピアノを見つめたまま、立ち尽くしていた。

「……大丈夫? とりあえず、ピアノから離れていた方が……いいかも、」

 調子が悪いのか青白い顔をした朔夜が、椎菜から少し距離を取りつつも教室の隅に視線を向けてそちらに行くように促した。

「で、でも、おかしいですよね? ピアノが勝手に……扉もぜんぜん開かなくて、イタズラとも思えない、です」

 それに、頭が痛い。
 あの日からずっと、身体がだるくて調子が悪かった。そう、あの日からずっと。

「もしかして、呪い、とか……?」

 ネットで調べたただの遊び。
 おまじない。

「だって、あんなの、ほんの冗談じゃないですか……本気でやったわけじゃ、」

 みんながやってる、ただの遊び。

「……えっと、ごめんね? なにを、言ってるのかわからないんだけど、」

 困惑している目の前の先輩などどうでもいい。椎菜は咄嗟に優羽に手を伸ばすが、それを遮るように冷たい視線が注がれる。優羽とずっと一緒にいる三年生の先輩だった。伸ばした手は空振り、そのまま身体の横にゆっくりと戻される。

 ピアノの音がだんだんと攻撃的な音に変わっていく。同じ曲とは思えないくらい激しく強い音。まるで今の椎菜の心の内のように、苛立ちと怒りがそこに感じられた。

 気付けば窓の外は薄暗くなっており、不穏な空気が漂い始める。不協和音。ガンガンと壊れてしまうほど強い指圧で奏でられる音は、焦りと不安を皆に与えた。

「ちょ……っ⁉︎ マジでやばくないか⁉︎」

 この音が鳴り止んだら最後、学校から出られなくなるという音楽室の噂。直は朔夜と優羽を交互に見て、この状況が冗談ではないことを思い知る。こんな非現実的なことが実際に起こるだなんて考えてもみなかった。そんな中ピアノの音が急に途切れ、あんなに喧しかった教室がしんと静寂に包まれる。

 次の瞬間。

 その場にいた全員の視界が同時にぐにゃりと歪み、立っているのもままならなくなる。教室全体が闇に包まれ大きく揺らぐのを感じながら、ふつりと意識が途絶えた。