あの日、君は黄昏空の下で微笑んだ。



『亡き王女のためのパヴァーヌ』

 パヴァーヌとは、かつてヨーロッパで普及した行列舞踏のこと。

 亡き王女とあるが、この曲は亡くなった王女への葬送の哀歌ではなく、スペインの宮廷で小さな王女が躍っているような曲だと作曲者自身が言及している。ノスタルジックで、最初から最後までゆったりとした懐かしさを感じるその曲調は、この鬱蒼とした陰湿なセカイとは真逆に思える。

「ずっと待ってたんだよ、莉菜ちゃん」

 曲が終わり、指が鍵盤からゆっくりと離れていく。同じ制服を着たその少女は、長い黒髪を後ろで三つ編みにして背中に垂らしている。大人しそうな印象だが、落ち着いたその表情は同年齢とは思えないくらい大人っぽい。大好きな友だち。いなくなってからも、ずっとひとりで捜していた。目の前にいると実感した時、その声を聞いた時、自然と笑みが零れた。

「舞香ちゃん、ずっとここにいたの? あのバケモノたちからなにかされてない? 怪我は? 私たち、もうここから出られないのかな?」
「莉菜ちゃん、落ち着いて。私は大丈夫だよ?」
「ホントに? よかった……」

 莉菜は糸が切れたかのように床に膝をついて、それから椅子に座る舞香を見上げた。確かめるように縋るように祈るように、その綺麗な手を包むように自分の両手を重ねた。不思議そうに見下ろしてくる舞香に違和感を覚えたのは、その時だった。

「……舞香ちゃん、ここっていったいどういう場所なの?」

 違和感。
 どうして舞香は、あのバケモノたちに見つからずにいたのだろう。

 ピアノはあんなにも廊下に響いていた。一階の踊り場まで聞こえるほどに。二階にはあのバケモノたちはいない? 階段が上れない、とか? 奴らは音には敏感で、ピアノの音だけ例外だとは思えない。しかし舞香はあのバケモノたちとは違って、最後に見た時と同じ姿でここにいる。

「それは私にもよくわからないわ」
「そう、だよね。わかってたらこんな場所にいないよね」
「こんな場所? 莉菜ちゃん、ここはすごくいいところだよ。みんな楽しく暮らしていて、好きなことをしてても誰にも怒られないし。現実セカイなんかよりよっぽど素敵だよ」

 え? と莉菜は引きつった表情で舞香を見上げる。こんなセカイが楽しい? 素敵? いったいなにを言っているのだろう。くすりと目を細めて優しく笑う舞香は確かに舞香で。

「だって……こんな、真っ赤で真っ黒な気持ち悪いセカイだよ?」

「うーん? あ、そっか。莉菜ちゃんはまだ"完全"じゃないんだね。うんうん。そうだよね。最初はそんなもんだよ。でもね、いつの間にか違った景色が見えてくるんだよ。私がちゃんと"舞香"に見えるなら、もうそろそろ莉奈ちゃんも、」

「ど、どういう……こと?」

 重ねた手。ひんやりと冷たいその手。完全じゃないってどういう意味? もうそろそろってなにが? 莉菜は瞬きすることすら怖くて、舞香から目を逸らせない。今、自分が見ているものがまったくの嘘に思えてきて、それを確かめる勇気もなかった。

 自分の目に映っている舞香は、目の前にいる舞香は、ちゃんと"舞香"だよね?

 莉菜は指先が凍るように冷たくなっているのを感じた。これは舞香の手が冷たいせいなのか、それとも自分の手が単純に冷たいからか。舞香は顔をずいと近づけて、また笑った。莉菜は驚愕する。まるで夢から覚めた瞬間のように。すべてがマボロシだったと思い知る。

 唇が触れるか触れないかくらいの距離で覗き込んで来た舞香の顔は、あのバケモノたちと同じように底の見えない深淵に覆われていて、莉菜は筋肉が固まってしまったかのようにぴくりとも動けない。

「約束したでしょう? 私たち、いつまでもずっと一緒だよって」

 舞花は莉菜の手をほどいて椅子から立ち上がると、目を見開いたまま人形のように動かなくなった莉菜の頬を、冷たい両手で優しくそっと包み込む。
見下ろし見下ろされる形で、まるで目の前の者を服従させているかのような立ち位置で、舞花はくすくすと笑う。

「私たち、これからもずっと友だちだよね?」

 このセカイでもずっと、一緒だよね?