あの日、君は黄昏空の下で微笑んだ。



 影に覆われた瞬間、視界が漆黒に染まった。
 絶対に離さないで、と握られた手。
 その手はひんやりと冷たかった。

 あの時と同じ。

 幼い頃、朔夜は同じように影に呑み込まれたことがある。その時の記憶は曖昧すぎて、自分の身になにが起こったのかさえわからないまま。次に気付いた時にはひとり裏山にいた。どうやら数日間、行方不明になっていたらしい。

 神隠し。
 皆が口を揃えてそう言った。
 

「絶対に離してはだめだよ」

 優しい声でその子は言った。

「怖いモノは見なくていい。目を閉じて、ゆっくり僕についてきて」

 あの時握ってくれた手は、誰のもの?

 空は真っ赤に染まっていて、悍ましくて、鮮やかで、目を背けたくなるほど美しく醜かった。暗い町に咲く赤い花。傾いた古い家の床や壁の隙間から顔を覗かせるように、毒々しい赤色の彼岸花が咲き、そこでは人のカタチをした別の"なにか"が生活しているように見えた。

 しかしそれ以上は、どうやっても思い出せそうにない。幼い頃の記憶なんて、そんなものだ。

「君はまだ染まっていないから大丈夫だ。けど、今回は運が良かっただけ。次はどうなるかわからない。僕も毎回助けられるとも限らない。次にもし呑まれてしまったら――――、」


■■■■


 朔夜は悪夢から目覚めるように瞼を開いた。隣に同じように座っている陽の肩に頭を預け、どうやら呑気に眠ってしまっていたようだ。

「……起きたか? なら静かにしていることだ。奴らが巡回してる。気付かれたら厄介だ」

 日上陽(ひかみはる)。どうしてそんなに冷静でいられるのだろうか。普通、こんな場所に初めて来たら大人だって動揺せずにはいられないはずだ。朔夜はゆっくりと身体を起こす。

(····すごく昔の学校かな? 廃墟みたいだな。前の時とは違う。学校で呑み込まれたから?)

 繋がれたままの左手。あの時、影に呑み込まれる瞬間。陽は朔夜の手を掴んだ。まるでこれから起こるだろうことを知っていたかのように。

「ハル先輩は、ここがどこか知ってるってこと?」

 視線が交わる。じっと無言で見つめられたので、朔夜は負けじと見つめ返す。

「ここは裏側だ。(わざわい)が呑み込んだモノたちが暮らす、裏側。異界」

 古めかしい薄暗い木造の校舎の中。まるで赤いライトで照らされているかのような、教室の教卓の下にふたり。

 そこから見える狭い範囲で辺りを見回す。底の抜けた床やヒビ割れて穴の開いた壁、何十年も放置されている廃虚のような場所に思える。至る所に咲く赤い彼岸花。赤と黒が入り混じる景色は、どこまでも不気味で異様なものだった。

「禍? 裏側……そっか、やっぱりここは、」

 猫のように背中を丸めて教卓から少しだけ顔を出し、所々汚れてくもった窓の外に広がる空の色に愕然とする。

 真っ赤に染まった空は、毒々しいとしか言いようがない。夕焼け空とも違う、異様な色合い。それを目にした瞬間、自分がどこにいるのかを悟った。薄暗く陰湿な空気感。あの時迷い込んだ空間と、おそらく同じ場所だと。

 ぼんやりとしていたら、突然口元に手を翳されぐいと教卓の中へと引き戻される。

 足音。教室の外側の廊下が重さで軋むように、ぎし、ぎし、と鳴った。誰かいる。この場合は"誰か"といっていいのか迷うところだが····。

 その足音はゆっくりと時間をかけて、ふたりが息を潜めている教室から遠ざかっていく。完全に音が消えた頃、口を覆われていた手が離れていった。

「行ったか……、」
「ハル先輩、俺、もしかしてやらかした?」
「……まあ、否定はできないな」

 声をかけた時の、陽の表情。白昼夢でも見たかのような、驚いたような顔。あれは、つまり……そういうことだ。朔夜はひとり納得する。

「ちなみにハル先輩は、いつも図書室(あそこ)でなにしてたんだ?」
「君を見ていた」

 朔夜が欲しかった答えはそういうことではなかったのだが、陽はどこまでも真面目な顔で答え、再びお互いの視線が重なった。