椛の胸に、嫌な予感が過ぎる。そのとき、椛に覆い被さっていた暁が身体を起こして立ち上がった。
「しかし、なんとも手応えのない奴らだったな。気配をまったく消せていないうえに、動きが鈍すぎる」
布団に寝転がる椛の手を引き起こした暁が、障子のほうに視線を向けながら首を一回、右から回す。
そんな暁の言葉に、椛は耳を疑った。
暁が障子に向かって短刀を投げたとき、椛は彼以外の気配をまったく感じなかった。出来損ないの椛でも、刺客の気配や殺気をまるで感じられないほど鈍くはない。おそらく、外にいた刺客はかなりの鍛錬を受けている者たちで、ほぼ完璧といっていいほど気配を消せていた。
本来の暁は、鍛錬を受けた者でも気付けないほどわずかな気配や殺意でも敏感に感じ取ることのできる殺し屋。
そんな暁が、この七日間の椛の奮闘に気付いていなかったわけがない。
きっと、椛の前ではわざと隙を見せて、毎回ギリギリのところで攻撃を交わされていたのだ。
欺かれていただけでなく、揶揄われていたとわかって恥ずかしい。
椛が障子のほうに視線を向けると、そこにはもう誰もいなかった。
暁が倒したのは、おそらくふたり。だが、障子のそばにもその向こうの廊下にも人の姿はなく、暁が投げた短刀と細い針のような刀、それから二枚の黒の着物が不自然な形で落ちている。
着物からは、鮮血のような赤い彼岸花が、天井に向かって真っ直ぐに背を伸ばすように咲いていた。
真っ赤な花弁を大きく開き、異様な存在感を放って咲き誇る二本の彼岸花。
風もないのにわずかに揺れる二本の花は、なぜか意志を持っているようにも見える。
『黒羽の赤鴉は、狙った標的を異能で殺す。狙った者の着物だけを残し、あとは骨も残さず始末する』
噂に聞いていたとおりだ。これが、赤鴉の持つ異能。
椛がぼんやりしていると、暁が大股でズカズカと障子のほうに進んでいった。
「念のための聞くが、こいつらは椛の手の者か?」
暁がそう言って、彼岸花の花が咲く着物をぞんざいにつかむ。黒鳶色の着物の背には、椿の花と炎を模ったような紋。見覚えのあるその徴に、椛は背筋がゾッとした。
(あれは、椿姉さんが特に信頼している者のみに使わせているもの……)
椿は兄姉たちの中でも特に神経質で、不知火家の一部の人間しか信頼していない。それは、おそらく母のことが一因にあるのではと椛は思っているが……
椿は不知火の中でも信頼できる臣下だけに、着物に特別な紋を付けることを許していた。その紋を使用する者は、椿の指示に忠実だった。
もし不知火の中で意見が割れることがあれば、当主である父ではなく迷いなく椿のほうに従う。それくらいに。
「不知火の者ではありますが、彼らのことは何も聞かされていません……」
「なるほど。それなら問題ないな」
暁はそう言うと、廊下に落ちた椛の短刀を拾った。そうしてそれを一振りすると、美しく咲く彼岸花を茎から斬り落とす。
首を切られたように落ちていく花の花弁があたりに飛び散る。その赤が、まるで血のようだ。
続けてもうひとつの着物をつかむと、暁が氷のような冷たい目をして無感情に彼岸花を叩き切る。
わずかな月明かりがだけが差し込む部屋で、真っ赤な花が、花弁を飛び散らせながら宙を舞う。
鮮血のような花弁の赤が、椛の心が激しく揺さぶった。
赤は恐ろしい。特に血の赤は――
目の前で飛び散る赤に、椛の思考が混乱し、呼吸の仕方も忘れそうになる。
「はっ……」
椛が胸を抑えて蹲っていると、不意に視界が暗くなった。
「すまない。椛は赤が苦手だったな」
椛の目元を覆うひんやりとした手。それが暁のものだと気付いて、胸が騒いだ。
冷たい目をして無情に花を切り捨てたくせに、椛の耳に届く暁の声はやけにやさしい。
殺し屋としての暁と椛に接するときの暁。
別人のようなふたつの顔に、椛は戸惑いを隠せなかった。
椛は暁を殺しにきた不知火家の人間。何も知らなかったとはいえ、椛は暁が倒したふたりの男たちの同胞だ。
全てが暴かれたのに、暁がまだ椛を気遣う理由がわからない。
「なぜ、そんなに気にかけてくれるのですか。わたしは初めからずっとあなたを騙して殺すつもりでいたのに……」
目元にあてられた手を引き剥がすと、暁が椛の顔を間近で覗き込んできた。
「そうだな。だが俺も、おまえの命を狙う者を抹殺しろという依頼を受けている」
「……それは、誰から……?」
「依頼主は言えない。おまえも不知火の人間ならこの仕事をするうえでの決まり事を知っているだろう」
ひとりごとのような椛のつぶやきに、暁が淡々と答える。
けれど、椛が聞きたかったのは依頼主のことではなかった。それだってもちろん気にはなるが、それよりも恐ろしかったのは自分の命が狙われていたことだ。
もしかしたら、この単独任務は仕組まれたものだったのではないか。だとしたら、どこからだろう。
父は関わっていたのだろうか。それとも、椛の単独任務を知った姉が独断で信頼できる刺客を送り込んだのだろうか。
いずれにしても……
「姉さんの刺客はわたしを狙ってた……?」
「ああ、あれはおまえの姉の差し金だったか。それなら次は、その姉を殺らねばな」
暁の瞳が、ほんの一瞬鋭くなる。そのまなざしに、椛はビクッと震えた。
「姉を……?」
怯えの色を見せる椛に、暁は「そうだ」と不敵に笑ってみせる。それから椛の着物の左袖を捲ると、痣の残る腕をそっと撫でた。
「これだって、おおかた姉の仕業だろう。俺が仇を討ってやる」
低く冷たい声からは、暁の静かな殺意が感じられる。
暁は、誰かから受けた依頼で姉を殺すつもりなのだ。
物心ついた頃から、姉の椿には嫌われていると気付いていた。
けれど、まさか殺したいと思うほどに姉に憎まれているとは思わなかったし、その事実を知っても、暁に姉を殺してほしいとは思えない。
おそらくそれは、殺し屋としての椛の最大の欠点。
どれほどひどい仕打ちを受けても、姉を心の底からは恨んだりできない。
「あなたに仇を討ってほしいなどと思いません。それにわたしが姉に殺されるほど憎まれているのは、そもそもあなたのせいではないですか……!」
「なぜだ?」
「六年前、あなたが母を殺したからです。覚えているでしょう? 不知火家に忍び込んできた夜のこと。父は他の男を母殺しの犯人として捕まえましたが、わたしが見たほんとうの犯人はあなたでした。母は、わたしを守るように殺された。だから姉は、わたしのせいで母が死んだのだとずっと恨んでいる。そうでなくても、姉は母がわたし贔屓だと思っていましたから」
殺された母は、兄姉たちの中でも特に椛のことを気にかけていた。
というのも、不知火家では椛の出生についての悪い噂があったからだ。
母が椛を身籠ったことがわかったのは、父が数ヶ月以上もの長期任務で家を離れていたときのこと。それから椛が生まれるまでに、父は何度か長期の任務に出かけ、椛が生まれた日も父は不在だった。そういったこともあって、椛は母の不義理の子ではないかという噂がたった。
その噂は不知火の一族の中にまことしやかに広がっていき、物心ついたときにはすでに、椛は兄姉たちを含めた一族の者たちから疎外されていた。
いつもひとりぼっちでいる椛のことを、母はことさら気にかけた。自分の目の届くところに椛をおいて、心ない身内の悪意から守ろうとしてくれた。
けれど姉の目には、それが母が椛を過度に可愛がっているように映っていたのだろう。
姉は兄たちとは笑って話すのに、椛とは子どもの頃からほとんど目も合わせてくれなかった。事あるごとに椛を目の敵にして、母の見ていないところで嫌がらせをしてきた。
嫌われているのがわかっていても、椛は姉と仲良くなりたかった。そうして姉に近付いては、邪険にされて疎まれた。
姉は母が椛ばかりを愛していると思い込んでいたようだが、母の子どもへの愛情の与え方は平等だったと思う。
母は四人の子どもすべてにやさしくあたたかいまなざしを向けていたし、誰かが鍛錬で怪我をしたときには文字通り死ぬほど心配していた。
ただ、一族の中で疎まれていた椛への愛情の見せ方がほかの兄姉にすること少し違っただけ。
でも、姉にはそれがうまく伝わっていなかった。だって、幼い子どもは、どれだけやさしい言葉をかけてもらえるか、どれだけたくさん抱きしめもらえるか、わかりやすく目に見える物差しで愛を測る。
だから、姉は常に椛に嫉妬していた。そのうえ、母は椛を守って殺されたのだ。
『お母様が死んだのはおまえのせいだ』
母が亡くなったあと、姉からは何度も激しい怒りをぶつけられた。悲しかったけれど、椛はそれを仕方のないことだとも思った。
出来損ないの椛が任務で失敗する度に、罰を与えられることも。
姉はもう、母に愛されていたことを確かめることができないのだから。
「そうか……それでも、俺は椛の命を狙う者を抹殺しなければならない。報酬とともに受けた依頼は必ず遂行する。それが黒羽の頭領としての務めだ」
障子の向こうからわずかな月明かりだけが差し込む部屋に、暁の声が静かに響いた。
突き放すような冷たい声に、椛は胸の端っこがきゅっと縮むような気がした。
この七日間見てきた暁は、少し怠惰で適当で、けれど椛にやさしかった。その姿にずっと欺かれてきたが、やはりこの男は、任務のためなら無情になれる生粋の殺し屋なのだ。
「だが、今の椛に姉を気にかける余裕があるのか?」
無言の椛に、暁が問いかけてくる。わずかに目を見開く椛に、暁は含みのある笑みを見せた。
「おまえは期限内に俺を殺せなかった。任務を失敗したら、不知火には戻れないんだろう。家業の秘密を知っているおまえを、不知火がこのまま野放しにしておくと思うか?」
「なぜ、そんなことまで知っているの?」
「任務を確実に成功させるため。さて、椛。おまえはどうする?」
ふっと目を細めると、暁は椛の手に短刀を握らせた。椛から奪った短刀だ。
鈍く輝く刃には、彼岸花の花弁が一枚張り付いている。
鮮血のような赤。それを呆然と見つめていると、暁が短刀を持つ椛の手に手を添えた。
「もしおまえが今からでも任務を遂行させるつもりなら、俺も戦わなくてはいけない。俺は毒の異能で殺す。椛を傷付けるのは死ぬほど辛いが、おまえはきっとこの世で一番美しい花になるだろう」
そう言って、暁がまなざしを鋭くさせる。
さっき見た、彼岸花を切り落とす暁の姿。真っ赤な鮮血のように飛び散る花弁。
異能で花に変えられた自分が切られるところを想像すると、身体が震える。
毒の異能とはどういうものなのだろう。痛く苦しいのだろうか。
けれどこのまま暁を殺さず逃げれば、椛は今度は不知火から追われる身となる。暁の言うとおり、家業の暗殺任務に少なからず携わってきた椛を不知火が放っておくはずはないのだ。
それならせめて、最後の悪足掻きくらいはしなくては――
心を決めると、短刀を握る手に力を込めて振り上げる。
そのとき、
「ああ、そうだ」
暁がふと思い出したように口を開いた。
「最後に伝えておくが、椛の母を殺したのは俺じゃない」
「え……?」
いざ心を決めたところだというのに、間が悪い。これだって、きっと椛を油断させるための策のうちだろう。
黒羽の赤鴉は、最低最悪の殺し屋だ。
わかっているのに、短刀を振り上げた手が止まる。
「そんな嘘には騙されません……」
「嘘じゃない。あの夜、俺が不知火に忍び込んだときにはもうおまえの母親は他のやつに殺られてた。そいつがおまえにも手をかけようとしたから、俺が邪魔に入った。そいつは逃げだが、のちに捕まっただろう?」
「なにを言っているの……」
暁の話は嘘だ。椛には彼に助けられた記憶などない。
あるのは、椛を庇った母から散った血の赤と、倒れたの母の向こうに立っていた少年が夜の闇の中で燃える炎のように赤かったこと。



