非道な殺し屋頭領は、甘美な毒で花を欺く


 単独任務最後の夜。日付を跨ぐ直前に、椛は暁の部屋へと忍び込んだ。
 いつもは夜遅くまで起きている暁が、今夜はなぜか早めに眠りについた。
 だから、これが暁を仕留める最後のチャンスだった。
 なるべく音を立てないようにしながら、薄暗い部屋の中を暁の頭のほうへと移動する。
 枕元に跪いてかなり接近しても、暁は目を覚ます気配がない。
 殺し屋ならもう少し眠りが浅いものだと思うが、暁は同業者として心配になるほどぐっすりと寝ている。
 ゴクリと唾を飲み込むと、椛は静かに刀を抜いた。
 仕留めるなら、これが最後のチャンス。これを逃せば、椛はもう不知火家には戻れない。
 銀の刃の切先を、暁の喉元に突きつける。肌を傷付けるすれすれのところまでが刀を近付けると、目元に影を落とす長い睫毛がわずかに揺れた。一瞬ドキッとしたが、暁が目を覚ますことはなかった。
 間近で見れば、暁は眠っていても整った顔をしている。
 暁の寝顔を静かに見下ろしながら、椛は刀の柄を握る手に力を込めた。
 すぐに、じわっと手のひらに汗をかく。
 真っ直ぐに振り下ろして横に一搔き。やり方がわからないわけではないのに、思い切ることができない。
 刀を握る右手が、さっきからずっと細かに震えているのだ。そこに左手を添えても、なかなか震えは止まらない。
 そうしている間にも、刻一刻と時間は過ぎる。
(はやく、はやくしなければ……)
 両手で刀を握りしめたまま、ぎゅっと目を閉じる。そのとき、突然、右の手首がつかまれた。
「目を開けておかなければ、狙いは定まらないぞ」
 くつりと笑う声に、椛は驚きとともに目を開く。その瞬間、ニヤリと口角を上げた暁と目が合った。
 暗がりの中でもはっきりとわかるほど愉しそうな笑みに、椛の血の気が引いていく。
 首元に刀を突き付けられて笑うなんて、常人の精神ではあり得ない。それだけでなく、暁は椛が刃を向けていること自体に驚いている様子がない。
 暁は眠ったフリをしているだけだったのだ。
「いいのか、殺らなくて」
 椛を挑発するようにそう言って、暁が刀の先を自分の首に押し付ける。軽く当たった剣先が暁の肌を傷付け、細い鮮血が首筋を伝った。その赤色に、椛の神像が早鐘を打ち始める。
「いつから、わたしがあなたを狙っていると……?」
 震える声で訊ねると、暁が目元をすっと細める。
「おまえがここに来た日から」
「初めから……?」
 暁の言葉に、椛は大きく目を瞠った。
 団子屋の前で呼吸困難になって倒れかけた日。暁は、兄姉たちから殴られた椛の腕の痣を見て、椛を匿うと申し出てきた。女避けのため、暁のかりそめ夫婦になることを条件に。
 警戒心のなさには呆れたが、暁の椛に対する態度は好意的で、彼が椛を疑っているとは思えなかった。
 けれど、彼は黒羽の赤鴉。愚鈍なフリをしていただけで、椛が思うほど阿呆ではなかった。
 油断をさせて、最後に暁を欺く。そのつもりだったのに、椛のほうが欺かれていた。
 それも、初めから――
 刀を握る手をブルブル震わせていると、暁が椛の手首をゆるくつかんでいるだけだった手に力を込める。
「おまえが殺らないなら、俺からいくぞ。不知火 椛」
 低い声で名を呼ばれた次の瞬間、手首を捻られ、椛の視界が反転した。
 気付けば、見下ろしていたはずの暁に上から見下ろされている。その向こうには、木目の天井。完全に形勢逆転されてしまった。それだけでなく、暁は椛が不知火の手の者だということまで把握している。
 椛が握っていた短刀が、今は暁の手にあった。それが、暗い部屋の中で白い灯りのように光っている。
 任務を失敗すれば、不知火家からの追放される。ずっとそのことばかり恐れてきたが、危惧すべきはそれだけではなかった。
 任務に失敗するということはすなわち、黒羽の赤鴉に椛が殺される可能性もあったのだ。
「なぜそこまでわかっていて、七日もわたしを泳がせたのです?」
 懸命に暁を睨みつけたが、身体や声の震えは抑えられない。暁は椛から奪った短刀の峰をゆっくりとなぞると、不敵に笑んだ。
「せっかくだから、お手並み拝見と思ってな。なかなか、俺のところに正面から飛び込んでくる奴はいないぞ。だが、椛、おまえに殺しは向いていないな。右腕が万全ではないとはいえ、チャンスは何度もあっただろう」
 それ聞いた瞬間、椛の頬がピクリと引きつる。
 初めてここに来た日に暁に見られたのは、殴られて痣のできた左腕だけだ。
 姉たちとの共同任務中、標的の仲間に切られた右肩近くの傷は見られていない。傷はそれほど深くはなかったが、まだ完全には治り切っていなかった。
 ときどき痛むものの処置はしていて、動きに不自然さはなかったと思う。それなのに、見えてもいない怪我にまで気付かれていたなんて――さすが、黒羽の頭領だけあって侮れない。
「わたしを殺すつもりですか」
「さあ、どうするかな」
 ニヤッと笑ってそう言うと、暁が逆手で短刀を握り直す。それから、刀を持った腕を後ろに引いた。
「いずれにしても、殺るなら迷わず一撃で仕留める。少しでも躊躇すればやられるからな」
 そう言うと、暁が手にしていた刀を裏庭に面した障子に向かってぶん投げる。
「ぐわっ……」
 その瞬間、障子の向こうで男の呻くような低い声がする。
 てっきり殺されるのかと思えば、暁が狙ったのは椛とはまた別の敵。驚いて目を見開くと、暁が体勢を低くして椛に顔を寄せた。
「このまま動くな。もう一人いる」
 暁が椛に低く囁く。暁の吐息が耳をくすぐり、こんな状況にも関わらず、椛の胸がドクンと鳴った。
 ふたりで息を潜めていると、まもなく障子がカタンと音を立てる。向こうも向こうで、こちらの出方を窺っていたようだ。
 障子が少し開いた瞬間、暁が着物の袖から細い針のようなものを取り出して投げる。それが何かに刺さる音がして、低い悲鳴とともにドサッと鈍い音がした。
 そのあとは、もう何も聞こえない。暗い部屋の中ですべての音は消え、ただ椛の鼓動だけが激しく主張するように鳴り続けている。
 暁が仕留めたのは、どこの手の者だったのだろう。
 椛以外にも、黒羽の赤鴉を狙う者がいたのだろうか。それとも――