非道な殺し屋頭領は、甘美な毒で花を欺く


 暖簾をくぐると、さっきの女が朱色の和傘の下に座って待っていた。
 ツンと澄ました彼女のそばでは、小間使が控えめにうつむいている。
「お待たせしました」
「遅いじゃないの。お土産用のお団子もないじゃない。ただでさえ地味顔なのに、仕事もできないなんて。暁さんの妻になるには分不相応なんじゃない?」
 椛が女の横にお盆を置くと、と彼女が嫌みを言ってきた。けれど、店の前で女の挑発にのるわけにもいかない。
 ただでさえ、暁の妻として周囲に関心を持たれているから、これ以上目立つわけにはいかない。椛の本来の目的は、暁の暗殺なのだ。
「申し訳ありません。お土産用のお団子は今準備中なんです。お食事が終わる頃にお持ちしますから、しばらくお待ちください」
 椛が頭を下げてそう言うと、女が「ああ、そう……」と頷いて湯呑みに手を伸ばした。
 そのまま飲むのかと思えば、女が湯呑みのお茶を椛にかけてきた。
「熱っ……!」
 着物の裾と草履の素足に熱いお茶がかかり、おもわず飛び上がってしまう。椛がしゃがんで見ると、足の甲が赤くなっていた。しかも、ヒリヒリと痛む。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
 椛が視線を上げると、女が意地悪く目を細めていた。
 手が滑ったのではなくて、わざと熱いお茶をかけたのだ。
 そばに控えていた小間使は彼女の行動を見ていたはずだが、微妙に目を伏せて見て見ないフリをしている。きっと、彼女に逆らうことができないのだろう。
 任務で失敗する度に兄姉たちから罰を与えられてきた椛には、軽い火傷の傷自体はたいしたことない。
 けれど、任務最終日にこんな仕打ちを受けるとは運がない。
 黒羽の赤鴉の暗殺は失敗に終わる――
 そんな結果を暗示しているような気がして、椛は苦笑いした。
(結局、わたしは出来損ないのままで終わるのね)
 椛がゆっくりと立ち上がったそのとき、背後でふっと笑う声がした。
「手が滑ったねえ。よく言うよ。俺には、あんたがうちの奥さんにわざと熱いお茶をぶっかけたようにしか見えなかったが?」
 聞こえてきた声に、女が湯呑みを握ったまま頬をひきつらせた。
「あ、暁さん。こんにちは……わざとお茶をかけただなんて……何かの見間違いじゃありませんか」
 椛が振り向くと、暁が店の戸口にもたれかかるようにして立っている。
 いつのまに出てきたのだろう。手には団子の包みを持っている。眉間を寄せて女を睨む彼は、いつになく不機嫌そうだ。
 大股でズカズカと歩いてくると、暁が椛を背中に庇うようにして女の前に立った。それから着物左袖に右手を入れて、シュッと何かを引き抜いた。
「人の妻に無礼をはたらいて、よくそんな嘘がつけるな」
 低く冷たい声でそう言うと、暁が女の白い首に細く尖ったものを突きつける。
「旦那様……?」
 暗殺用の細身の刀かと焦って身を乗り出す椛だったが、暁が握っていたのは団子の竹串だった。それでも、目尻を吊り上げて凄む暁が握れば、殺傷力の高い武器のように見えてしまう。
「あとは他にも何か言ったな。椛が俺の妻には分不相応だと」
 低い声でそう言いながら、暁は今にも女の首に竹串を突き刺しそうだ。
「旦那様、それはわたしは気にしておりませんので」
「椛が気にしなくても、俺は気にする」
 椛が止めに入ったが、暁は女に突き付けた竹串をおろそうとしない。女を睨む暁の目は、完全に標的を狙う殺し屋のそれだ。
 標的でもない庶民の女に本気の殺意を向けるなんてどうかしている。
「さっき椛に向けた言葉を今すぐここで訂正しろ」
「い、いえ……私は何も……すべて暁さんの聞き間違えかと……」
 普段はのらりくらりとしていて適当な団子屋の主人に詰められて、女がガタガタと震える。そのとき、竹串の先が肌を掠めて、女の首に擦り傷をつくった。
「お、お嬢様……」
 そこでようやく、そばに震えていた小間使が間に入り、暁から女を守ろうとする。
「どけ、邪魔だ」
 けれど暁は、小間使にも睨みを効かせると、持っていた団子の包みを和傘の下に座る女の膝に押し付けた。
「それだけ持って、今すぐ失せろ。次に顔を見かけたときは、団子に毒を盛ってやる」
 暁がドスの聞いた声でそう言うと、女もほかに団子を食べにきていた客も震え上がった。
「も、申し訳ありません……」
 顔を青くした女が、小間使の腕を掴んでよろよろ立ち上がる。それから、そろそろと後ずさると、彼女は小間使とともに大急ぎで逃げていった。

「大事はないか……いや、あるな。すぐに足を冷やさなければ」
 女が去ると、暁は竹串を袖にしまって、やさしい声音で椛を気遣ってきた。
 さっきまで女を殺しかねない勢いだったというのに、あまりの変貌ぶりに椛の処理能力がついていかない。茫然と突っ立っていると、「おいで」と暁が椛の手を引いた。
 まだ店には他の客もいるというのに、暁は彼らに目もくれず、椛を裏の庭の井戸へと連れて行く。それから椛を適当な庭石に座らせると、井戸の水で手拭いを濡らして火傷した足の甲にあててくれた。
「それほどひどい火傷ではなさそうだな」
 患部を冷やしながら、暁がほっと息を吐く。どうやら本気で椛を心配してくれているらしく、そのことに驚いてしまう。
「ありがとうございます。あとは自分でできますから、暁さんは店に戻ってください。お客さんが待っています」
「客より椛のほうが大事だろう。勝手に待たせておけばいい」
「そういうわけには……さっきのこともありますし、このままではお客さんが店に寄り付かなくなりますよ」
「それもいいな。ずっと椛とのんびりしていられる」
 暁が濡らした手拭いをあてなおして、にこっと笑う。その仕草に、不覚にも椛の胸がときめいた。
 椛は暁のかりそめの妻。それなのに、彼はどこまで本気でその台詞を口にしているのだろう。
 もし冗談なら、あまり椛の心を揺らすようなことはやめてほしい。
 黒羽の赤鴉の暗殺のために与えられた期限は今日が最後。真夜中までに暁を仕留めなければいけない。
(それなら、今が絶好の機会なのかも……)
 やさしく手当てしてくれる赤髪の旋毛を見下ろしながら、椛は懐刀を手で探った。
 今の暁には隙がある。椛が躊躇さえしなければ、一発で仕留められなくても致命傷くらいは与えられるはず。それなのに——
 懐刀にあてた手が震えた。
 いつものように、目の前に飛び散る赤い鮮血が脳裏をよぎるからじゃない。目の前の赤色がとてもやさしくあたたかく思えて、刀が抜けないのだ。
「暁さんは怒ってくれましたが、あの方が言ったことは何も間違っていません」
「何の話だ?」
 椛のぼやきに顔を上げた暁が、不思議そうに首をかしげる。
「さっきの女性のお客様が言っていたことです。地味で仕事もできないし、兄姉たちと比べてどうしようもない出来損ない。かりそめの妻の身ではありますが、暁さんには分不相応です……」
 そう言いながら、椛は自分で口にした言葉に少し傷付いていた。自分が出来損ないであること以上に、暁の妻役としても相応しくないことに。
「俺はそんなふうには思わないけどな」
 うつむく椛の頬に、暁が手を差し伸べてくる。
 鍛えられた固い手のひらが、椛に触れるときはとてもやさしい。
「おまえは椛の花を見たことあるか?」
 唐突に訊ねられて、椛は小さく首を振る。
「秋に色付く紅葉もいいが、俺は春に咲く椛が好きだ。あまり目立たないが、赤の花が綺麗で可愛い。春になったら見せてやろう」
 暁の口にした「好き」の言葉と春の約束。それに、椛の心が揺れ動く。
 椛に与えられた期限は今日が終わるまで。それなのに、先の約束なんて困る。
 胸にせつなさが込み上げてきて、暁から視線をはずす。
(やっぱりわたしは、どうしようもない出来損ない)
 きっとこのまま最後まで、懐刀は抜けずに終わるだろう。