暁のかりそめ妻になった次の日から、椛は暗殺の機会を窺いながら団子屋の仕事を手伝うことになった。
団子屋の客は若い女性が多く、突然現れた「暁の妻」を名乗る椛に、疑いのまなざしが向けられた。
「しばらく病気で実家に帰らせていたが、良くなったから呼び寄せたんだ」
暁がそう説明したが、皆にそれを信じてもらえたわけではなさそうだった。
ふたりで店に立つとヤジがうるさく、暁は結局、椛に売り子を任せて、自分だけ奥に引っ込んだ。
ひとりで店に出ている椛は、暁に好意を寄せている若い女性にガンを飛ばされたり、着物の袖にゴミを入れられたり。暁の見ていないことで微妙な嫌がらせを受けている。
妻のフリをするのは、女避けどころか、暁を好きな女性たちの嫉妬心を煽っただけなのではないだろうか。
裏で団子の仕込みをしている暁は、充分な在庫を作ったあとは座敷でサボっている。
初日から、割を食っているのは椛ばかりだ。
とはいえ、椛だって、ただ従順に団子屋で働いているわけではない。
朝も昼も夜も、常に暁を暗殺する機を狙っている。
だが、うまくいかない。
椛が最初に動いたのは、暁の家に来たその日の夜。寝込みを襲おうとして失敗に終わった。本業は殺し屋にも関わらず、暁は夜遅くまで団子のたれの仕込みをしていて、待っている間に椛が先に寝落ちてしまったのだ。
それなら早朝目覚める前に……と思い、二日目はまだ朝も暗いうちに暁の部屋に忍び込んだが、既に布団は藻抜けの殻だった。
聞けば、暁は夜遅くに少し眠るだけで、夜明け前には起きて鍛錬のために走っているらしい。もしかしたら、そこで黒羽外来を受けた暗殺の仕事をしているのかもしれない。
三日目は徹夜で見張ろうと思っていたら、団子屋を閉めたあとで、暁が「ちょっと一杯やってくる」とふらりと家を出て行った。すぐに後を追おうとしたが、椛が家を出ると暁は既に姿をくらましていた。そのまま団子屋の開店時間まで戻ってこず、椛はヤキモキとした夜を過ごした。
四日目も五日目もそんな調子で失敗し、ようやく六日目で昼寝中の暁の寝首を掻く機会を得たが、情けないことに、手が震えてうまくいかなかった。
七日もあれば、黒羽の赤鴉を仕留められる。そう思っていたのに、現実は全然うまくいかない。
それもそのはずだ。椛はこれまで、一度も実戦で人を殺めたことがない。
訓練用の木製の人形に刃を立てたことなら何度もあるが、他の兄姉たちに比べれば威力は弱かった。とても実践で通用するレベルじゃない。
結局、黒羽の赤鴉に擦り傷ひとつつけられないままに、椛は猶予として与えられた七日目を迎えてしまった。
(今日中に赤鴉を仕留めなければ、不知火を追放されてしまう……)
いつも通りに団子屋の売り子に立った椛は、朝から不安と憂鬱でいっぱいだった。
この七日間で椛が得たのは、団子の適量なたれの付け方と釣り銭の勘定の正確性。
せっかく標的の家に入り込めたと言うのに、父や兄姉に知られれば失笑されるだろう。
(やっぱり、わたしはどうしようもない出来損ないだ……)
最後まで任務を諦めるつもりはないが、最悪の事態も考えておかなければいけない。
出来損ないとは言え、椛は不知火家の末子。暗殺を行っていた家の秘密もそれなりに知っている。
追放されたあとは、今度は椛が不知火家の暗殺対象になるかもしれない。そうなったら、父はともかく兄姉たちは椛に容赦しないだろう。
彼らは子どもの頃から椛のことが好きではない。なかでも姉の椿は、特に椛を嫌っている。
六年前、母は椛を庇うようにして殺された。だから、椿は椛のせいで母が死んだと思っているのだ。
椛が浮かない顔で立っていると、ドンッと誰かに肩を押された。
「ちょっと! あんた、話聞いてるの」
よろける椛の耳に、女の苛立った声が飛び込んでくる。
ハッとして顔を上げると、腕組みした女が椛を睨み付けてきた。
どこかで見たことがあると思ったら、初めてここに来た日に会った鮮やかな紅の女だ。質の良さそうな着物を身に付けた彼女のそばには、椛よりも少し幼い雰囲気の小間使が控えている。
今日も紅の赤が目立ったが、会うのが二度目だからか、この前のような呼吸困難にはならなかった。
「すみません。少しぼーっとしてしまって。今日はこちらでお召し上がりですか」
「あなたじゃなくて、暁さんがいいのだけれど。いらっしゃるんでしょう?」
薄く笑顔を作る椛を見て、女が不快げに眉を寄せる。
「ええ。ですが、旦那様は今日も表には出ないかと……」
「なぜ? 呼んでくればいいじゃない」
「呼んでも出て来ないと思います。女性のお客様の対応に疲れて、わたしに売り子を任せているようなので」
「あら、そう。あなた、もうすっかり暁さんの妻気取りなのね」
嫌味たっぷりにそう言う女のことを、椛はあまり好きになれそうもなかった。
「妻気取りではなく、妻です」
小さな声で反論すると、女が眉間を寄せて軽く舌打ちしてきた。
「お嬢様……」
「わかってるわ」
下品な態度を小間使に咎められ、女が不機嫌そうに唇を尖らせる。それから女は椛を睨むと、
「団子を一皿とお茶をひとつ。ここで食べるわ。それから、お土産用のお団子を包んで」
少し高圧的な態度で言った。
「かしこまりました」
女からの注文を受けて店に入ると、暁はごろんと座敷に寝転んでいた。
作業場の団子の数を見ると、とりあえず一人前は用意できるが、お土産用に包む団子の数が足りない。
「旦那様、お土産用の注文が入りましたよ。サボってないで、そろそろ追加の用意をお願いします」
「開店前に作った分がもう売り切れそうなのか? 椛が来てから、売り上げが好調だな。この調子でどんどん売ってくれ」
相変わらず寝転んだままの暁が、椛に背を向けたままで手だけをひらひら振ってくる。
団子屋は素性を隠すためのかりそめ仕事。毎夜のたれの仕込みだけは熱心だが、商売自体にはそこまでやる気がない。
団子屋という肩書があればいいだけなので、自分は裏にいて椛に働かせる今の状況が楽なのだろう。
同じ暗殺稼業の者としてはわからなくもないが、暁はあまりにも怠けすぎる。
店を開く以上、お客さんの需要にはきちんと応えるべきだ。そう思って必要以上に売り子の仕事に精を出してしまう椛は、出来損ないのくせに根が真面目なのだ。
「もう、ほんとうにいい加減なのですから。わたしがお食事用のお団子を運んで戻ってくるまでに、ちゃんと準備をしてください。お願いしますよ、旦那様」
お茶を淹れながら少し強い口調で言うと、暁がごろんと寝返りを打って椛のほうを向いた。
「名を呼んでくれたら、やる気が出るぞ」
「なんですか、それ」
怪訝に眉を寄せると、暁が肩肘をついて上半身を起こす。そうして、目を細めてふっと笑った。
「俺は椛の声で名を呼んでもらうのが好きなんだ」
「え……?」
突拍子のない暁の言葉に、椛の心臓がドクンと跳ねた。
好きとはどういう意味だろう。単純に趣味嗜好としての椛の声が好ましいということだろうか。それとも、もっと別の意味——?
胸がざわつき、急須を持つ椛の手がプルプルと震える。
なぜだかわからないが、暁はふたりのときは自分を名前で呼べと言う。椛はずっと、暁がそうやって椛が彼の領域に踏み込まないように線引きしているのだと思っていた。
「旦那様」と呼んで夫婦のフリをするのは客の前だけ。そうでないときのふたりは他人。
けれど今の口ぶりでは、暁が名前で呼ばれることのほうに何か特別な意味を感じているように思える。そうして、それに気付いた椛の胸は何かに共鳴するように小さく震えていた。その事実が恐ろしい。暁は、椛の標的で母の仇なのだから。
「ねえ、ちょっと! お団子はまだなの?」
椛が動きを止めていると、暖簾の向こうから客の苛立った声が聞こえてくる。その声で我に返った椛は、慌てて急須を置いて、団子とお茶をのせたお盆を持ち上げた。
「はーい! ただいまお持ちします」
暖簾の向こうに大きな声でそう答えたあと、暁を少し振り返る。
暁は相変わらず畳に肘をついて寝ころんだまま、含みのある目で椛を見てきた。おそらく、彼はまだ待っているのだ。椛が彼の名を呼ぶことを。
「お団子の追加お願いしますね、暁さん」
椛が遠慮がちに名前を呼ぶと、暁がニヤリと口角を引き上げた。
「承知した」
満足そうな彼の表情が、椛の感情を揺さぶる。なぜか耳朶が熱くなるのを感じて、椛は慌てて暁に背を向けた。
団子屋の客は若い女性が多く、突然現れた「暁の妻」を名乗る椛に、疑いのまなざしが向けられた。
「しばらく病気で実家に帰らせていたが、良くなったから呼び寄せたんだ」
暁がそう説明したが、皆にそれを信じてもらえたわけではなさそうだった。
ふたりで店に立つとヤジがうるさく、暁は結局、椛に売り子を任せて、自分だけ奥に引っ込んだ。
ひとりで店に出ている椛は、暁に好意を寄せている若い女性にガンを飛ばされたり、着物の袖にゴミを入れられたり。暁の見ていないことで微妙な嫌がらせを受けている。
妻のフリをするのは、女避けどころか、暁を好きな女性たちの嫉妬心を煽っただけなのではないだろうか。
裏で団子の仕込みをしている暁は、充分な在庫を作ったあとは座敷でサボっている。
初日から、割を食っているのは椛ばかりだ。
とはいえ、椛だって、ただ従順に団子屋で働いているわけではない。
朝も昼も夜も、常に暁を暗殺する機を狙っている。
だが、うまくいかない。
椛が最初に動いたのは、暁の家に来たその日の夜。寝込みを襲おうとして失敗に終わった。本業は殺し屋にも関わらず、暁は夜遅くまで団子のたれの仕込みをしていて、待っている間に椛が先に寝落ちてしまったのだ。
それなら早朝目覚める前に……と思い、二日目はまだ朝も暗いうちに暁の部屋に忍び込んだが、既に布団は藻抜けの殻だった。
聞けば、暁は夜遅くに少し眠るだけで、夜明け前には起きて鍛錬のために走っているらしい。もしかしたら、そこで黒羽外来を受けた暗殺の仕事をしているのかもしれない。
三日目は徹夜で見張ろうと思っていたら、団子屋を閉めたあとで、暁が「ちょっと一杯やってくる」とふらりと家を出て行った。すぐに後を追おうとしたが、椛が家を出ると暁は既に姿をくらましていた。そのまま団子屋の開店時間まで戻ってこず、椛はヤキモキとした夜を過ごした。
四日目も五日目もそんな調子で失敗し、ようやく六日目で昼寝中の暁の寝首を掻く機会を得たが、情けないことに、手が震えてうまくいかなかった。
七日もあれば、黒羽の赤鴉を仕留められる。そう思っていたのに、現実は全然うまくいかない。
それもそのはずだ。椛はこれまで、一度も実戦で人を殺めたことがない。
訓練用の木製の人形に刃を立てたことなら何度もあるが、他の兄姉たちに比べれば威力は弱かった。とても実践で通用するレベルじゃない。
結局、黒羽の赤鴉に擦り傷ひとつつけられないままに、椛は猶予として与えられた七日目を迎えてしまった。
(今日中に赤鴉を仕留めなければ、不知火を追放されてしまう……)
いつも通りに団子屋の売り子に立った椛は、朝から不安と憂鬱でいっぱいだった。
この七日間で椛が得たのは、団子の適量なたれの付け方と釣り銭の勘定の正確性。
せっかく標的の家に入り込めたと言うのに、父や兄姉に知られれば失笑されるだろう。
(やっぱり、わたしはどうしようもない出来損ないだ……)
最後まで任務を諦めるつもりはないが、最悪の事態も考えておかなければいけない。
出来損ないとは言え、椛は不知火家の末子。暗殺を行っていた家の秘密もそれなりに知っている。
追放されたあとは、今度は椛が不知火家の暗殺対象になるかもしれない。そうなったら、父はともかく兄姉たちは椛に容赦しないだろう。
彼らは子どもの頃から椛のことが好きではない。なかでも姉の椿は、特に椛を嫌っている。
六年前、母は椛を庇うようにして殺された。だから、椿は椛のせいで母が死んだと思っているのだ。
椛が浮かない顔で立っていると、ドンッと誰かに肩を押された。
「ちょっと! あんた、話聞いてるの」
よろける椛の耳に、女の苛立った声が飛び込んでくる。
ハッとして顔を上げると、腕組みした女が椛を睨み付けてきた。
どこかで見たことがあると思ったら、初めてここに来た日に会った鮮やかな紅の女だ。質の良さそうな着物を身に付けた彼女のそばには、椛よりも少し幼い雰囲気の小間使が控えている。
今日も紅の赤が目立ったが、会うのが二度目だからか、この前のような呼吸困難にはならなかった。
「すみません。少しぼーっとしてしまって。今日はこちらでお召し上がりですか」
「あなたじゃなくて、暁さんがいいのだけれど。いらっしゃるんでしょう?」
薄く笑顔を作る椛を見て、女が不快げに眉を寄せる。
「ええ。ですが、旦那様は今日も表には出ないかと……」
「なぜ? 呼んでくればいいじゃない」
「呼んでも出て来ないと思います。女性のお客様の対応に疲れて、わたしに売り子を任せているようなので」
「あら、そう。あなた、もうすっかり暁さんの妻気取りなのね」
嫌味たっぷりにそう言う女のことを、椛はあまり好きになれそうもなかった。
「妻気取りではなく、妻です」
小さな声で反論すると、女が眉間を寄せて軽く舌打ちしてきた。
「お嬢様……」
「わかってるわ」
下品な態度を小間使に咎められ、女が不機嫌そうに唇を尖らせる。それから女は椛を睨むと、
「団子を一皿とお茶をひとつ。ここで食べるわ。それから、お土産用のお団子を包んで」
少し高圧的な態度で言った。
「かしこまりました」
女からの注文を受けて店に入ると、暁はごろんと座敷に寝転んでいた。
作業場の団子の数を見ると、とりあえず一人前は用意できるが、お土産用に包む団子の数が足りない。
「旦那様、お土産用の注文が入りましたよ。サボってないで、そろそろ追加の用意をお願いします」
「開店前に作った分がもう売り切れそうなのか? 椛が来てから、売り上げが好調だな。この調子でどんどん売ってくれ」
相変わらず寝転んだままの暁が、椛に背を向けたままで手だけをひらひら振ってくる。
団子屋は素性を隠すためのかりそめ仕事。毎夜のたれの仕込みだけは熱心だが、商売自体にはそこまでやる気がない。
団子屋という肩書があればいいだけなので、自分は裏にいて椛に働かせる今の状況が楽なのだろう。
同じ暗殺稼業の者としてはわからなくもないが、暁はあまりにも怠けすぎる。
店を開く以上、お客さんの需要にはきちんと応えるべきだ。そう思って必要以上に売り子の仕事に精を出してしまう椛は、出来損ないのくせに根が真面目なのだ。
「もう、ほんとうにいい加減なのですから。わたしがお食事用のお団子を運んで戻ってくるまでに、ちゃんと準備をしてください。お願いしますよ、旦那様」
お茶を淹れながら少し強い口調で言うと、暁がごろんと寝返りを打って椛のほうを向いた。
「名を呼んでくれたら、やる気が出るぞ」
「なんですか、それ」
怪訝に眉を寄せると、暁が肩肘をついて上半身を起こす。そうして、目を細めてふっと笑った。
「俺は椛の声で名を呼んでもらうのが好きなんだ」
「え……?」
突拍子のない暁の言葉に、椛の心臓がドクンと跳ねた。
好きとはどういう意味だろう。単純に趣味嗜好としての椛の声が好ましいということだろうか。それとも、もっと別の意味——?
胸がざわつき、急須を持つ椛の手がプルプルと震える。
なぜだかわからないが、暁はふたりのときは自分を名前で呼べと言う。椛はずっと、暁がそうやって椛が彼の領域に踏み込まないように線引きしているのだと思っていた。
「旦那様」と呼んで夫婦のフリをするのは客の前だけ。そうでないときのふたりは他人。
けれど今の口ぶりでは、暁が名前で呼ばれることのほうに何か特別な意味を感じているように思える。そうして、それに気付いた椛の胸は何かに共鳴するように小さく震えていた。その事実が恐ろしい。暁は、椛の標的で母の仇なのだから。
「ねえ、ちょっと! お団子はまだなの?」
椛が動きを止めていると、暖簾の向こうから客の苛立った声が聞こえてくる。その声で我に返った椛は、慌てて急須を置いて、団子とお茶をのせたお盆を持ち上げた。
「はーい! ただいまお持ちします」
暖簾の向こうに大きな声でそう答えたあと、暁を少し振り返る。
暁は相変わらず畳に肘をついて寝ころんだまま、含みのある目で椛を見てきた。おそらく、彼はまだ待っているのだ。椛が彼の名を呼ぶことを。
「お団子の追加お願いしますね、暁さん」
椛が遠慮がちに名前を呼ぶと、暁がニヤリと口角を引き上げた。
「承知した」
満足そうな彼の表情が、椛の感情を揺さぶる。なぜか耳朶が熱くなるのを感じて、椛は慌てて暁に背を向けた。



