さっきの女のことは冷たく追い払っていたというのに、中に入れてもらえるなんてありがたい。隙を見つけて、仕留めてしまおう。
だが、そんなにうまくいくだろうか。すでに椛の正体がバレていて、逆に罠にかけられている可能性は――?
いろいろと不安になったが、男は椛を店の奥の座敷に通すと、言葉通りに団子と熱いお茶を出してくれた。
「着替えて来るから、ゆっくり食ってろ」
そう言うと、みたらしで汚れた着物を着替えるために奥へと引っ込む。
そうやって椛が油断したところで、後ろから返り討ちにされるかもしれない。もしくは、団子に毒を盛られているとか……
ここは敵地。赤鴉の出方に気を付けて、仕留めるタイミングを見誤らないようにしなくては。
椛が警戒していると、しばらくして、男がさっきと同じような濃紺の着物に着替えて戻ってきた。
団子にもお茶にも手をつけていない椛を見ると、男が不審そうに首を傾げる。
「どうした? あまり腹が減っていないか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「遠慮せずに食っていいぞ。別に毒など盛っていない」
にやっと笑うと、男が皿から団子を一串手に取り齧る。
心を見透かされたようでドキッとしたが、男はただ何の気無しに言っただけらしい。そのまま呑気に団子を食っている。
(これが、冷酷非道な黒羽の赤鴉……)
なんだか、拍子抜けだった。こんなに呑気そうな男が、世間でも恐れられている殺し屋とは俄かに信じられない。
外で女を追い払ったときの声色は怖かったが、椛と話す口調は穏やかだ。
「それはさておき、ああいうのはよくあるのか?」
「ああいうの……?」
「さっきの発作のようなやつだ」
首を傾げる椛に、男が無遠慮に聞いてきた。
「あ、ああ……ごくたまに……」
とは言っても、幼い頃に緊張状態で赤い色を目にしたときに数回あった程度で、最近はあんなふうに呼吸困難に陥ったことはなかった。
単独任務で初めから想定外のことが起こり、自分で思う以上に緊張していたのかもしれない。
「たまにでも、ひとり旅でああいうことが起これば困るだろう」
「まあ……でも、赤に気を付けていれば大丈夫なので」
「赤?」
「はい。赤い色が苦手なんです」
「なるほど……」
男がボソリとつぶやいて、椛の菅笠を手に取り被る。
両手で笠のふちを摘んで顔を隠す男の姿に、椛はわけがわからず目をパチクリさせた。
「あの……いったい、なにを?」
不審に思って眉を寄せると、笠の向こうで男が言う。
「俺の髪は、おまえの苦手な赤だ」
まさか標的に気遣われるとは思わず、椛はぽかんと笠の中心を見つめた。
「ああ、そういえば……」
「そういえば? おまえは俺の赤髪を見て倒れかけたんじゃないのか」
男が、ほんの少し笠を持ち上げて顔を覗かせる。悪戯が見つかったときの子どものような、バツの悪そうな表情。それを見て、椛はおもわず吹き出した。けれどすぐに、口元に手をあて、表情を殺す。
相手はこれから暗殺すべき標的。和んでいる場合ではない。
「笑ったな。ということは、俺の赤髪は見ても平気なのか」
「そうですね……わたしが反応したのは、店から出てきた女性の紅の色です。たぶん、あなたの赤髪は大丈夫……」
「そうか、それならよかった」
椛の反応に、男は気を良くしたようだった。菅笠をとると、にこっと歯を見せる。
非道な殺し屋と言われる男のあまりにも無防備な笑顔に、椛はひどく面食らった。
標的を間違えているのではないかと、少し不安になるほどに。
だが言われてみれば、赤が苦手な椛が、男の髪色には少しの恐怖も感じなかったのは不思議だ。
椛が赤がだめになったのは、おそらく彼のせいなのに。
十歳の頃、母が不知火家に忍び込んだ男に命を奪われた。それも、椛の目の前で。
記憶に残っているのは、椛を背中に庇った母から散った真っ赤な鮮血。
倒れたの母の向こうに立っていたのは、椛とあまり年が変わらない華奢な少年。彼の赤髪は、夜の闇中で燃える炎のようだった。
黒羽の赤鴉。彼がそう呼ばれていることを知ったのは、その夜からだいぶ経ってからのことだ。
ショックで気を失った椛が目覚めると、母を殺したとされる男が捕えられていた。その男は、赤鴉とは別の大人だった。
混乱した椛は、結局、母の死に赤鴉が関わっていたかもしれないことを父に伝えられなかった。父から、今回の任務を与えられたときでさえも。
今になって、六年前の母を殺しの犯人をひっくり返したところで母が戻るわけでもない。母を失った哀しみからようやく少し癒えつつある父を困らせるだけだとわかっているし、母殺しが赤鴉の仕業だと証明できる証拠もなかった。
黒羽の赤鴉は、標的を異能で始末する。狙われた者は骨まで跡形もなく消され、残るのは着物だけ。その上に、血のような真っ赤な彼岸花が落とされている。
だが、母が亡くなったときは、そういった赤鴉の痕跡は残っていなかった。そんな状況で、出来損ないの椛が赤鴉を見たと言っても、信じてもらえるはずがない。
彼を目撃したのは、椛ただひとり。気を失う前の幻だったのではないかと問われてしまえば、それまでだ。
だから、母の死の間際に見た者のことは、これまでずっと胸の中にしまってきた。恐ろしい、真っ赤な鮮血の記憶とともに。
でも、今回任された単独任務に成功すれば、不知火家からの追放を免れるだけでなく、母の仇を取ることもできる。
(狙いを付けるなら、赤鴉が油断している今だろうか)
タイミングに迷いながら、椛の手が着物の上から懐刀を探る。今度こそそれを引き抜こうとしたとき、ヒュンッと風を切る音がして、椛に向かって菅笠が飛んできた。男が笠を投げたのだ。
「ひゃっ……」
菅笠を受け止めて驚く椛に、男がふっと笑いかけてくる。おかげで、刀を抜くタイミングを失った。
「さて、これから夜も更けるがどうする? どこかに宿を取るか? それとも、ここに一晩泊まっていくか」
冗談めかした男の提案に、椛はこれはチャンスかもしれないと思った。
この店に宿を借りれば、赤鴉を仕留める隙もあるだろう。
男と二人きりで、しかも敵地で夜明かすと思うと不安だが、任務のために背に腹は変えられない。
「もしお言葉に甘えて良いのなら、一晩泊めてもらえませんか? 実はわたしはずっと、行く宛のない旅をしているのです」
嘘は苦手だ。だからこそ、言葉を選び損ねないように慎重に話す。そんな椛を、赤髪の男がじっと見つめてきた。
あまりにまっすぐな男のまなざしに、嘘がバレているのではないかとヒヤヒヤする。だが、それは椛の杞憂だとすぐにわかった。
「……もしかしておまえ、逃げているのか?」
「え……? いえ、わたしは……」
杞憂どころか、想定外のことを男に真顔で訊ねられて困る。
「ちょっと見せろ」
赤髪の男がまごつく椛の左手を引いて、着物の袖を捲る。その下から現れた傷跡や無数の痣に、椛はあわてて袖を戻した。
腕の傷跡は、鍛錬や任務の失敗で兄姉に殴られたときにできたもの。古いものもあれば、まだ痛々しい青痣もある。こんなものを見られては、自分がただの旅の女ではないとバレてしまう。
「これは、その……」
青ざめる椛に、男が険しいまなざしを向ける。
いざとなったら、すぐにでも刀を抜いて男に振り下ろさなければいけない。
椛がゴクリと唾を飲み込んだとき、
「事情は察した……」
男が、どこか憂いを含んだ声でつぶやいた。
察した……? やはり、椛が殺し屋だとバレたのだ。
「それなら、話は早いですね」
緊張して声を震わせながら、椛が後ずさって身構える。緊迫した空気の中で、「そうだな」と男が頷いた。
「一晩と言わず、しばらくここに留まればいい。俺がおまえを匿ってやる」
「……は?」
男の言葉に、椛の肩の力が抜けた。
(な、なにを言っているの、この人……)
「心配するな。こう見えて、俺は結構腕が立つ」
それはそうだろう。本業は殺し屋なのだから。
男は自信ありげだが、椛の心配はそこじゃない。
殺し屋一味の頭領が、何処の馬の骨ともしれない旅の女を匿うなんて。その発言自体、どうかしている。
椛が信用できるという保障は――?
この男は警戒心というものを備えていないのだろうか。それとも、ただの阿呆なのか……標的ながら、心配だ。
椛が不安そうな表情を浮かべていると、男がニヤッと笑った。
「だが、匿う代わりに見返りはもらう。ここに店を置いている間、おまえには俺の妻のフリをしてほしい」
「つっ……妻!? なぜわたしが……」
突拍子もない提案に、驚いて声がひっくり返る。
「交換条件というのもあるが、それ以上におまえがこの町の人間じゃないのが好都合なんだ。ここに店を出してから、雑音がうるさい。こっちは仕事があるというのに、さっきのようにすり寄ってくる女が多くて迷惑している。だが、妻がいるとわかればそれも減るだろう」
「はあ……つまり、あなたの女避けのために妻のフリをしろ、と……?」
男のさり気ないモテ自慢に、椛は無の表情で訊ね返した。
「おまえを傷つける人間から守ってやる代わりの交換条件だ」
「交換条件……」
標的の妻のフリなんて、気が進まない。
標的との慣れ合いは、任務を妨げる要因になる。特に、感情がブレやすく、殺し屋としても未熟で出来損ないの椛には――
けれど、出来損ないだからこそ、男の交換条件を受けるべきなのかもしれない。今だって、男のペースに乱され、刃を突き付けるタイミングを失っている。
椛に与えられた期限は七日。男が椛の正体に気付いていないのなら、もっと距離を詰めて信用させて、最後に裏切ればいい。
今後も不知火家に残りたいなら、それくらいのことは、できて然り。それに、赤鴉は母の仇だ。恨みが募ることはあっても、彼に情が移るようなことはないはず。
静かに逡巡する椛を見つめる男が、うっすらと微笑を浮かべている。
男だって同じ殺し屋。親切心を装っているが、彼だって滞りなく任務を遂行するために椛を利用するのだ。そうでなければ、初対面の旅の娘をかりそめの妻にするわけない。
もちろん、黒羽の赤鴉が阿呆でなければの話だが。
「交換条件、お受けします。しばらくここでお世話になって良いでしょうか」
「承知した」
頭を下げた椛に、男がにこっと笑ってみせる。それから、膝を擦って移動してきて椛の前に座った。
「それで、おまえの名は何と言うんだ?」
「椛です」
「椛……」
男がわずかに目を細めるのを見て、椛の顔から血の気が引いた。
不知火家の名は、界隈で知られている。同業者相手に本名を名乗るときは注意しなければならないというのに、任務経験が浅いためうっかりしていた。
こういうところも、出来損ないと言われる所以だ。せっかく標的の懐に入り込めそうなのに、ここで終わりたくはない。
(隙があれば、今――)
もう何度もそう思いながら行動できずにいる手で、懐刀を探る。そんな椛の頬に、男がそっと手で触れてきた。
骨ばって硬い、ひんやりとした冷たい手。
椛がビクッと肩を揺らしたとき、男がふっと笑った。
「俺の名は暁。心配するな、椛。俺のそばに留まる限り、おまえを全力で守ってやる」
男の穏やかな低い声。これが非情な殺し屋なものだとは信じ難い。
懐刀に手を当てた椛の胸が不穏に騒ぐ。
なぜかとても満足そうな笑みを浮かべる男を前に、椛はやはり刀を抜くことができなかった。



