誰にも内緒の観察日記


 更衣室まで大した距離もないくせに、ゼェゼェと息を切らしながらドアを開ける。とっくの前に昼休みに突入している。昼ごはんを食べるために腹ぺこのクラスメイトは早々に着替えを済ませたらしく、そこには誰も残っていなかった。半泣きになりながら制服に着替えていれば、心配の色を浮かべた隅田が戻ってきた。

 「侑、大丈夫か?」
 「っ、隅田が僕を放置するから……」
 「ごめんごめん、悪かったよ」

 キッと隅田を見上げて睨みつければ、反論なしに謝られる。そんな大人な態度を取られると八つ当たりした僕にも罪悪感があるわけで、しゅんと小さくなってしまう。他責ばかりして、最低だ。

 「ちがう、隅田は悪くない」
 「ん、夏川が『ごめん』って謝ってた」
 「夏川くんも悪くない」
 「そっか、じゃあ後でそれを本人に直接言ってやれよ」
 「全部、僕が悪いんだ」
 「何でそうなるんだ、顔上げろ。いつものオヒメサマはどこ行ったんだよ。推し? ってのだっけ、特別な相手から急に話しかけられたらパニックになるのもしょうがないだろ」
 「……待って、僕が推してるって言ってないよね?」
 「言ってねぇから安心しろ」
 「よかったぁ……」

 さすがは隅田。その辺りはしっかり弁えているらしい。ほっと胸を撫で下ろしたときだった。更衣室のドアが開いて、間宮くんと夏川くんが入ってくる。バチッと夏川くんと目が合ってしまって、気まずさからすぐに目を逸らして後悔した。顔も見たくないって思われてないかな。違うんだって、それを否定したくてもコミュ障には正解の選択肢が出てこない。ごめんねを伝えたくて口を開くけれど、何と切り出したらいいのか分からなくてまた閉じる。目を潤ませながら口をぱくぱくさせている僕を見かねた隅田が、僕の肩に手を乗せて夏川くんに話しかける。

 「あっ、夏川、ちょうどいいところに」
 「俺?」
 「侑がさ、言いたいことあるって」
 「綿谷くん……、その、さっきは、」
 「ごめん! 全部僕の行動が裏目ってるというか、あの、とにかく夏川くんのことを嫌いってわけじゃないから、そこは勘違いしてほしくなくて……」
 「…………」
 「傷つけてごめんなさい」

 申し訳なさそうな顔の夏川くんがまた謝ってこようとするから、それを遮って必死の弁明。オタクの早口に呆気にとられていた夏川くんは、僕の謝罪を受け止めてふわりと顔を綻ばせた。

 「嫌われてないならよかった。でも、急に話しかけてびっくりさせちゃったのはごめんね」
 「そんな、僕の方こそ、」
 「はい、ストップ。誤解もとけたみたいだし、お前らいつまで経ってもお互いに謝ってばかりになりそうだから、この件はもうおしまいな」

 間宮くんの前だっていうのに、謝罪を繰り返そうとする僕の頭を隅田が撫で回して、髪の毛をぐちゃぐちゃにする。ああもう、ひどい。神がかったビジュの二人を前にこんな状態にするなんて。でも、間宮くんの前で隅田を睨むなんてことはできなくて、我慢するしかない。僕と夏川くんが話している間ずっと、間宮くんの視線が僕に向けられているような気がするけれど、もし目が合っちゃったらまた取り乱す自信しかなくて頑なに右側に視線を向けようとはしなかった。それなのに……。

 「いいなぁ、綿谷くんと仲良くなってて」
 「ふふ、こういうのは行動したもん勝ちだろ?」
 「最悪、出し抜かれた」
 「颯斗は隅田と仲良くしてたじゃん」
 「それはそうだけど」
 「不満そうじゃん」
 「いや、そこで俺の名前出されたら気まずいって」
 「ごめん、話せて楽しかったのは事実だよ。でも、それとこれとは話が別っていうか……」

 目の前で繰り広げられる神々の会話。普通に隅田も参戦していることに慄きながらも、話題が自分だということにぴんと背筋が伸びる。間宮くんの口から「綿谷」って名前が出ただけで感動。僕の名前、知っていたんだ。さすがクラストップの人格者。僕なんてまだまだ顔と名前が一致しない人もいるのに、もうクラスメイトの名前を全員分覚えているんだろうな。すごいな、間宮くんと心の観察日記に書き記す。

 「ねぇ、綿谷くん」
 「…………」
 「綿谷くん?」
 「…………っ」
 「侑?」

 話題の中心が自分だとはいえどこか他人事のように思っていたから、突然自分の名前を呼ばれてうまく反応できない。プシューと体の中心から熱が上がってきて、顔が真っ赤に染まっているのを自覚する。どうやって声って出していたんだっけって戸惑っている間に沈黙の時間は続いていく。どうしよう、無視したみたいになっちゃった。助けを求めて隣に立つ隅田の体操服の裾をぎゅって握ったら、隅田が顔を覗き込んでくる。見慣れた顔に少しほっとして息を吐き出せば、いつもの「しょうがねぇな」という表情で隅田が口元を緩ませた。

 「ごめん、コイツ人見知りでさ。無視したくてしてるとかじゃないから許してやって」
 「そっか、それならいいんだ。また今度、落ち着いたときに俺とも話してくれる?」

 あなたと一緒にいて、僕が落ち着くことはないと思います。そうはっきりと断言できるけれど、間宮くんにそんな失礼なことを言えるはずがない。僕みたいなモブが何様だって反逆罪で捕えられる。間宮くんの優しい言葉に頷きたいのに、推しに嘘をつくことはしたくなくて何も反応を返せない。困らせていると頭では理解していても、行動には移せない。

 「颯斗、しつこいって」
 「……洸」
 「人見知りなら立て続けに二人も相手するのしんどいでしょ」

 困り果てた僕に助け舟を出してくれたのは夏川くんだった。しつこいなんてそんなこと思っていないのに、間宮くんは少し沈んだ声で「そうだね」と肯定する。ああ、そんな声を出さないで。罪悪感に苛まれて、胃の中に冷たくて硬い異物を押し込まれているみたいだ。

 「じゃあ、俺ら先行くわ。侑、ほらかばん持って」
 「綿谷くん、またね」
 「…………ごめん、なさい」

 若干の気まずさが残る更衣室。わざとらしく明るい声を出す隅田がスタスタと歩き出すから、慌ててその後を追いかける。部屋を出ようとした瞬間、後ろから間宮くんの声が届いて、僕は振り返ることはせずに消え入りそうな声で謝った。それに対する答えも反応も見たくなくて勢いよく一歩踏み出せば、更衣室を出たところで僕を待っていた隅田の背中に頭突きをお見舞いしてしまう。

 「いっ、びっくりしたぁ」
 「あ、ごめん。前見てなかった」

 ぶつけた額を擦りながら謝れば、隅田にその手を止められる。何だと固まっていれば隅田は僕の前髪をかきあげて、じいっと真面目に観察している。

 「よかった、ちょっと赤くなってるけどそこまで酷くはならなさそう」
 「大袈裟だな、これぐらい平気だよ」

 僕から突っ込んでいったっていうのに、自分が悪いみたいな顔をしないでよ。こんなときだからこそ、隅田の優しさが痛い。傷ついたばかりのボロボロの心臓に絆創膏が不器用に貼られていく。

 「うん、分かってる。でも、オヒメサマを心配するのは俺の特権だろ」
 「……ばーか」
 「ほら、早く行かねぇと昼休みが終わっちまう。あの二人のことを気にしてんだろうけど、今は一回全部忘れとけ」

 わざとふざけてるんだって、僕だってもう子どもじゃないから分かってるんだよ。ぽんぽんと僕の頭を叩いた隅田がそのまま僕の手を引いて歩き出す。迷子のちびっ子がお兄ちゃんに案内されているみたい。何度も見てきた隅田の後ろ姿が幼い頃の自分たちに重なって、懐かしさと変わらない優しさに少し泣けた。