誰にも内緒の観察日記


 慣れない高校生活は慌ただしいもので、あっという間に中間テストの時期がやってきた。あの日以来、さりげなく間宮くんを避けてしまっている。

 交換日記は当たり障りのないことを書いてなんとか続けられてはいるものの、直接渡す勇気はなくなっていた。よくないと分かってはいるのに、誰もいない教室で間宮くんの机の中にこっそり入れたり、個人ロッカーの隙間から勝手に入れておいたり……。下手したら、先生に通報されるような手口で渡していた。間宮くんは何か言いたげにしているけれど、目が合った瞬間にぴゃっと僕が隅田の影に隠れるものだからぐっと堪えてくれている。何度も心は折れそうになったけど、白旗は掲げない。ただ、日に日に強まっていく罪悪感と戦っていた。

 今日からテスト期間のため、部活も休みだ。久しぶりに隅田と登校していると、触れられたくない話題を一番に口に出される。

「このままでいいわけ?」
「……なにが?」
「間宮のこと」
「このままも何も、間宮くんとは適切な距離に戻っただけだもん……」
「ふたりの間で何かあったって分かりやすすぎるんだよ。落ち込んでいるくせに、よく言えたな」
「……隅田も僕が自分勝手って思ってるんでしょ」
「いや、今回に関しては侑がどうこうっていうよりも、間宮が可哀想なだけだけど」
「…………」

 間宮くんからも事情を聞いているであろう隅田は、今回ばかりは僕の味方にはなってくれないみたい。どちらの意見も聞いて、白黒はっきりつけるタイプだ。そんな隅田に言われるとやっぱり僕が悪いんだって、ずーんとまた気分が落ちる。

「何をそんなに躊躇ってんの?」
「だって、僕たちまだ知り合ってちょっとしか経ってないんだよ? こんな短期間で間宮くんみたいな王子様が僕なんかを好きになるわけないじゃん。それに、間宮くんの前だとつい猫被っちゃうから、本当の僕を見たらすぐに幻滅されるだろうし……」
「はぁ、入学式で一目惚れしたのは侑も同じだろうが」
「そ、それは『推し』としてで! 『好きな人』として一目惚れしたわけじゃないし……」
「そうやって違うって言い聞かせてたのが間違いだったんじゃねえの。人間として間宮に惹かれたなら『推し』とか『恋愛』とか関係なく、ただ単純にその人が好きってことだろ」

 隅田から返ってくるのは、全て正論。遠慮なく突き刺さって、じくじく痛む。まだこれから学校があるっていうのに、ほんのちょっぴり涙が滲んだ。

 でも、出会ったあの日からずっと、これは「推し」への気持ちだって言い聞かせて、現実を見ないようにしていたんだ。学校で一番の人気者といっても過言ではない間宮くんが、わざわざこんなめんどくさい僕を好きになる方が変だ。僕が逃げてばかりいるから気になって追いかけているだけで、新しいものが目についたら、すぐに飽きて興味をなくすだろう。始まりの先にある終わりを考えたら、スタート地点で足踏みしてしまう。

「お前ら見てると焦れったいんだよ」
「…………」
「知り合ってすぐって言うけど、じゃあ今から一ヶ月後や半年後なら間宮のことを信じられんのか? そうじゃないだろ」
「……でも、間宮くんはみんなの王子様じゃん」
「そうか? アイツ、お前が好きってダダ漏れじゃん。呼び出しも断ってるし、最近だと『間宮の恋を応援する』って人も増えてるらしいぞ」
「っ、そんなの嘘だ……」
「こんなしょうもない嘘ついてどうすんだよ。はぁ……、馬鹿馬鹿しくなってきた。間宮が近づいてきたら、俺の後ろにすぐ隠れるくせに」
「だって、それはしかたないじゃん」

 あんなに熱っぽく見つめられたら、どんな顔をすればいいのか分からない。その熱に触れたら、頑丈に作られた心の砦も呆気なく崩壊してしまいそうで怖いんだ。

「お前が素直になれば、全部丸く収まるのにな」
「…………」

 隅田はそう呟くと、この話題を終わりにした。その一言が頭の中でぐるぐる回って、テスト前だというのにその日の授業はずっと上の空だった。

 ◇◇

「ああ、綿谷くん。テスト前なんだから今日は手伝わなくていいのに」
「すみません、ちょっと無心になりたくて……。森崎さんの邪魔になるようなら帰ります」
「はは、そういうときもあるわな。よし、じゃあ綿谷くんにはあっちを頼もうかな」
「はい! 水やりしてきますね」

 美化委員として活動しているうちに仲良くなった用務員の森崎さん。帰って勉強する気になれなくてプランターに生えた雑草を引っこ抜いていると、声をかけられた。あまりに僕が情けない顔をしていたからか、詳しいことは何も聞かずに体育館の前にある花壇の手入れを指示してくれる。

 大きなジョウロに水を溜めて、体育館に向かう。失敗した、体育館の近くの水道で汲めばよかった。照りつける太陽がまだ五月だというのにギラギラと眩しい。体育館に近づくと誰かが使っているようで、ボールの弾む音が聞こえてくる。テスト期間に自主練なんてよっぽど勉強ができるのか、はたまた部活が好きなのか。僕にもそれだけ熱中できるものがあればよかったのに。同級生の推し活なんて、あまりに不毛だ。ため息を吐き出しながら、咲き誇るマリーゴールドに水をやる。

 こういう作業は無心になれていい。また水を汲みにいこうと、立ち上がったときだった。ぽーんと換気のために開けられていた体育館のドアから、バスケットボールがひとつ飛び出してきた。ころころと転がったボールは僕の足元までやってくる。ジョウロを置いて、返してあげようとそれを拾い上げたときだった。

「あ、わたちゃん」

 ドアから姿を現したのは、少し汗をかいた間宮くんだった。今、一番会いたくない人。朝の隅田の言葉が脳裏を過ぎる。このままじゃだめだって、僕が素直になったら世界は変わるって分かっているのに。変わってしまった、その後は? 人の心は移ろいやすい。いつか間宮くんに捨てられるぐらいなら、優しい温もりなんて最初から知りたくない。ボールを持ったまま俯く僕に影が落ちた。

「今日、当番だったっけ?」
「え?」
「それ、水やりしてたんじゃないの?」
「あ、これは個人的なお手伝いで……」

 気まずいと全面に押し出しているはずなのに、間宮くんは以前と変わらぬ調子で話しかけてくる。困惑しながらも返事をすれば、ぱあっと嬉しそうに笑った。

「よかった、せっかくのわたちゃんとの予定を忘れてたのかと思った」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、責めないの?」

 間宮くんには僕を詰る権利がある。はっきりと答えを出すわけでもなく、曖昧に逃げてばかりいるのに。いっそ、強い言葉で罵られた方が楽だと思った。これ以上優しくされると、抱え込んだ罪悪感があまりに大きくなりすぎてどうにかなりそうだった。

「どうしてって、わたちゃんは何も悪くないから」
「…………」
「避けられるのは確かにちょっと悲しいけど、だからといって簡単に諦められるようなものでもないから。これは俺の問題で、わたちゃんを責める理由にはならないよ」
「…………」
「それに、俺、君にフラれてないし」
「っ、」
「まぁ、告白もまだしてないからなんだけど。……ちょっと情けないけど、正直まだ心の準備ができてなくてさ。でもちゃんと言うから、もうちょっとだけ待っててくれる?」

 少し瞳を揺らしながらそう言って、不安を誤魔化すように悪戯っぽく笑う間宮くんが一際眩しく見えた。いつも彼は完璧だと思っていた。物語から飛び出してきたような、理想の王子様だと思っていた。でも、そうじゃないんだ。震えそうな声を必死に隠して、時には伝えたい本音を飲み込んで、笑顔の仮面を貼り付けて、間宮くんはみんなの王子様を演じている。その正体は、ただのひとりの男の子なのに。それに気づいた瞬間、彼の被る見えない王冠がゆっくりと消えていく。

 あ、好きだなって。すとんとシンプルな答えが落ちてくる。もっと前に見つけられたはずなのに、随分遠回りしたものだと自分で自分を責めたくなった。でも、現実逃避している自分も、自己嫌悪してばかりの自分も、変わらないといけないから。僕らの恋にネガティブはもう必要ない。

「……待ってて、いいの?」
「っ、うん」
「分かった。……僕、もう逃げないから」

 まっすぐに見つめて震える声でそう宣言すると、間宮くんは今まで見た中で一番の笑顔を浮かべていた。これまで受け取ってきた思いを、今度は僕が返す番。推しとオタクじゃない。あなたと対等な関係になりたいから。