誰にも内緒の観察日記


「あ、わたちゃん、おはよ」
「お、おはよう」

 昨日の出来事をうまく咀嚼できないまま、気づいたら朝になっていた。だけど、二日連続で遅刻をするわけにはいかない。昨日よりもテキパキと朝の準備を終えて家を出たはいいものの、心の準備は全くできていない。間宮くんと顔を合わせたらどんな顔をすればいいのだろうと思いながら歩いていたら、まだ何の覚悟もできていないのに校門付近の前庭で脳内のセンターを陣取っている彼に声をかけられた。

「今来たとこ?」
「うん、間宮くんは部活終わり?」
「そう、今日は外練だったんだけど、わたちゃんが登校してくるところを見つけられたからラッキーだった」

 朝から糖度百パーセント。キラキラと眩しい陽の光をトッピングされた笑顔が一際輝いている。僕にはあまりに眩しくて、すっと目を逸らしてしまう。昨日の出来事は、僕の妄想でも夢でもなかったみたい。ノミの心臓では真正面から受け止めるにはあまりにも大きすぎる現実に、喉の奥がかさついてうまく声を出せない。

「一緒に教室まで行ってもいい?」
「うん……」

 心臓の音が聞こえてしまいそうだから、本当はもうちょっと離れて歩いてほしいけど、それを言う勇気はなかった。朝から爽やかで、相変わらずかっこよくて、こんなに素敵な人が僕のことを気にかけてくれるのが不思議でしかたない。

 話し続ける間宮くんに相槌を打ちながら隣を歩く。夏川くんのこと、授業のこと、隅田のこと。僕でも分かる話題選びにさすがの気配りだなんて思っていたら、下駄箱で靴を履き替えている間宮くんの背中に埃がついているのを見つけて、迷わず手を伸ばす。

「ん? どうかした?」
「あ、埃がついてたから……」
「えっ、どこ?」

 それに気づいた間宮くんが尋ねてくるから、指をさして教えるけれどなかなか伝わらない。

「待って、僕が取るよ」
「ごめんね」
「はい、取れたよ」
「ありがとう。最初わたちゃんが手繋ぎたいのかと思って嬉しかったんだけど、恥ずかしい勘違いだったね」
「っ、そういうの困る……」

 間宮くんは何でも素直に言いすぎなんだ。全く恥ずかしそうにしていないのに、そんなこと言っちゃってさ。僕が真面目に受け取ったら、どうするつもりなんだ。

「……俺、困ってるわたちゃんを見るのが好きなのかも」
「な、何言って、」
「今だってそうだよ。こんなにかわいかったら、誰にも見せないように閉じ込めたくなる」
「っ……」

 顔を隠したいのに、それを阻止するように腕を掴まれてしまってじいっと見つめられる。もう、どうしたらいいのか分からなくてパニックだ。恥ずかしい、絶対変な顔してる。唇が震えて言葉は出てこないし、とにかく恥ずかしくて、僕のことなんて見ないでほしいのに間宮くんは視線を逸らさない。ぷるぷる震えながら、じんわりと羞恥の涙が浮かんでくるのを感じながら固まっていれば、真剣な表情の間宮くんの頭を誰かがパシッと軽く叩いた。その衝撃で間宮くんの手が離れる。

「こんなところでちょっかい出すなよ」
「洸……」

 今日も今日とてクールビューティー。涼しげな表情をした夏川くんは恨めしそうにしている間宮くんを無視して、僕に向き直る。

「おはよう、綿谷くん」
「あ、おはようございます……」
「ごめんね、朝からコイツが迷惑かけたみたいで。遠慮なく『嫌い』って言ってもらって構わないからね」
「そんなこと、嘘でも言えないです……」

 僕なんかに間宮くんを「嫌い」と言う権利なんてないだろうに。間宮くんは僕にとっての絶対君主だけど、彼に望まれたってその一言だけは言えそうにない。それを大きな声で言うのは憚られて、消え入りそうな声で伝えると夏川くんの耳にはしっかり届いたらしい。きょとんと意外そうに目を丸くしている。

「へぇ……、一方通行だと思ってたけどそうでもないんだ」
「誰かさんのせいで邪魔が入ったけどな」
「よく言うよ。綿谷くん、うさぎみたいに怯えて震えてたじゃないか」
「勝手に見るなよ」

 夏川くんと話している間宮くんは、いつもより少しだけ子どもっぽい。本当にふたりは仲がいいんだなと伝わってくるから遠くからこのやりとりを見つめていたいのに、なぜか話題の中心に立たされているのは僕で……。ああ、壁になりたい。この幼馴染の空気感を壊したくない。このまま僕のことを置いてふたりで先に教室に向かってくれたら一番平和かも……なんて、考えていたら。

「わたちゃん、ほら行くよ」
「えっ……」

 そう言った間宮くんが僕の手を取って走り出す。思わず後ろを振り返るけれど、呆れたようにため息を吐いていた夏川くんは僕が見ていることに気づくとにっこりと綺麗に笑って手を振った。

 もうすっかり体に馴染んだ教室への道。僕と違って友だちが多い間宮くんにはたくさんの「おはよう」が飛んでくる。間宮くんがいるだけでこんなに世界が違うんだと感動する。間宮くんに手を引かれている間、世界がスローモーションに見えた。

「走らせてごめん、わたちゃん平気?」
「だ、いじょ、ぶ」

 三階まで駆け上がってハァハァと息切れしている僕とは違って、スポーツマンの間宮くんは平然としている。朝から部活で体を動かしていたっていうのにすごいや。軟弱な僕とは違う。

「あーあ、わたちゃんともっと一緒の時間を過ごしたかったのになぁ。残念だね」

 もう少し歩いたら目的地の教室だ。間宮くんにそう言われると、なんだか僕も名残惜しく感じてしまって思わずこくんと頷いた。ハッと我に返るけど、時すでに遅し。口角を上げた間宮くんが僕を愛おしそうに見つめている。僕にはそんな目で見つめられる資格なんてないのに……。

「あの、今のは、その、違くて……」
「えー、違うんだ?」
「っ、」
「うそうそ、冗談だよ」

 僕の反応を見た間宮くんが何でもないように笑う。その顔を見たら胸がギュッと苦しくなって、後悔が芽生えてくる。いつも間宮くんはストレートに伝えてくれるのに、僕は本音を隠してばかり。それでいいの? だめだよね。否定しなくちゃ。自分の思いを伝えると決めたせいか、ドキドキと心臓がうるさい。

「……違わない」
「ん?」
「僕も、間宮くんと話せて嬉しかった」
「っ、不意打ちは反則だって」

 小さな声で伝えると、間宮くんは片手で口元を隠す。珍しい、間宮くんのこんなところ初めて見た。オタクの部分が抑えきれず、じいっと見つめていると、未だ繋がれたままだった手を引かれてあっという間に間宮くんの腕の中。突然の出来事にピシッと固まっていれば、肩に間宮くんが頭を乗せてくる。ふわりと間宮くんの香りがして、体の熱がどんどん上がってくる。

「わたちゃん、ずるいよ」
「間宮くんだって……」
「はぁ……、君は俺をどうしたいんだ」

 僕の反論も耳に入っていないようで、マーキングするみたいに頭を擦り付けてくる。猫のような仕草にくすぐったくてつい笑ってしまうと、間宮くんがパッと顔を上げた。

「…………」
「えっと、どうかした?」
「ううん、何でもない。そろそろ予鈴鳴るから行こっか」

 そのまま何も言わずに見つめてくるから、気になって聞いてみるけれどはぐらかされて終わってしまった。一体何だったのだろう。繋がれていた手も離されてしまって、体に残った間宮くんの熱が少しずつ消えていく。それを寂しいと感じたのは、僕が間宮くんのオタクだからでしょうか?