最古参リスナーが執着をやめてくれない。

 妹が学校に行きたくないと言い出した。それは妹が小学六年生、俺が中学二年生の時だった。

『学校行きたくないっ! 絶対行かないっ!』
『夜那、どうしたの? 休み明けだから気持ちは分かるけど、今日は始業式なんだから……』
『嫌! 絶対、ぜったいやだ……っ』

 妹、夜那が行きしぶり始めたのは夏休み明けてすぐのこと。
 小学校と中学校の通学路はほぼ同じで、だから途中までは夜那と登校していた。
 だけどその日、朝食を済ませて二階に荷物を取りに行った時に夜那と母さんの言い合いが聞こえた。
 泣いているのか息苦しそうに嫌だ嫌だと言う夜那は初めてで、母さんもどうしていいか分からなかったと思う。

『母さん、夜那は――』
『今日は休ませることにしたわ。無理に行かせてもダメらしいし、わたしも色々話を聞いてみるつもりよ。月騎は気にしないでいいからね』

 俺は、夜那に声のひとつもかけることができなかった。母さんの言うように無理をさせたらかえって悪化すると考えていたし、思春期だから干渉されるのも嫌かと思うようにして逃げていた。
 結局それ以降夜那が学校に行く姿を見ることはできず、長い通学路を一人で登校することになった。

『夜那、だいじょう――』
『大丈夫じゃない!! 今は話したくないから、どっか行ってよ……』
『けど――……』
『どうせおにぃには分かんないことだもんっ! 話しかけないで!』

 思春期にしては酷い反抗で、まだ子供だった俺には何もできなくてただただ夜那が苦しむのを見ているだけだった。
 以前は快活で遠慮なく人の背中を叩くような夜那が、どうして突然こうなってしまったのか。それがどうしても気になって、母さんたちに内緒で独自に調べた。
 恩師に会いに来たという体にして、生徒やその時いた教師たちに夜那のことを尋ねて回る。
 その結果分かったのは、からかいから転じた嫌がらせがあったという事実。
 何をからかわれたのかまでは調べられなかったけど、色んな生徒が口を揃えて言っていたのは驚いた。
 中には夜那と同じクラスの生徒もいて、『止めきれなかった』と申し訳なさそうにしていた。

 だから不登校って言葉に敏感になったんだと思う。妹が大変な思いをして塞ぎ込んでしまったのを見ているから。
 同じような人を見ると、ちょっとした興味が湧くのも仕方のないことかもしれない。
 まぁ、それが恋に変わるのはさすがに想定外だったけどね。



 中二の時の体育祭の華であるリレーで、とある事件が起こった。
 クラス対抗のリレーで暫定一位だったクラスのアンカーが、盛大にこけてしまったのを俺も見ていた。
 その子は足が早くて程よく筋肉もあるような健康体な男の子。背もそれなりに高いから、こけた時を目の当たりにした当時は結構驚いてしまった。

『白綾! ……チッ、何やってんだよあいつ』
『白綾くん立ってーっ!』

 こけてしまった彼のクラスの生徒たちは、確かに一生懸命彼の応援をしていた。
 でもその裏、面白がって笑っている生徒が多いことにも気付いてしまったんだ。
 ……応援すら、無理矢理に立たせて一位を押し付けているようにも聞こえたけど。

『やっぱダメだったって、白綾くんアンカーにしたの。練習の時から思ってたけどだいぶ鈍臭いもん』
『元はと言えばみんなが悪ノリしたのが悪いよ〜。引き受けちゃう白綾も白綾だけどさ』
『なんか白綾、かわいそー』

 白綾と呼ばれている彼には、きっとこの声は聞こえていない。
 それを良いことに嘲笑って、憐れんで、落胆して。そんな様子でなんとなく、彼の境遇を察した。
 悪ノリ……つまり、彼が嫌々やった可能性もあるってこと。落ち着いた子で断れなさそうだから大いに考えられる。
 彼のクラスメイトの声音もからかいまじりが多いし、もしかすると彼は……。
 その先はよく考えなくても分かって、全然知らない彼、白綾くんを守らないとって義務感に一瞬で苛まれた。
 友達でもクラスメイトでも何でもないのに、どうしてそう思ったのか。
 これを尋ねられたら、俺はこう答えるしかない。

『妹と白綾くんを重ねて、妹にできなかったことを代わりに白綾くんにって思ったから』

 だけど白綾くん、もとい遥真くんは体育祭から一ヶ月経った日にはもう学校に来なくなっていた。
 クラスが違ったから遥真くんの観察は大変だったけど、得られたものは大きすぎる。
 まず遥真くんは日常的にいじめに遭っていた、これは予想通りだった。
 “声が変”って理由だったのは、ちょっと……いや、結構苛立ったけど。そんなことでいじめてたら、社会に出た時にどうなるんだよって張本人たちに言いたくなったくらい。
 それに……遥真くんの声、好きだったから余計に。
 声自体は少ししか耳にしたことはないけど、いい意味でよく残る特徴的な声。普段の声も高めで可愛いものだったから、声を張ったらもっと可愛いんじゃないかって毎日のように煩っていたほど。
 でもまだこの時は、遥真くんを守護する対象として見てたから恋愛感情まではなかった。

 本気で好きになったのは中二の冬。この日は雪が酷くて、昼休憩だというのに廊下には全くの人気がなかった。
 その時の俺にはそれほど都合の良いことはなく、使われていない教室の前の廊下の窓から雪を見ていた。
 都会にしては珍しい大雪。帰るの大変そうだな……。
 ……夜那も雪、見てるかな。毎年ちょっと雪がチラついただけでも大はしゃぎしてるから、帰ったら声だけかけてみよう。
 そんなノスタルジックさをしみじみ思い返していると、何やら走ってくる足音が。
 急いでいるのか相当早い音に興味本位で視線を動かすと……その子とバッチリ目が合った。

『っ……い、ってぇ……』
『だ、大丈夫!? ごめん、急に俺が見たからだよね……!?』

 まさか見られるとは思っていなかったその子は目を見開いた瞬間、足を捻って頭からこけてしまった。
 って、この子……もしかして。

『白綾くん、だよね?』
『な、何で知ってるんですか……っつーか誰……』
『俺はキミの隣のクラスの黒寺。……立てる?』
『っ、立てるし……』

 言いながら手を差し伸べるも、嫌だったのか急いで立ち上がる遥真くん。
 この頃から遥真くんは刺々しくて、バツが悪そうな顔をしていた。
 そして、息苦しそうな声も同じ。
 多分こけてしまったことで体育祭が想起され、パニックに陥ってたんだと今なら分かる。
 でもこの時の俺は本当に何も分かってなくて、遥真くんと話せたという嬉しさだけで不躾に尋ねていた。

『白綾くん、さっき急いでたよね? 鞄も持ってるし何かあったの?』
『……やっぱ、学校は無理だなって思っただけ』
『え?』
『……っ、僕もう行くから……!』

 スクールバッグを抱えるように持って、遥真くんは俺の横を素早く走っていく。
 逃げるように、追いつかれないように必死に。
 体育祭の時も思ったけど遥真くんは足が早く、今追いかけても捕まえられないなってすぐ悟った。
 ……学校は無理、か。
 ずっとクラスにいなかった遥真くんが、学校にはいた。ってことは今日は頑張って来たのかも。
 だけどやっぱりしんどくて……こういうことかな、多分。

 この時まで、俺は遥真くんと夜那を重ねていた。家族愛か何かのようなもので、遥真くんを守ろうって思っていた。
 でもそれは全く違って、遥真くんはとんでもなく頑張り屋なんだって……夜那が頑張ってないって言いたいわけじゃないけど、遥真くんに向けていた感情は家族愛なんかじゃなかった。

『遥真くん……大丈夫、だからね』

 これは、ちょっと歪んだ恋だった。



『……ねぇおにぃ、ちょっといい?』

 それから月日は経って、中学三年生になったある日。
 結構回復してきた夜那は部屋から出るようになり、俺とも会話してくれるようになった。
 そんな矢先、夜那がスマホで一人の活動者を見せてきた。

『この人は?』
『最近お気に入りの人。おにぃ、ASMRって分かる?』
『……なんか、音とかセリフとか言うやつ、だよね』
『まぁ大体は合ってるけど。でね、この人の声めっちゃいいから聴いてほしいの』
『不健全じゃないよね?』
『ぜーんぜん! 超健全だよ、はるしろさんは! もうキュンキュンしちゃうの! おにぃも好きそうな……これとか! 今ならママもパパもいないからちょっとだけ聴いてって!』

 そう布教され、夜那がここまで饒舌になる活動者はどんなものかって不思議でその場で少しだけ聴くことに。
 えっと……《後輩彼氏によしよしされちゃう放課後》?
 ASMRってものはよく分かってないけど、これは健全なのか……?
 夜那のことだから変なものじゃないだろうけど、なんか緊張する。

『押すよ、えいっ!』

 けど俺の気持ちを知る由もない夜那は、わくわくしながら再生ボタンを押した。
 するとしばらくの鳥のさえずりや風の環境音の後、活動者の声がようやく聴こえてきた。

《先輩、今日もお疲れ様ですっ。部活、今日もすっごく頑張ってましたね! 先輩偉すぎるので、僕が抱きしめてあげます!》

 男の声だろうけど、比較的高くて可愛らしい声。それに穏やかで聴いてるだけで癒やされるようなもので、まぁこれなら健全かもしれない。

《“いつも申し訳ない”ですか? そんなこと思わなくていいんですよ、いつも助けられてるのは僕のほうですし。こういう時くらいは僕に甘えてくださいね?》

 でもこの声って、何だか遥真くんに似てる……ような?
 決めつけはよくないし遥真くんをそういう目で見てるってことになりそうだけど、こんな声は滅多に聞かない。
 喋ってるだけでも独特な雰囲気があって、声を張るとアニメ声さを感じて……好きな、声で。

《えへへ、告白ですかー? もう僕たち恋人じゃないですかっ。……でも僕も、好きですよ。先輩しかいらないくらいには好きです! え、重いですか!?》
『……っ、僕もう行くから……!』

 ――やっぱり一緒だ。声の張り上げ方、高さ、癖。全部が遥真くんのものだ。
 ……知りたい。遥真くんのこと、もっと知りたい。全部知って、今度は遥真くんを守りたい。

『確かに、いい声の人だね』
『でしょ? たまに配信もしてるから今度一緒に見ようね!』
『……うん、そうだね』

 俺が気に入ったと思った夜那は、ぱあっと瞳を輝かせて満面の笑みを見せる。
 でもごめん。俺は夜那みたいに純粋な気持ちじゃいられない。
 遥真くんの傍にいられないのなら……――見守ればいい。



「……ん、くろ……ら……黒寺くん!!」
「っ! な、何? どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。さっきからずっと上の空だけど……何か悩み事?」

 昔のことを思い出して懐かしさに浸っていると、突然現実に引っ張られた。
 ……そういえば、クラスメイトと一緒にいるんだったな。
 8月に入り夏休みにもなったというのに、緑化委員としての仕事があるのは面倒極まりない。
 元々やりたいものでもなかったし、くじで決まったくらいだから馬鹿真面目に行かなくてもよかったかな。
 隣を歩くクラスメイトの女子を置いてけぼりにしてため息を漏らすと、「ねぇ」と制服の裾を引っ張られた。

紺多(こんだ)さん?」
「こ、今度一緒にどこかいかないっ? わたし、黒寺くんともっと仲良くなりたいの!」

 上目遣いでお願いしてくるクラスメイトは、俺以外ならコロンと落ちていると思う。
 前から薄々目はつけられていると勘付いていたけど、このタイミングで誘われるとは。
 気付いてたのに距離を取らなかった俺も悪いし、ここはちゃんと向き合おう。

「そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも……――」
「……? 黒寺くん?」

 ごめんね、そんな謝罪は口にできなかった。
 彼女に何かされたわけじゃない。もちろん自分から何かを仕掛けたわけでもない。
 言えない理由は、簡単なこと。

「黒寺……、っ……!」

 遥真くんと、目が合ってしまったからだ。
 俺が遥真くんに気付くや否や、身を翻して逃げ出す遥真くん。
 遥真くんは俺に興味ないし、俺が誰と何してようが知らんぷりすると思う。
 でも……っ、遥真くんのあんな顔見たら、放っておけるわけない。

「ごめん紺多さんっ、俺用事思い出したから行くね。誘ってくれたのは嬉しいけどそれもごめん、またね」
「わ、分かった! えと、気を付けてね?」
「うん、ありがとうっ」

 物分かりのいい紺多さんに軽く手を振った後、遥真くんを見失わないよう急いで追いかける。
 夏休みだからいつもより人が多い道をどうにか走り抜け、時々「遥真くんっ……!」と叫ぶ。
 遥真くん、やっぱり早いな。初めて遥真くんと話して逃げられた時より早い。
 ……だけど、今なら遥真くんに追いつける。
 遥真くんを守るために、この体はあるんだから……っ。

「遥真くん!!」
「……っ、はー……くろ、でら」

 入り組んだ路地に入った時はどうしようかと焦ったけど、道が行き止まりでよかった。
 もう逃げる術がないと悟った遥真くんの表情は、影が落ちていてよく見えない。
 だから……よく見せてよ、遥真くん。