生きるのを諦めました、書くのも辞めました

夜更け、彼女が眠ったあと、颯馬は一人で机に向かっていた。
小さなスタンドライトだけが点いていて、部屋の隅は暗い。
ノートパソコンの画面は開いたままなのに、文字は一行も増えていない。
指はキーボードの上に置かれているのに、打つべき言葉が見つからなかった。
小説を書く意味。
それを、初めて真剣に考えていた。
今までは、なんとなくだった。
現実がうるさくて、頭の中が散らかっていて、それを整えるために書いていただけ。
誰かを救いたいとか、伝えたいとか、そんな立派な理由はなかった。
分からないものを、分からないまま置いておくため。
それが、自分なりの答えだったはずなのに。
彼女が、すぐ後ろの布団で眠っている。
浅い呼吸が、規則正しく続いている。
その存在が、今までの考えを簡単に壊してしまった。
分からないままで、いいのか。
書くだけで、終わっていいのか。

颯馬は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、無意識のうちに、能力を使っていた。
未来の投稿を見る。
意図して覗くことは、今までほとんどなかった。
見えるときは、勝手に見えてしまう。
だから、今回も、きっと同じだと思っていた。
画面が、切り替わる。
日付は、数日後。
投稿の時間は、深夜。
短い文章だった。
「もう、限界です」
その下に、続く言葉。
「これで、終わりにします」
颯馬は、一瞬、意味を理解できなかった。
頭が拒否する。
これは、よくある言葉だ。
感情的な投稿。
勢いで書いたもの。
そう思おうとした。
でも、その下にあった。
画像。
具体的な場所。
時間。
準備を示す、あまりにも現実的な内容。
逃げ道がない文章だった。
これは、軽いものじゃない。
脅しでも、構ってほしいだけでもない。
本当に、終わらせるつもりの投稿だった。
颯馬は、思わず画面から目を逸らした。
胸の奥が、冷たくなる。
呼吸が浅くなる。
それでも、目を閉じることはできなかった。
もう一度、画面を見る。
何度見ても、内容は変わらない。
未来は、そこに書かれていた。
「……ふざけるな」
小さく、声が漏れた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。

彼女は、今日、笑っていた。
少し甘えて、少し弱音を吐いて、ちゃんと眠っていた。
それなのに、数日後には、終わらせるつもりでいる。
颯馬は、椅子から立ち上がり、部屋を一歩だけ歩いた。
床が軋む音に、彼女が目を覚まさないかと一瞬焦る。
でも、彼女は眠ったままだった。
その寝顔を見て、胸が痛くなる。
この人は、今、生きている。
ここにいる。
それなのに、未来では、いなくなる。
小説を書く意味が、形を持って迫ってくる。
書くことで、何かが変わるわけじゃないと思っていた。
でも、見てしまった以上、知らなかったふりはできない。
これは、物語じゃない。
プロットでも、比喩でもない。
現実だ。
変えなければいけない。
そう思った瞬間、初めて、自分の能力を呪った。
見えなければ、今まで通りでいられた。
分からないまま、書き続けられた。
でも、もう無理だった。

颯馬は、机に戻り、ノートパソコンを閉じる。
代わりに、スマホを手に取った。
彼女の連絡先を見る。
今、声をかけたら、起こしてしまう。
でも、起こしたところで、何を言えばいい。
未来を見た、なんて言えるはずがない。
能力のことを話せば、彼女は混乱する。
信じるかどうかも分からない。
それでも。
何もしないという選択肢だけは、消えた。
彼女は、助けを求めるのが下手だ。
言葉と行動が、噛み合わない。
平気なふりをして、限界を隠す。
だからこそ、あの投稿は、最後の信号だった。
颯馬は、布団のそばに座り込む。
彼女の手が、布団から少しだけ出ている。
触れるかどうか、一瞬迷ってから、そっと指先に触れた。
温かい。
生きている。
「……変えるから」
眠っている彼女に、小さく言う。
約束というより、決意だった。
小説を書く意味が、今、はっきりした。
書くために、生きるんじゃない。
生きているものを、見捨てないために、書く。
たとえ、やり方が間違っていても。
たとえ、全部救えなくても。
この未来だけは、なかったことにする。
颯馬は、そう心に決めた。

部屋の灯りは落とされ、スタンドライトだけが机を照らしていた。
彼女は眠っている。
寝息は浅く、時折、身じろぎする音が聞こえる。
颯馬はイヤホンを外し、何も流さないまま椅子に座っていた。
静かすぎる夜だった。
キーボードに指を置く。
今度は、迷わなかった。
画面には、新しいファイルが開かれている。
タイトルは、まだない。
最初の一文も、決まっていない。
それでも、書かなければならなかった。
未来を見てしまった以上、書かないという選択肢は消えていた。
颯馬は、ゆっくりとキーを叩き始める。
誰にも選ばれない言葉を、拾い集めるように。
文章は、整っていなかった。
比喩も荒く、文脈も不安定で、読み物としては未完成だった。
それでも、止まらなかった。
彼女の言葉。
言わなかった言葉。
夜にだけ零れた弱音。
甘えるように伸ばされた指先。
全部を、そのままには書かない。
でも、消さない。
颯馬は、何度も書いては消し、消しては書いた。
自分のためじゃない。
評価のためでもない。
彼女の未来を、違う形に折り曲げるため。
時計を見ると、もう午前二時を過ぎていた。
目が痛い。
肩が重い。
それでも、手は止まらない。
文章の中で、主人公は何度も間違える。
正しい言葉を選べず、踏み込みすぎて、引き返す。
それでも、書き直す。
何度でも。
颯馬は気づく。
自分は、答えを書いているんじゃない。
問いを書いている。
生きたいのか。
消えたいのか。
助けを求めているのか。
一人になりたいのか。
矛盾した感情を、そのまま並べる。
整理しない。
美しくもしない。
ただ、そこにある形で残す。

キーボードの音が、夜に溶ける。
彼女が小さく寝返りを打つ。
その音に、颯馬は一瞬だけ手を止める。
起きていないことを確認してから、また打ち続ける。
この時間は、邪魔されたくなかった。
書くことは、救いじゃない。
でも、見捨てないという意思を、形にすることはできる。
それを、今、初めて知った。

午前三時を回った頃、文章は一つの章を終えた。
読み返す。
うまくはない。
でも、嘘はない。
颯馬はファイルを保存し、そっと画面を閉じた。
立ち上がり、彼女のほうを見る。
布団に包まれた背中が、微かに上下している。
その光景が、今は何より現実だった。
「……まだ、終わらせない」
小さく呟く。
それは彼女に向けた言葉でもあり、自分に向けた言葉でもあった。
布団に戻り、目を閉じる。
眠りは浅い。
それでも、夜を越えた。
書いた文章は、まだ誰にも見せない。
でも、確かにここにある。
未来を変えるための、最初の一歩として。