生きるのを諦めました、書くのも辞めました

公園を出る頃には、朝の空気はもう昼に近づいていた。
人の声が増え、遠くで車が走る音がする。
颯馬は歩きながら、次に何を言えばいいのか分からなくなっていた。
帰るべきか、それとももう少し一緒にいるべきか。
そんなことを考えているうちに、彼女のほうが先に口を開いた。
「このあと、どうします?」
問いかけは軽かったが、颯馬には重く聞こえた。
「どう、っていうと」
「帰るか、どこか行くか、です」
それだけの話なのに、返事が出てこない。
彼女は少しだけ視線を落とし、迷うような間を置いてから言った。
「もし、よかったらなんですけど……私の家、近くなんです」
心臓が一瞬、変な跳ね方をした。
家、という言葉が、思った以上に現実的だった。
「一人暮らしなので。実家とかじゃないです」
言い切るというより、確認するような口調だった。
断られる前提で話しているのが分かる。
「無理なら全然いいので」
颯馬は一度、息を吸った。
「……少しだけなら」
自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。
彼女は一瞬驚いた顔をして、それからほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます」

住宅街は静かだった。
洗濯物が揺れる音や、家の中から漏れるテレビの音が、妙に生活感を強調する。
彼女は歩きながら、何度か振り返る。
ちゃんとついてきているかを確認しているみたいだった。
「この辺、静かですね」
「はい。夜はちょっと怖いですけど」
正直な言い方だと思った。
小さなアパートの前で立ち止まる。
「ここです」
外観は特別じゃない。
だからこそ、彼女の生活が想像できてしまう。
階段を上ると、二人分の足音がやけに大きく聞こえた。
彼女が鍵を取り出し、少し手間取ってからドアを開ける。
「どうぞ」
玄関は狭いが、きちんとしていた。
靴は揃えられていて、余計な物は置いていない。
「散らかってますけど」
そう言いながら、彼女はスリッパを出す。

部屋はワンルームだった。
ベッドと小さなテーブル、本棚、簡易的なキッチン。
想像していたより明るく、カーテン越しに昼の光が差し込んでいる。
颯馬はテーブルの前に座り、少し背中を丸めた。
「飲み物、何がいいですか」
「お茶で」
彼女は頷いてキッチンに立つ。
湯を沸かす音が、部屋に静かに響く。
颯馬は部屋を見回した。
本棚には漫画と文庫本が混ざって並び、統一感はない。
「本、結構ありますね」
声をかけると、彼女は少し照れたように振り返った。
「好きなんです。でも途中で読むのやめちゃうことも多くて」
それが不思議と、彼女らしく感じられた。
コップが二つ置かれ、向かいに座る。
「改めてですけど、来てくれてありがとうございます」
真正面から言われて、颯馬は少しだけ姿勢を正す。
「こちらこそ」
お茶を飲む。
ちょうどいい温度で、喉を通る感覚がやけに現実的だった。
「一人暮らし、慣れました?」
聞きながら、踏み込みすぎていないか考える。
「慣れた、というより、慣れるしかなかったです」
彼女はコップを見つめたまま言った。
「夜が、静かすぎて」
颯馬は小さく頷く。
「分かります」
「本当ですか」
「はい。音がないと、考えすぎちゃうので」
彼女は少し驚いた顔をしてから、安心したように笑った。
「だから、メッセージ送っちゃうんです」
責める響きはなかった。
「全然、いいと思います」
それははっきり本音だった。

少しの沈黙が落ちる。
外から車の走る音が聞こえる。
「小説の話、してもいいですか」
彼女が言う。
「はい」
「どんな気持ちで書いてるんですか」
簡単な質問なのに、言葉が出てこない。
「分からないことを、そのままにするためです」
自分でも意外な答えだった。
彼女は首を傾げる。
「そのまま?」
「分からないってことを、消さないためです」
彼女は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「……それ、いいですね」
その一言が、胸の奥に残った。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「そろそろ、帰ります」
そう言うと、彼女は少しだけ名残惜しそうに笑った。
「はい」
玄関まで見送られ、靴を履く。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
ドアの前で、一瞬言葉が途切れる。
「また、話してもいいですか」
「はい」
即答だった。
ドアが閉まり、階段を降りながら、颯馬は思う。
彼女は一人で暮らしている。
でも、一人でいるわけじゃない時間を、確かに持っている。
その時間に、自分は足を踏み入れてしまった。
その感触が、なかなか消えなかった。

次の日から、颯馬の日常ははっきりと形を変えた。
朝、学校へ行き、帰りにスーパーへ寄り、夜は彼女の部屋にいる。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
泊まることになったきっかけは、別になにか特別な出来事じゃなかった。
彼女が、ぽつりと言っただけだった。
「今日、一人でいるの、ちょっと無理かもしれません」
それを聞いた瞬間、断る理由はどこにも見当たらなかった。
彼女の部屋で過ごす夜は、思っていたより静かだった。
テレビはつけない。
音楽も流さない。
二人とも、机に向かったり、スマホを触ったり、それぞれ別のことをしている。
でも、同じ空間にいる。
それだけで、彼女は少し楽そうだった。
何日か経った頃、彼女は少しずつ、自分のことを話すようになった。

「学校、最近しんどくて」
夕飯の後、床に座りながら言った。
「テストとか、成績とか?」
「それもですけど……周りが、ちゃんと前に進んでる感じがして」
言葉を選びながら話しているのが分かる。
「私は、ずっと同じところにいるのにって思っちゃうんです」
颯馬は、すぐに励ます言葉を探さなかった。
下手な言葉は、逆に彼女を追い詰める気がした。
「……それ、結構しんどいですね」
彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「否定しないんですね」
「否定できるほど、分かってないので」
それを聞いて、彼女は小さく笑った。
次の日の夜、彼女は別の話をした。
「元カレのこと、話してもいいですか」
「はい」
「振られたんです。少し前に」
淡々とした言い方だった。
感情が追いついていないみたいだった。
「理由、よく分からなくて」
「……つらいですね」
「はい。でも、それより」
彼女は言葉を切り、指先を握りしめた。
「私がダメだったのかなって、ずっと考えちゃって」
颯馬は、その手を見ていた。
触れることはしなかった。
ただ、ここにいる。
それだけを、はっきり示したかった。
「ダメだったかどうかは、少なくとも、俺には分からないです」
「……そうですよね」
彼女は俯いたまま言った。
「でも、誰かにそう言ってもらえるだけで、少し楽です」

その夜、彼女は布団を二つ並べた。
「狭いですけど」
「大丈夫です」
電気を消すと、部屋は一気に暗くなる。
外の街灯の光が、カーテンの隙間から細く差し込む。
しばらく、何も話さずに横になっていた。
「……颯馬さん」
「はい」
「手、貸してもらってもいいですか」
意味を測る前に、体が動いた。
差し出された手は、少し冷たかった。
彼女は、指先だけを軽く掴む。
握るというより、触れているだけ。
「すみません。甘えてますよね」
「いいです」
即答だった。
「今は、それでいいと思います」
彼女は何も言わなかった。
ただ、指先の力がほんの少し強くなった。

その後、彼女は眠った。
呼吸が整い、寝返りを打つ音がする。
颯馬は天井を見つめながら考える。
彼女は、学業に追われ、過去に置いていかれ、今も自分を責めている。
それでも、ここにいる。
誰かに手を伸ばすことを、やめていない。
それは、弱さかもしれない。
でも同時に、生きている証拠でもある。

次の日の朝、彼女は少しだけ元気そうだった。
「昨日、ちゃんと寝れました」
その一言で、泊まった意味は十分だった。
颯馬は思う。
この時間を、どう書けばいいのか。
答えはまだ出ない。
でも、書かないと、消えてしまいそうな気がした。
だから、今日もここにいる。