時計の針が十二時を廻った頃だった。
いや正確には、廻った「あと」だ。秒針が一周して、画面の右上に表示される日付が変わった、そのわずかな遅れの時間。
俺、颯馬はスマホを握ったまま、何も考えずに指を動かしていた。
タイムラインはいつも通りで、どうでもいい日常と、少しの虚勢と、過剰な自己主張が混ざり合って流れていく。
誰かの成功報告や失敗談他といえば、誰かの怒りなど。
どれもが軽く、でもどれもが重く、等しく俺とは無関係だった。
その中に、ひとつだけ、引っかかる言葉があった。
「消えたい」
それだけだった。
感情を説明する文章も、理由も、顔文字もない。
まるで息を吐くみたいに、当然のこととして置かれた四文字。
胸の奥が、はっきり揺れることが分かった。
驚きとか恐怖とか、そういう名前のつく感情じゃない。
もっと物理的で、もっと鈍い。水の中に石を落とされたみたいな、重たい揺れだ。
なぜ、そう思ったのか。
どんな出来事があって、どれほどの時間をそこまで耐えてきたのか。
今の俺には、予想すらできなかった。
想像しようとした瞬間、頭の中で雑音が鳴って、思考が逃げる。
話しかけようか、と考えた。
「大丈夫ですか?」
「何かあったんですか?」
画面に文字を打つ自分を想像しただけで、気分が悪くなった。
それらは正しすぎる。
安全で、優しくて、誰も傷つけない代わりに、何も触れない典型的な文章だ。
自分がそういう言葉を嫌っていることだけは、はっきりしていた。
嫌い、というより、信用していない。
ああいう言葉は、書いた側の安心のために存在する。
届くかどうかより、「やった!」という事実が欲しいだけだ。
じゃあ、他に何を書く?
何も浮かばない。
スマホを置いて、また手に取る。
投稿を開いては閉じ、プロフィールを覗いては戻る。
名前も写真も、よくあるものだ。
特別な情報は何ひとつないのに、目だけがそこから一切離れなかった。
俺は結局、何も書かないまま、時間だけを消費した。
何かをしなければ、と思いながら、何もしない選択を重ねる。
そのくせ、見ないという選択肢だけは取れなかった。
画面の明るさが目に染みて、充電の残量が減っていく。
部屋は静かで、時計の音だけがやけに大きく感じる。
外では、たぶん誰かがまだ起きていて誰かがもう眠っている。
その境目の時間に、俺はひとりで立ち尽くしていた。
彼女は、その後も何も書かなかった。
投稿は消えず、追加もされない。
それが余計に、落ち着かなかった。
考えすぎだ、と何度も自分に言い聞かせた。
SNSなんて、そういう場所だ。
深夜には、誰でも少し大げさになる。
それでも、胸の奥の揺れは消えなかった。
俺は何度も時計を見て、何度も画面を更新して、何度もため息をついた。
気づいたとき、窓の外がわずかに白んでいた。
夜が、終わっていた。
何もしていないのに、ひどく疲れていた。
話しかけてもいないし、救ってもいないし、何ひとつ変えていない。
それなのに、確かに俺はあの一言に捕まっていた。
朝が来た、という事実が、そこに残るのだった。
次の日の朝。
カーテン越しの光が、思ったより早く部屋に入り込んできた。
眠ったはずなのに、体の奥に夜が残っている。
頭が重く、夢を見ていたのかどうかも思い出せない。
颯馬は、起き上がる前からスマホを手に取っていた。
習慣、というほど自然な動きだった。
昨日の投稿は、まだ消えていない。
それだけで、胸のどこかがざわつく。
安心とも不安とも違う、落ち着かない感じ。
迷った。
送らない理由なら、昨日の夜に散々考えた。
それらは朝になっても、少しも色褪せていなかった。
それでも、結局、送ることにした。
文章を考えようとして、画面を見つめる。
何度も書いては消し、消しては書く。
なのに、最後に残ったのは、いちばん出したくなかった文だった。
「昨日の投稿を見させていただきました、大丈夫ですか?」
送信。
指を離した瞬間、胃のあたりが冷える。
やってしまった、と思った。
自分が嫌っていた文章を、自分の手でなぞってしまった。
逃げだ。
そう分かっているのに、他の言葉が見つからなかった。
既読はつかない。
当然だ。
朝だし、仕事かもしれないし、もしかしたら一緒の学生かも⋯⋯しれないし。そもそも返信を期待する立場じゃない。
それでも、画面から目が離れなかった。
時間が過ぎる。
コーヒーを淹れても、味がしなかった。
テレビをつけても、音が頭を素通りする。
数時間後、通知が鳴った。
「見てくれてありがとうございます、心配もしてくれて、、」
語尾が曖昧で、句点が二つ。
そこで一度、文章が止まったことが分かる。
颯馬は、返事を考える間もなく、指を動かしていた。
「どういたしまして、何かあったら言ってくださいね?」
送信してから、強く後悔した。
まただ。
責任を取らない優しさ。何かあったらという便利な逃げ道。
なのに、彼女からの返事は早かった。
「ありがとうございます!」
短い。
でも、感嘆符がひとつ付いている。
それだけで、胸の奥がわずかに緩む。
理由は分からない。
期待していたわけでもないのに、返ってきたこと自体が、ひどく現実的だった。
それから、やり取りは自然に続いた。
特別な約束があったわけじゃない。
気が向いたときに、ぽつりとメッセージが届く。
「今日はちょっと寒いですね」
当たり前の一言。
でも、昨日の「消えたい」と同じ人が書いていると思うと、不思議な感じがした。
「ですね。急に冷えましたよね」
会話は、それだけで終わることもあった。
続かない日もある。
それを気まずいと思う自分がいることに、颯馬は少し驚いた。
ある日、こんなやり取りがあった。
「そういえば、お名前って…⋯」
名前。そうだ、まだ名乗っていなかった。
「颯馬です」
数分後。
「颯馬さんでしたよね?」
確認するような言い方。
一度読んで、もう一度読み返す。
「はい、そうです」
それだけの会話なのに、妙に印象に残った。
名前を呼ばれた、というより、自分が誰かとして認識された感じがした。
その後、美麗さんはいろんなことを話してくれた。
少しだけ嬉しかったこと。
電車で隣に座った人の咳が止まらなかったこと。
夜中に食べたアイスが、思ったより美味しかったこと。
どれも、本当にどうでもいい話だ。
物語にするほどでもない。
誰かに語る理由もない。
でも、そのどうでもなさが、颯馬の心を静かに撫でた。
颯馬は、相槌を打ち、短い言葉を返すだけだった。
踏み込みすぎないように。
期待させないように。
彼女は、ときどきまた「消えたい」と書いた。
その前後で、普通に笑うような文章を送ってくる。
矛盾している。
でも、否定する気にはなれなかった。
颯馬は、救おうとは思っていない。
理解できているとも思っていない。
ただ、画面の向こうで続くこの会話が、自分の内側を少しだけ静かにしていることだけは、確かだった。
颯馬はそう思いながら、次の通知が鳴るまで、スマホと自分の顔を机に伏せた。
次の日から、颯馬の日常は、確実に変わっていた。
何か劇的な出来事が起きたわけじゃない。
朝の電車も、学校の廊下も、授業中に聞こえるチャイムの音も、昨日までと何一つ違わない。
それでもどこか落ち着かない。ポケットの中に入れたスマホの存在が、やけに重く感じる。
気づけば、ずっと彼女と話すようになっていた。
毎日必ず、というわけじゃない。
でも、途切れそうで途切れない。
間に沈黙が挟まっても、それを無理に埋めようとはしない、不思議な距離。
昼休み、机に肘をついてぼんやりしていると、スマホが震えた。
「颯馬さん、趣味ってあるんですか?」
画面に浮かんだその一文を、颯馬は少しの間、眺めた。
趣味。
そう聞かれて、すぐに答えられるものを、自分は持っていただろうか。
考えているうちに、指が動いていた。
「趣味、ですか?今、小説書いてますよ〜」
送信してから、遅れて緊張が押し寄せる。
言うつもりはなかった。
隠していたわけじゃないけれど、わざわざ話題にするものでもないと思っていた。
すぐに返信が来た。
「え、小説書いてるんですか、?!」
文末の「?!」が、やけに勢いよく見える。
颯馬は一瞬、身構えた。
「え、あ、はい」
たったそれだけの返事なのに、慎重になる。
変に期待させたらどうしようとか、引かれたらどうしようとか、そんなことを考える自分に、少し苦笑する。
「どんなのですか?」
逃げ場がなくなった気がした。
具体的に答えるほどの自信はない。
かといって、はぐらかすのも違う気がした。
「ん〜、ミステリーとか、恋愛系とかですかね」
少し曖昧にしたつもりだった。
ジャンルを並べただけで、中身は何も語っていない。
それなのに、返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「え、すごいです、見てみたいです!」
胸の奥が、はっきりと跳ねた。
驚いた、というより、揺さぶられた。
見てみたい。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
颯馬は、画面を見つめたまま、すぐに返事ができなかった。
すごい、という言葉が、どうしても自分に結びつかなかった。
褒められるようなものじゃない。
自分が一番よく分かっている。
「いいですけど、でも、色々変だと思います。普通の小説ではないですし?」
送信した文は、どこか言い訳がましかった。
期待される前に、予防線を張る。
いつもの癖だ。
それでも、彼女は引かなかった。
「それでも見たいんですよ?私は」
その一文を読んだ瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
理由は分からない。
評価されたわけでも、内容を知っているわけでもない。
ただ、否定されなかった。
それだけなのに、心臓がうるさくなる。
颯馬は、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
教室のざわめきが遠くなる。
周りの友人の声も、椅子を引く音も、どこか別の世界の出来事みたいだった。
初めて、自分の小説を、「読んでみたい」と言われた。
それが、こんなにも落ち着かないものだとは、知らなかった。
指が震えないように、意識して力を入れる。
「あ、ありがとうございます!」
送信してから、深く息を吐いた。
胸が、少しだけ苦しい。
でも、嫌な感じじゃない。
彼女は、また何でもない話を送ってくる。
その中に、さっきの言葉への追加はない。
無理に踏み込まない、その距離感が、逆に心に残った。
颯馬はスマホを伏せて、天井を見上げる。
自分が書いてきたものは、ずっと、自分だけのものだった。
それを、誰かに見せるかもしれない。その事実が、怖くて、少しだけ嬉しかった。
その日の夜、颯馬はベッドに寝転がったまま、天井を見ていた。
スマホは胸の上に置いてある。
画面は暗いのに、そこに彼女がいる気がして、目を閉じられなかった。
昼間のやり取りが、何度も頭の中で再生される。
「見てみたい」
その一言が、思った以上に残っていた。
通知が鳴る。
「今日は小説、書きました?」
突然の問いに、少しだけ心臓が跳ねた。
見られている、という感覚じゃない。
気にかけられている、というほうが近い。
「少しだけです。全然進んでないですけど」
正直な返事だった。
彼女と話していると、文章が頭から逃げていく。
その代わりに、別の言葉が溜まっていく感じがした。
「でも、書いてるのえらいです」
えらい。
また、自分には向けられたことのない評価だった。
「そうですかね」
「そうですよ。続けてるって、それだけで」
颯馬はしばらく考えてから、打ち込む。
「じゃあ、美麗さんは何してたんですか?」
送ってから、少しだけ後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、取り消すほどの勇気もなかった。
返事は、思ったよりすぐに来た。
「今日は部屋の片付けしてました。途中でやめましたけど」
「あるあるですね」
「ですね。途中で座っちゃうと終わりです」
文章が、柔らかい。
会ったこともないのに、声の温度が想像できる。
少し間が空いて、またメッセージが届いた。
「颯馬さんって、休日は外出ます?」
その質問に、指が止まる。
これは、ただの世間話だろうか。
それとも、少しだけ違う意味が含まれているのか。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
「出るときもありますけど、基本インドアです」
「私もです」
その一言に、理由もなく安心した。
「でも、たまに外に出ないと、息苦しくなりません?」
その感覚は、よく分かる。
家にいるのに、どこにも居場所がない感じ。
「なります。意味もなく歩いたりします」
「それ、ちょっと分かります」
画面の向こうで、彼女が小さく頷いている気がした。
しばらく、他愛のない会話が続いたあと、颯馬は、勢いに任せて打ってしまった。
「もしよかったらですけど」
送信してから、すぐに続ける。
「今度、少し話しません?直接」
心臓の音が、耳まで上がってくる。
断られてもおかしくない。
というより、断られる可能性のほうが高い。
既読がつく。
そこから、少しだけ時間がかかった。
スマホを伏せて、また持ち上げる。
その繰り返し。
ようやく、画面が光った。
「いいんですか?」
その短い一文に、息を詰める。
「はい。無理なら大丈夫です」
逃げ道を残す。
いつもの癖だ。
「無理じゃないです」
続けて、もう一通。
「ちょっと、怖いですけど」
正直嫌、かと思った。
それが、嫌じゃなかった。
「俺もです」
それは、嘘じゃなかった。
場所や時間を決めるまで、思った以上に時間がかかった。
どこがいいか、何時がいいか、
一つ決めるたびに、確認する。
「駅前とかどうですか?」
「人多いですかね」
「じゃあ、少し離れた公園とか」
「それなら…⋯大丈夫かもです」
画面の向こうで、彼女も同じように迷っているのが伝わってくる。
急がない、そのやり取りが、妙に心地よかった。
「じゃあ、土曜の午後で」
「はい」
それだけで、約束は成立した。
「迷ったら連絡してください」
「颯馬さんも」
「はい」
会話は、そこで一度途切れた。
スマホの画面が暗くなる。
颯馬は、天井を見上げる。
会う。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
彼女は、どんな顔をしているんだろう。
どんな声で、どんな間で話すんだろう。
分からない。
分からないままでいい。
ただ、メッセージの中だけだった存在が、少しだけ、現実に近づいた。
それだけで、胸がざわつく。
颯馬は、スマホを胸に引き寄せて、目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
でも、不思議と、悪い夜じゃなかった。
次の日の朝、颯馬は家で久しぶりに鏡の前に立った。
寝癖を直すだけのつもりだったのに、気づけば髪を少し丁寧に整えていた。
前髪の長さを指で測り、何度か流れを変えてみる。
どれが正解なのかは分からない。
分からないまま、妥協点を探す。
香水をつけるかどうかで、少し迷った。
普段は使わない。
でも今日は、普段じゃない。
ほんの一押し。
自分でも分からないくらいの量。
それでも、つけたという事実だけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
玄関を出ると、朝の空気が思ったより冷たかった。
息を吸うと、肺の奥がはっきりと目を覚ます。
駅に着き、改札口を通る。
いつもと同じ動作なのに、今日は一つひとつが妙に意識に引っかかる。
電車に乗り込み、空いている席を見つけて腰を下ろした。
「……会うのか」
声に出してから、少し恥ずかしくなった。
誰に聞かせるわけでもないのに。
電車は揺れながら進んでいく。
窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺める。
建物の隙間から、朝日がゆっくりと昇っていくのが見えた。
綺麗だ、と思った。
それ以上の言葉は浮かばない。
イヤホンをつけて、音楽を流す。
何を聴いているのか、途中から分からなくなる。
颯馬は目を閉じた。
次に目を開けたとき、アナウンスが自分の降りる駅を告げていた。
慌てて立ち上がり、人の流れに混じって降りる。
駅を出る。
約束した場所まで、まだ少し距離がある。
周囲を歩く人たちを、無意識に目で追ってしまう。
その中で、ひとり、立ち止まっている女の子がいた。
最初は、違うと思った。
年上かもしれない、と一瞬考えた。
もしかしたら、そもそも全然別人かもしれない。
けれど、近づくにつれて、その考えは薄れていく。
いかにも女子高生らしい服装だった。
上は黒いジャージ。下は短めのスカート。
派手ではないのに、どこか目に留まる。
颯馬は、一瞬だけ視線が下に落ちて、すぐに逸らした。
見てはいけないものを見た気がして、少しだけ居心地が悪くなる。
意識してしまったこと自体が、恥ずかしかった。
彼女は、スマホを見ていた顔を上げ、少し不満そうな表情でこちらを振り返った。
「誰ですか? こっち見てきて」
思ったより、はっきりした声だった。
颯馬の心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
「あ、あの……颯馬です」
名乗った瞬間、喉が少し詰まった。
声が裏返らなかっただけ、まだましだと思う。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、目を見開いた。
「え、あ、すみません!」
表情が一気に柔らぐ。
さっきまでの警戒が、嘘みたいだった。
その変化に、颯馬は少しだけ安堵する。
そして、遅れて実感が追いついてくる。
――この人が、彼女だ。
可愛らしい、と思った。
それは直感だった。
作り込まれた感じじゃない。
無防備で、少し不器用そうな雰囲気。
こういう格好は、地雷系、というのだろうか。
言葉だけは知っているけれど、詳しくは分からない。
ただ、自分の好みに合っている、ということだけは、なぜかはっきりしていた。
彼女は少しだけ照れたように、視線を逸らす。
「……颯馬さん、ですよね?」
確認するような言い方。
その呼び方が、胸の奥に小さく響く。
「はい」
それだけの返事なのに、声が少し固くなった。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
駅前のざわめきが、逆に遠く感じられる。
いや正確には、廻った「あと」だ。秒針が一周して、画面の右上に表示される日付が変わった、そのわずかな遅れの時間。
俺、颯馬はスマホを握ったまま、何も考えずに指を動かしていた。
タイムラインはいつも通りで、どうでもいい日常と、少しの虚勢と、過剰な自己主張が混ざり合って流れていく。
誰かの成功報告や失敗談他といえば、誰かの怒りなど。
どれもが軽く、でもどれもが重く、等しく俺とは無関係だった。
その中に、ひとつだけ、引っかかる言葉があった。
「消えたい」
それだけだった。
感情を説明する文章も、理由も、顔文字もない。
まるで息を吐くみたいに、当然のこととして置かれた四文字。
胸の奥が、はっきり揺れることが分かった。
驚きとか恐怖とか、そういう名前のつく感情じゃない。
もっと物理的で、もっと鈍い。水の中に石を落とされたみたいな、重たい揺れだ。
なぜ、そう思ったのか。
どんな出来事があって、どれほどの時間をそこまで耐えてきたのか。
今の俺には、予想すらできなかった。
想像しようとした瞬間、頭の中で雑音が鳴って、思考が逃げる。
話しかけようか、と考えた。
「大丈夫ですか?」
「何かあったんですか?」
画面に文字を打つ自分を想像しただけで、気分が悪くなった。
それらは正しすぎる。
安全で、優しくて、誰も傷つけない代わりに、何も触れない典型的な文章だ。
自分がそういう言葉を嫌っていることだけは、はっきりしていた。
嫌い、というより、信用していない。
ああいう言葉は、書いた側の安心のために存在する。
届くかどうかより、「やった!」という事実が欲しいだけだ。
じゃあ、他に何を書く?
何も浮かばない。
スマホを置いて、また手に取る。
投稿を開いては閉じ、プロフィールを覗いては戻る。
名前も写真も、よくあるものだ。
特別な情報は何ひとつないのに、目だけがそこから一切離れなかった。
俺は結局、何も書かないまま、時間だけを消費した。
何かをしなければ、と思いながら、何もしない選択を重ねる。
そのくせ、見ないという選択肢だけは取れなかった。
画面の明るさが目に染みて、充電の残量が減っていく。
部屋は静かで、時計の音だけがやけに大きく感じる。
外では、たぶん誰かがまだ起きていて誰かがもう眠っている。
その境目の時間に、俺はひとりで立ち尽くしていた。
彼女は、その後も何も書かなかった。
投稿は消えず、追加もされない。
それが余計に、落ち着かなかった。
考えすぎだ、と何度も自分に言い聞かせた。
SNSなんて、そういう場所だ。
深夜には、誰でも少し大げさになる。
それでも、胸の奥の揺れは消えなかった。
俺は何度も時計を見て、何度も画面を更新して、何度もため息をついた。
気づいたとき、窓の外がわずかに白んでいた。
夜が、終わっていた。
何もしていないのに、ひどく疲れていた。
話しかけてもいないし、救ってもいないし、何ひとつ変えていない。
それなのに、確かに俺はあの一言に捕まっていた。
朝が来た、という事実が、そこに残るのだった。
次の日の朝。
カーテン越しの光が、思ったより早く部屋に入り込んできた。
眠ったはずなのに、体の奥に夜が残っている。
頭が重く、夢を見ていたのかどうかも思い出せない。
颯馬は、起き上がる前からスマホを手に取っていた。
習慣、というほど自然な動きだった。
昨日の投稿は、まだ消えていない。
それだけで、胸のどこかがざわつく。
安心とも不安とも違う、落ち着かない感じ。
迷った。
送らない理由なら、昨日の夜に散々考えた。
それらは朝になっても、少しも色褪せていなかった。
それでも、結局、送ることにした。
文章を考えようとして、画面を見つめる。
何度も書いては消し、消しては書く。
なのに、最後に残ったのは、いちばん出したくなかった文だった。
「昨日の投稿を見させていただきました、大丈夫ですか?」
送信。
指を離した瞬間、胃のあたりが冷える。
やってしまった、と思った。
自分が嫌っていた文章を、自分の手でなぞってしまった。
逃げだ。
そう分かっているのに、他の言葉が見つからなかった。
既読はつかない。
当然だ。
朝だし、仕事かもしれないし、もしかしたら一緒の学生かも⋯⋯しれないし。そもそも返信を期待する立場じゃない。
それでも、画面から目が離れなかった。
時間が過ぎる。
コーヒーを淹れても、味がしなかった。
テレビをつけても、音が頭を素通りする。
数時間後、通知が鳴った。
「見てくれてありがとうございます、心配もしてくれて、、」
語尾が曖昧で、句点が二つ。
そこで一度、文章が止まったことが分かる。
颯馬は、返事を考える間もなく、指を動かしていた。
「どういたしまして、何かあったら言ってくださいね?」
送信してから、強く後悔した。
まただ。
責任を取らない優しさ。何かあったらという便利な逃げ道。
なのに、彼女からの返事は早かった。
「ありがとうございます!」
短い。
でも、感嘆符がひとつ付いている。
それだけで、胸の奥がわずかに緩む。
理由は分からない。
期待していたわけでもないのに、返ってきたこと自体が、ひどく現実的だった。
それから、やり取りは自然に続いた。
特別な約束があったわけじゃない。
気が向いたときに、ぽつりとメッセージが届く。
「今日はちょっと寒いですね」
当たり前の一言。
でも、昨日の「消えたい」と同じ人が書いていると思うと、不思議な感じがした。
「ですね。急に冷えましたよね」
会話は、それだけで終わることもあった。
続かない日もある。
それを気まずいと思う自分がいることに、颯馬は少し驚いた。
ある日、こんなやり取りがあった。
「そういえば、お名前って…⋯」
名前。そうだ、まだ名乗っていなかった。
「颯馬です」
数分後。
「颯馬さんでしたよね?」
確認するような言い方。
一度読んで、もう一度読み返す。
「はい、そうです」
それだけの会話なのに、妙に印象に残った。
名前を呼ばれた、というより、自分が誰かとして認識された感じがした。
その後、美麗さんはいろんなことを話してくれた。
少しだけ嬉しかったこと。
電車で隣に座った人の咳が止まらなかったこと。
夜中に食べたアイスが、思ったより美味しかったこと。
どれも、本当にどうでもいい話だ。
物語にするほどでもない。
誰かに語る理由もない。
でも、そのどうでもなさが、颯馬の心を静かに撫でた。
颯馬は、相槌を打ち、短い言葉を返すだけだった。
踏み込みすぎないように。
期待させないように。
彼女は、ときどきまた「消えたい」と書いた。
その前後で、普通に笑うような文章を送ってくる。
矛盾している。
でも、否定する気にはなれなかった。
颯馬は、救おうとは思っていない。
理解できているとも思っていない。
ただ、画面の向こうで続くこの会話が、自分の内側を少しだけ静かにしていることだけは、確かだった。
颯馬はそう思いながら、次の通知が鳴るまで、スマホと自分の顔を机に伏せた。
次の日から、颯馬の日常は、確実に変わっていた。
何か劇的な出来事が起きたわけじゃない。
朝の電車も、学校の廊下も、授業中に聞こえるチャイムの音も、昨日までと何一つ違わない。
それでもどこか落ち着かない。ポケットの中に入れたスマホの存在が、やけに重く感じる。
気づけば、ずっと彼女と話すようになっていた。
毎日必ず、というわけじゃない。
でも、途切れそうで途切れない。
間に沈黙が挟まっても、それを無理に埋めようとはしない、不思議な距離。
昼休み、机に肘をついてぼんやりしていると、スマホが震えた。
「颯馬さん、趣味ってあるんですか?」
画面に浮かんだその一文を、颯馬は少しの間、眺めた。
趣味。
そう聞かれて、すぐに答えられるものを、自分は持っていただろうか。
考えているうちに、指が動いていた。
「趣味、ですか?今、小説書いてますよ〜」
送信してから、遅れて緊張が押し寄せる。
言うつもりはなかった。
隠していたわけじゃないけれど、わざわざ話題にするものでもないと思っていた。
すぐに返信が来た。
「え、小説書いてるんですか、?!」
文末の「?!」が、やけに勢いよく見える。
颯馬は一瞬、身構えた。
「え、あ、はい」
たったそれだけの返事なのに、慎重になる。
変に期待させたらどうしようとか、引かれたらどうしようとか、そんなことを考える自分に、少し苦笑する。
「どんなのですか?」
逃げ場がなくなった気がした。
具体的に答えるほどの自信はない。
かといって、はぐらかすのも違う気がした。
「ん〜、ミステリーとか、恋愛系とかですかね」
少し曖昧にしたつもりだった。
ジャンルを並べただけで、中身は何も語っていない。
それなのに、返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「え、すごいです、見てみたいです!」
胸の奥が、はっきりと跳ねた。
驚いた、というより、揺さぶられた。
見てみたい。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
颯馬は、画面を見つめたまま、すぐに返事ができなかった。
すごい、という言葉が、どうしても自分に結びつかなかった。
褒められるようなものじゃない。
自分が一番よく分かっている。
「いいですけど、でも、色々変だと思います。普通の小説ではないですし?」
送信した文は、どこか言い訳がましかった。
期待される前に、予防線を張る。
いつもの癖だ。
それでも、彼女は引かなかった。
「それでも見たいんですよ?私は」
その一文を読んだ瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
理由は分からない。
評価されたわけでも、内容を知っているわけでもない。
ただ、否定されなかった。
それだけなのに、心臓がうるさくなる。
颯馬は、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
教室のざわめきが遠くなる。
周りの友人の声も、椅子を引く音も、どこか別の世界の出来事みたいだった。
初めて、自分の小説を、「読んでみたい」と言われた。
それが、こんなにも落ち着かないものだとは、知らなかった。
指が震えないように、意識して力を入れる。
「あ、ありがとうございます!」
送信してから、深く息を吐いた。
胸が、少しだけ苦しい。
でも、嫌な感じじゃない。
彼女は、また何でもない話を送ってくる。
その中に、さっきの言葉への追加はない。
無理に踏み込まない、その距離感が、逆に心に残った。
颯馬はスマホを伏せて、天井を見上げる。
自分が書いてきたものは、ずっと、自分だけのものだった。
それを、誰かに見せるかもしれない。その事実が、怖くて、少しだけ嬉しかった。
その日の夜、颯馬はベッドに寝転がったまま、天井を見ていた。
スマホは胸の上に置いてある。
画面は暗いのに、そこに彼女がいる気がして、目を閉じられなかった。
昼間のやり取りが、何度も頭の中で再生される。
「見てみたい」
その一言が、思った以上に残っていた。
通知が鳴る。
「今日は小説、書きました?」
突然の問いに、少しだけ心臓が跳ねた。
見られている、という感覚じゃない。
気にかけられている、というほうが近い。
「少しだけです。全然進んでないですけど」
正直な返事だった。
彼女と話していると、文章が頭から逃げていく。
その代わりに、別の言葉が溜まっていく感じがした。
「でも、書いてるのえらいです」
えらい。
また、自分には向けられたことのない評価だった。
「そうですかね」
「そうですよ。続けてるって、それだけで」
颯馬はしばらく考えてから、打ち込む。
「じゃあ、美麗さんは何してたんですか?」
送ってから、少しだけ後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、取り消すほどの勇気もなかった。
返事は、思ったよりすぐに来た。
「今日は部屋の片付けしてました。途中でやめましたけど」
「あるあるですね」
「ですね。途中で座っちゃうと終わりです」
文章が、柔らかい。
会ったこともないのに、声の温度が想像できる。
少し間が空いて、またメッセージが届いた。
「颯馬さんって、休日は外出ます?」
その質問に、指が止まる。
これは、ただの世間話だろうか。
それとも、少しだけ違う意味が含まれているのか。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
「出るときもありますけど、基本インドアです」
「私もです」
その一言に、理由もなく安心した。
「でも、たまに外に出ないと、息苦しくなりません?」
その感覚は、よく分かる。
家にいるのに、どこにも居場所がない感じ。
「なります。意味もなく歩いたりします」
「それ、ちょっと分かります」
画面の向こうで、彼女が小さく頷いている気がした。
しばらく、他愛のない会話が続いたあと、颯馬は、勢いに任せて打ってしまった。
「もしよかったらですけど」
送信してから、すぐに続ける。
「今度、少し話しません?直接」
心臓の音が、耳まで上がってくる。
断られてもおかしくない。
というより、断られる可能性のほうが高い。
既読がつく。
そこから、少しだけ時間がかかった。
スマホを伏せて、また持ち上げる。
その繰り返し。
ようやく、画面が光った。
「いいんですか?」
その短い一文に、息を詰める。
「はい。無理なら大丈夫です」
逃げ道を残す。
いつもの癖だ。
「無理じゃないです」
続けて、もう一通。
「ちょっと、怖いですけど」
正直嫌、かと思った。
それが、嫌じゃなかった。
「俺もです」
それは、嘘じゃなかった。
場所や時間を決めるまで、思った以上に時間がかかった。
どこがいいか、何時がいいか、
一つ決めるたびに、確認する。
「駅前とかどうですか?」
「人多いですかね」
「じゃあ、少し離れた公園とか」
「それなら…⋯大丈夫かもです」
画面の向こうで、彼女も同じように迷っているのが伝わってくる。
急がない、そのやり取りが、妙に心地よかった。
「じゃあ、土曜の午後で」
「はい」
それだけで、約束は成立した。
「迷ったら連絡してください」
「颯馬さんも」
「はい」
会話は、そこで一度途切れた。
スマホの画面が暗くなる。
颯馬は、天井を見上げる。
会う。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
彼女は、どんな顔をしているんだろう。
どんな声で、どんな間で話すんだろう。
分からない。
分からないままでいい。
ただ、メッセージの中だけだった存在が、少しだけ、現実に近づいた。
それだけで、胸がざわつく。
颯馬は、スマホを胸に引き寄せて、目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
でも、不思議と、悪い夜じゃなかった。
次の日の朝、颯馬は家で久しぶりに鏡の前に立った。
寝癖を直すだけのつもりだったのに、気づけば髪を少し丁寧に整えていた。
前髪の長さを指で測り、何度か流れを変えてみる。
どれが正解なのかは分からない。
分からないまま、妥協点を探す。
香水をつけるかどうかで、少し迷った。
普段は使わない。
でも今日は、普段じゃない。
ほんの一押し。
自分でも分からないくらいの量。
それでも、つけたという事実だけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
玄関を出ると、朝の空気が思ったより冷たかった。
息を吸うと、肺の奥がはっきりと目を覚ます。
駅に着き、改札口を通る。
いつもと同じ動作なのに、今日は一つひとつが妙に意識に引っかかる。
電車に乗り込み、空いている席を見つけて腰を下ろした。
「……会うのか」
声に出してから、少し恥ずかしくなった。
誰に聞かせるわけでもないのに。
電車は揺れながら進んでいく。
窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺める。
建物の隙間から、朝日がゆっくりと昇っていくのが見えた。
綺麗だ、と思った。
それ以上の言葉は浮かばない。
イヤホンをつけて、音楽を流す。
何を聴いているのか、途中から分からなくなる。
颯馬は目を閉じた。
次に目を開けたとき、アナウンスが自分の降りる駅を告げていた。
慌てて立ち上がり、人の流れに混じって降りる。
駅を出る。
約束した場所まで、まだ少し距離がある。
周囲を歩く人たちを、無意識に目で追ってしまう。
その中で、ひとり、立ち止まっている女の子がいた。
最初は、違うと思った。
年上かもしれない、と一瞬考えた。
もしかしたら、そもそも全然別人かもしれない。
けれど、近づくにつれて、その考えは薄れていく。
いかにも女子高生らしい服装だった。
上は黒いジャージ。下は短めのスカート。
派手ではないのに、どこか目に留まる。
颯馬は、一瞬だけ視線が下に落ちて、すぐに逸らした。
見てはいけないものを見た気がして、少しだけ居心地が悪くなる。
意識してしまったこと自体が、恥ずかしかった。
彼女は、スマホを見ていた顔を上げ、少し不満そうな表情でこちらを振り返った。
「誰ですか? こっち見てきて」
思ったより、はっきりした声だった。
颯馬の心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
「あ、あの……颯馬です」
名乗った瞬間、喉が少し詰まった。
声が裏返らなかっただけ、まだましだと思う。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、目を見開いた。
「え、あ、すみません!」
表情が一気に柔らぐ。
さっきまでの警戒が、嘘みたいだった。
その変化に、颯馬は少しだけ安堵する。
そして、遅れて実感が追いついてくる。
――この人が、彼女だ。
可愛らしい、と思った。
それは直感だった。
作り込まれた感じじゃない。
無防備で、少し不器用そうな雰囲気。
こういう格好は、地雷系、というのだろうか。
言葉だけは知っているけれど、詳しくは分からない。
ただ、自分の好みに合っている、ということだけは、なぜかはっきりしていた。
彼女は少しだけ照れたように、視線を逸らす。
「……颯馬さん、ですよね?」
確認するような言い方。
その呼び方が、胸の奥に小さく響く。
「はい」
それだけの返事なのに、声が少し固くなった。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
駅前のざわめきが、逆に遠く感じられる。



