一乗家のかわいい花嫁

 その「ああ」は、どういった「ああ」なのだろうか。
「別に私も駄目ということはないしな。昔は、女中などいない生活や皆で食卓を囲むことが当たり前だったのだ。特に抵抗はない」
 善路がズズッと味噌汁をすする。
「それに、全員が揃う時間があると、何かと報告も一度で済むし効率的だ」
「それは確かに。清須川家と二井家の祝言の話を何度もするのは、疲れたでしょうから」
 桂子が、きゅうりのぬか漬けに鰹節をパラパラとかけながら、トホホとばかりの苦笑をもらした。
「最後までお疲れ様でした、奥様」
 ミツヨがしみじみとした声で労いの言葉を掛ければ、他の者達もうんうんと深く頷いていた。
 実は、茜が自警団に連れて行かれた後、さらりと終われたわけではなかった。

        ◆
 
 ゾロゾロと自警団一行が会場から去った後、しばらく誰も何も喋らない無音の時間が続いていた。
 会場の外にもホテルの従業員がいたが、呆然として桑田達を見送っていただけだった。
 誰もが、どうしたらいいのか隣や向かいの者の顔色を探る中、最初にその空気を破ったのは近衛侯爵だった。
『さて、すっきりしたし、私は帰らせてもらおうかな』
 彼は席を立つと、疲れたとばかりに両腕を上に伸ばした。先ほどまでの乱事など、まるでなかったかのような清々しい声だ。
 続いて、隣に座っていた東郷屋伯爵も立ち上がった。
『では、近衛侯爵が帰られるのなら私も。せっかくですから、飲み直しいたしませんか』
『おおっ、それは名案だ』
 二人は、崩れた石像のように床で固まっている三人の横を、さらりと通り過ぎていく。二人の会話はもうおすすめの店や美味い酒の話になっており、今までのことは脳内からすっかり消え去っているようだった。
 すると、会場を出ようとした近衛侯爵が足を止め、『ああ、そうだ』と思い出したようにこちらを振り向いた。
『君たち夫婦は何も気にしなくていいからな。すべては二井家と清須川家の問題だ』
『そうそう、二人は一乗家なんだからな』
 同じく足を止めた東郷屋伯爵も声を飛ばしてくる。
 千代と雪人は『ありがとうございます』と謝辞と共に腰を折った。
『おっ、そうだ。レオン先生にも報告しておくか』
『それはいいですな。きっとレオンは「えー! 僕も見たかったです」とか言って悔しがるでしょうし、楽しみですな』
『伯爵、先生のものまねが上手いな。あ、土井侯爵は今度うちへ来なさい』
 ワハハと、二人は肩をたたき合いながら会場を後にした。
 愉快な笑い声が段々と小さくなり、廊下の奥へと消えていく。なんとも陽気な嵐だ。
 すると、それを皮切りにして次々と席を立つ者が出て、ぞろぞろと皆会場を出て行く。背中を丸めた土井侯爵も、人波にまぎれて出て行っていた。
 残ったのは二井家の親族、そして卓の足元で項垂れた三人と千代達のみ。
 誰もいなくなった高砂席に一際美しく生けられた花が、一段と虚しさを強調させていた。
『行こう、千代』
『はい』
 千代の腰に雪人が手を添え、共に出口へと向かう。
『ち、千代……』
 その背に、力ない声が掛けられた。
 肩口に顔を向ければ、顔を引きつらせながらも、へらっとこちらに笑いかける勇一郎の姿があった。
『た、助けてくれよ。三年も婚約者だった仲じゃないか』
 床に膝をついたまま、見上げてくる姿は憐憫を誘う。
 これが半年前、ふんぞり返って『君のことを一度たりとも愛しいと思ったことはない』などと婚約破棄を突きつけてきた男の姿か。
『茜の夫として清須川家に入り、茜を二井家の親族として受け入れると仰ったじゃないですか。勇一郎様は清須川家の次期当主なのですから、ご自分で対処なされてください』
『じ、実家が困っていたら助けるべきだと思わないのか!? もう僕と君は親族なんだから……い、一乗家から援助してもらっても良いだろう……?』
 呆れ果てた男だ。怒りよりも、恥知らずの限度を超えた言動に嫌悪すら覚える。
 今までどれだけ雪人や一乗家を、平民と言って馬鹿にしてきたのか。それでよく、媚びた顔で金を寄越せと言えるものだ。
 ほとほと彼と結婚しなくて良かったと、心の底から思う。
 きっと経営の才能もないし、人望もないのだろう。彼が清須川製糸を継いでも、経営不審が加速するだけだ。もし、彼と結婚していたら、身体を売ってでも稼いでこいなどと言われていたに違いない。
『茜とは血が繋がっているかもわかりませんし、その夫では、親族というにはあまりに他人でしょう』
『君って奴は……!』
 へらへらしていた勇一郎の顔に、怒りが満ちた。
 しかし、雪人がすぐに千代を背に隠し、勇一郎の前に立ちはだかる。
『「国民の中の貴種」として国民の模範となるべき華族様が、平民風情に頼ってはいけませんよ』
 口調は丁寧だが、床に膝をつく勇一郎を見下ろす目は、疎ましいものを見るような目だった。見下ろすというよりも見下すといった視線だ。
『それに、私も勇一郎様のことを、一度たりとも愛しいと思ったことなどありませんので、助けたいと思う情すらわかないんです』
 これ以上話すことはないと、千代は勇一郎から視線を切り、再び扉へと向かおうとした。
『――ッん!』
 のだが、今度は足が動かなくなってしまった。
 比喩ではなく、本当に足が動かなくなったのだ。
『……親を捨てるか……千代』
 千代の足を、父が掴んでいた。
 床から睨み上げてくる目は血走り、顔には暗い影が落ちている。
『……っあなたが私の親だったことなどありますか。ついひと月ほど前に、あなたから「お前は清須川の娘ではない」と言われたばかりですが』
『それでもお前は私の本当の娘だ。ここまで誰の金で大きくなった。誰が女学校まで通わせてやった。一乗に嫁がせてやったのは誰だ!』
『――っ』
 行かせないとばかりに、父の手が足首を締め付けた。足を引っ張っても、力が強く逃れることができない。
 魑魅魍魎だ。魑魅魍魎が縛り付けようとしている。
 また、邪魔をされるのか。