聞きたくないと耳を両手で塞いで癇癪的に叫ぶ茜の声は、パチンッ、という肌を打つ乾いた音で止まった。
「いい加減になさい、茜」
茜の元へとやって来た千代が、彼女の頬を打ったのだ。
「あなたの行動で、どれだけの方々が迷惑を被ったと思っているの」
目を見開いた茜は、信じられないというように、赤くなった頬に触れていた。
「全部お前が悪いんだよ! 士族家に生まれてなんの不自由なく生活して、母親にも愛されて……っ、あたしは花街なんてドブ底で生きてたってのに! 優しさ見せたらあたしが懐くとでも思ったのか!? アハハッ! そんなわけねーだろ、優しくされるたびに虫唾が走ってたわ! ねえ、お姉さま……あたしと姉妹だってんなら、お姉さまが持ってるもん、全部あたしにちょうだいよ……ねえ……あたしが不幸だった分、お姉さまも不幸になるべきでしょう……?」
めちゃくちゃだ。
「――っあたしが! 一番誰よりも幸せにならなきゃダメなんだよ! あたし以外、皆不幸になれよ! あたしに跪けよっ!」
肩で息をして、喉を涸らしながら叫ぶ茜の姿を見て、これが本当の茜なのだと知った。
化粧が涙で剥がれ落ち、綺麗に結われていた髪は山姥のようにふり乱れ、羽織っていた打ち掛けはずるりと脱げている。
「あたし……っ…………間違って……なぃ、もん……っ」
美しいと評判だった花嫁の姿は、もうどこにもなかった。
これが、この憐れと言わざるを得ない姿が、茜の本当の姿なのかもしれない。
ずっと、歪んだ思いに囚われて生きてきたのだろう。
なんて不自由な子だろうか。
ふと、思った。
娘に自由に生きることを願った母も、もしかしたら、何か強い感情に囚われていたのかもしれない。今となっては、母の本意を知ることはできないが、こんな苦痛に満ちた思いから解放されたのだとしたら、早い死も救いだったのかもと思えた。
「あなたが幸せになりたかったのなら、私なんかに構わず自らそう動くべきだったのよ。勇一郎様と共に家を守り、友人との縁を大事にし、周りにいてくれる人に感謝するべきだったの。そうすれば、あなたの幸せに力を貸してくれる人も現れたかもしれないのに」
「ぅる……ざぃ……ぃ」
「見なさい、茜。今あなたに向けられている目が、今まであなたがやってきたことの答えよ」
「――っ!」
軽蔑、嘲笑、憐憫、憤懣、憎悪――ありとあらゆる茜を責め立てる目が、彼女に注がれていた。
「ぅ……ぅうぁ、やめ……いやぁ……っ見な、でよ……っ」
茜はゆるゆると頭を振り、視線から逃げるようにずるずると後退っていたが、打ち掛けの長い裾を踏んでしまい、どだんっ、と大きな音を立てて転げた。
しんとした会場の中で、床に膝をついた四人のぼそぼそとした後悔の声だけが、音だった。
「さてと、決着はついたな。それじゃ、俺らも片付けだ」
席から立ち上がった桑田が、「おい」と部下に顎先で合図を出すと、部下達は即座に茜を拘束した。
「や、やだっ、何、なんなのよ……!?」
「お家に帰るんだよ」
「ぃ、いやよ……あんなドブ底みたいな場所!」
「つれないこと言うなよー、同類だろう」
「違う……っ! あたしは――」
「綺麗なべべ着たって、お前の中身はドブ臭ーいドブネズミのままなんだよ。残念」
茫然自失となった茜は、部下に後ろ手に掴まれ、されるがまま引っ立てられる。
桑田は戸惑いを滲ませた茜の顔を、頬を潰すように強引に掴むと、自らの顔を近づけた。
「情報を外に漏らすってのは、花街最大の禁忌だ。それを、漏らすどころか大事な大事な金づる――いや、お客様の脅迫に使うなんてなあ……とても見逃せたもんじゃねえよ」
二人の顔の距離が近すぎて、千代のいる場所からは表情は窺えなかったが、茜が「ヒッ」と喉を鳴らした後、彼女の膝が抜けた。
しかし、取り囲んでいた部下に素早く支えられ、床に崩れ落ちはしなかった。
桑田を先頭に、ぞろぞろと部下達が会場を出て行く。
茜も引きずられるようにして、会場か連れ出されていた。
「それじゃあ、めでたい席に邪魔したな。今後とも花街をご贔屓に」
もはや、誰もここがめでたい席だったことなど覚えていないというに、あえてそう言う桑田はやはり皮肉がきいていた。
【終章:これが私の選ぶ道】
二井家と清須川家の祝言から、早ひと月が経った。
近頃は、女中の三人と千代そして善路の五人で、一緒に昼食をとっている。
一般的に、女中と家の者が一緒に食卓を囲むことはないのだが、善路の体調も良くなり、洋館まで来る機会も増えたため、千代が提案したのだ。
千代は元より、ひとりで食堂で食べるのも味気ないと、女中が食事をする場所――台所脇に置かれた食卓で一緒に食べていた。しかし、さすがに善路も女中の食卓で食事させることはできかねたため、それなら全員食堂でという流れになったのだ。
以前、善路はミツヨしか近づけないという話だったが、今は他の二人とも普通に言葉を交わしている。
チラッと善路が言っていたが、やはり病気になっていた時は、少し心が荒んでいたらしい。快方に向かうにつれ、洋館に出て来る時間も増えたし会話も増えた。
「はじめて、食堂のテーブルが大きくて良かったと思いました」
長方形の八人掛けのテーブルは、使っても端の二席を千代と雪人だけで使うことしかなく、常々半分以上もったいないなと思っていた。
それが今は昼食時には五席が埋まり、夕食時には三もしくは六席が埋まる。
清須川の女中は常に別だったし、何より千代は離れでひとりで食べていたため、大人数で食べるのが楽しかった。
「大旦那様、一緒に食べさせていただいてるあたしが言うのもなんですけど、よく許可なさいましたね」
ナリさんの口から、たくあんを噛むポリポリとした良い音が聞こえる。
「千代さんだからなあ。駄目といったところで諦める娘ではないし。きっと、その内勝手に食堂に配膳されるようになっていただろうな」
「ああ……」と女中三人が声を揃えていた。
「いい加減になさい、茜」
茜の元へとやって来た千代が、彼女の頬を打ったのだ。
「あなたの行動で、どれだけの方々が迷惑を被ったと思っているの」
目を見開いた茜は、信じられないというように、赤くなった頬に触れていた。
「全部お前が悪いんだよ! 士族家に生まれてなんの不自由なく生活して、母親にも愛されて……っ、あたしは花街なんてドブ底で生きてたってのに! 優しさ見せたらあたしが懐くとでも思ったのか!? アハハッ! そんなわけねーだろ、優しくされるたびに虫唾が走ってたわ! ねえ、お姉さま……あたしと姉妹だってんなら、お姉さまが持ってるもん、全部あたしにちょうだいよ……ねえ……あたしが不幸だった分、お姉さまも不幸になるべきでしょう……?」
めちゃくちゃだ。
「――っあたしが! 一番誰よりも幸せにならなきゃダメなんだよ! あたし以外、皆不幸になれよ! あたしに跪けよっ!」
肩で息をして、喉を涸らしながら叫ぶ茜の姿を見て、これが本当の茜なのだと知った。
化粧が涙で剥がれ落ち、綺麗に結われていた髪は山姥のようにふり乱れ、羽織っていた打ち掛けはずるりと脱げている。
「あたし……っ…………間違って……なぃ、もん……っ」
美しいと評判だった花嫁の姿は、もうどこにもなかった。
これが、この憐れと言わざるを得ない姿が、茜の本当の姿なのかもしれない。
ずっと、歪んだ思いに囚われて生きてきたのだろう。
なんて不自由な子だろうか。
ふと、思った。
娘に自由に生きることを願った母も、もしかしたら、何か強い感情に囚われていたのかもしれない。今となっては、母の本意を知ることはできないが、こんな苦痛に満ちた思いから解放されたのだとしたら、早い死も救いだったのかもと思えた。
「あなたが幸せになりたかったのなら、私なんかに構わず自らそう動くべきだったのよ。勇一郎様と共に家を守り、友人との縁を大事にし、周りにいてくれる人に感謝するべきだったの。そうすれば、あなたの幸せに力を貸してくれる人も現れたかもしれないのに」
「ぅる……ざぃ……ぃ」
「見なさい、茜。今あなたに向けられている目が、今まであなたがやってきたことの答えよ」
「――っ!」
軽蔑、嘲笑、憐憫、憤懣、憎悪――ありとあらゆる茜を責め立てる目が、彼女に注がれていた。
「ぅ……ぅうぁ、やめ……いやぁ……っ見な、でよ……っ」
茜はゆるゆると頭を振り、視線から逃げるようにずるずると後退っていたが、打ち掛けの長い裾を踏んでしまい、どだんっ、と大きな音を立てて転げた。
しんとした会場の中で、床に膝をついた四人のぼそぼそとした後悔の声だけが、音だった。
「さてと、決着はついたな。それじゃ、俺らも片付けだ」
席から立ち上がった桑田が、「おい」と部下に顎先で合図を出すと、部下達は即座に茜を拘束した。
「や、やだっ、何、なんなのよ……!?」
「お家に帰るんだよ」
「ぃ、いやよ……あんなドブ底みたいな場所!」
「つれないこと言うなよー、同類だろう」
「違う……っ! あたしは――」
「綺麗なべべ着たって、お前の中身はドブ臭ーいドブネズミのままなんだよ。残念」
茫然自失となった茜は、部下に後ろ手に掴まれ、されるがまま引っ立てられる。
桑田は戸惑いを滲ませた茜の顔を、頬を潰すように強引に掴むと、自らの顔を近づけた。
「情報を外に漏らすってのは、花街最大の禁忌だ。それを、漏らすどころか大事な大事な金づる――いや、お客様の脅迫に使うなんてなあ……とても見逃せたもんじゃねえよ」
二人の顔の距離が近すぎて、千代のいる場所からは表情は窺えなかったが、茜が「ヒッ」と喉を鳴らした後、彼女の膝が抜けた。
しかし、取り囲んでいた部下に素早く支えられ、床に崩れ落ちはしなかった。
桑田を先頭に、ぞろぞろと部下達が会場を出て行く。
茜も引きずられるようにして、会場か連れ出されていた。
「それじゃあ、めでたい席に邪魔したな。今後とも花街をご贔屓に」
もはや、誰もここがめでたい席だったことなど覚えていないというに、あえてそう言う桑田はやはり皮肉がきいていた。
【終章:これが私の選ぶ道】
二井家と清須川家の祝言から、早ひと月が経った。
近頃は、女中の三人と千代そして善路の五人で、一緒に昼食をとっている。
一般的に、女中と家の者が一緒に食卓を囲むことはないのだが、善路の体調も良くなり、洋館まで来る機会も増えたため、千代が提案したのだ。
千代は元より、ひとりで食堂で食べるのも味気ないと、女中が食事をする場所――台所脇に置かれた食卓で一緒に食べていた。しかし、さすがに善路も女中の食卓で食事させることはできかねたため、それなら全員食堂でという流れになったのだ。
以前、善路はミツヨしか近づけないという話だったが、今は他の二人とも普通に言葉を交わしている。
チラッと善路が言っていたが、やはり病気になっていた時は、少し心が荒んでいたらしい。快方に向かうにつれ、洋館に出て来る時間も増えたし会話も増えた。
「はじめて、食堂のテーブルが大きくて良かったと思いました」
長方形の八人掛けのテーブルは、使っても端の二席を千代と雪人だけで使うことしかなく、常々半分以上もったいないなと思っていた。
それが今は昼食時には五席が埋まり、夕食時には三もしくは六席が埋まる。
清須川の女中は常に別だったし、何より千代は離れでひとりで食べていたため、大人数で食べるのが楽しかった。
「大旦那様、一緒に食べさせていただいてるあたしが言うのもなんですけど、よく許可なさいましたね」
ナリさんの口から、たくあんを噛むポリポリとした良い音が聞こえる。
「千代さんだからなあ。駄目といったところで諦める娘ではないし。きっと、その内勝手に食堂に配膳されるようになっていただろうな」
「ああ……」と女中三人が声を揃えていた。


