雪人は茜と指が絡んだ左手を、忌々しいものでも払うかのように、パッパッと振っていた。
あれだけ綺麗な妹に迫られているのに、本当に彼はまったく興味がないようだ。
実はそれが嬉しいと言ったら、性格の悪い女だと思われるだろうか。
「千代、上書きしてくれ」
当然のごとく差し出された左手を見て、千代は「はいっ」と笑いながら彼の手に指を絡めた。
きっと彼なら、なんと言っても受け入れてくれるのだろう。だから、このちょっとだけ醜い感情は、自分の中に留めておくことにする。
彼には可愛い妻と思われていたいから。
◆
三月中旬――薄紅色の桜の花が霞のように咲き誇る中、茜は無事に女学校を卒業した。
「清須川さんが一番のりね。二井様と幸せになってね」
「披露宴は東京の帝国ホテルなんでしょう? 羨ましいわあ~」
「そうですね、一週間後に」
羨ましいの大合唱に、茜は心が満たされていくのを感じていた。
「二井子爵も父もせっかくだから豪華にしなさいって……私はあまり大きいのは恥ずかしいからって言ったんですけど、勇一郎さまも是非にと……」
桜の木の下で、別れの時間まで皆が最後の歓談を楽しんでいた。
この先はどうするのだとか、東京に戻るのかだとか、将来の話にも花を咲かせる。その中で、卒業後時を置かずして祝言を挙げる茜に、話題が向くのは当然だった。
皆が「はぁ~」と羨望に満ちたため息を漏らす。
「愛されてるわよねえ、あ~あたしもそんな殿方に出会いたいわ」
「それに清須川製糸のご令嬢ですもの。やっぱり財力が違うのよ」
「やだっ、長戸さんったらお下品ね」
「この間の婚約舞踏会で二井様を見たけど、格好いい方だったわよね。羨ましいわ」
茜は「いえ、そんな」と口では謙遜しつつ、内心では『当然でしょ』と嘆息していた。
もし、顔が不細工であれば、わざわざ姉から奪ったりしない。
その場合はどうしていただろうか。
千代と旦那は清須川家に住むだろうから、千代を女中代わりにして、旦那はちょっと誑かして、好きな時に金を引っ張り出せる財布にしていたと思う。それで、たっぷりと金を吸い尽くしたら、どこぞの華族令息か実業家を捕まえて出て行っていたのだろう。今思うと、それも悪くなかったかもしれない。
自分のこの美貌と男あしらいの上手さがあれば、簡単にできるだろうし。
「ねえ、清須川さ~ん、二井様のご友人を紹介してちょうだいな」
ただ、やはり勇一郎を千代に渡すのは癪だったから、これで良かったのだ。
「あっ、紹介って言ったら、わたくしはあの方も紹介してほしいわ! 清須川さんのお姉さんの……」
そこまで言って、皆が「ああっ!」と喜声を揃えた。
「旦那様よね。すっごく格好よかったわよね!」
「そうそう! 背がスラッと高くてお顔も凜々しくて、おじさま達と話してる姿見まして!? 笑顔が素敵で」
ほう、と皆が夢見心地の熱い吐息を漏らす。
「それに、お姉さんも優しそうな方だったわね。以前、お姉さんのほうが嫁ぐって聞いてたからどんな方かと思ったら、あんな美男子が相手なら、長女だろうと嫁ぐわよねえー」
「ねー」と唱和が入る。
「で、でもお義兄さまは、その……平民で、それに今、会社が上手くいってないようなんです」
「あれだけ格好いいんだったらなんだって良いわよ」
「お金がないなら、わたくし達は実家が援助しますし」
「いいなあ、清須川さんは。清須川製糸の令嬢で、子爵家の次男坊を婿にもらって、お金にも伝手にも困らない上に、お姉さんは優しそうで、お義兄さんまで格好いいし」
「いいなあ」と口を揃えて言われるのを、茜は「そんな」と笑顔で返していた。
爪が食い込むほど拳を握った手は、袖の中に隠して。
夕食の席で父親に女学校卒業を祝われたが、茜は空返事で適当に相槌を打って、食事を終えるとさっさと自室へと戻った。
「『いいなあ』……ですって。華族のお嬢さまが、あたしのこと羨ましいんだって――ッアハハハハ、笑っちゃうわね」
一番上の人間が、一番下の人間を羨ましがるとは、おかしなこともあったものだ。
清須川茜は士族家の娘で、清須川製糸という横濱では名が通った会社の令嬢である。
美貌も兼ね備えており、他者から見たら非の打ち所のない人間だ。
それが、清須川家に来てから八年かけて作り上げた『清須川茜』という人間だった。上流階級とは言えないが、羨ましがられるのも当然と言えるものだった。
しかし、ひと皮むけば、清須川茜の中身には泥が詰まっている。
花街で娼妓の子として生まれ、白粉と鬢付け油と紅の香りの中で育った汚い泥人形。綺麗な皮を着て美しく整えたとて、中身はただの泥でしかない。
豪華な屋敷で上澄みと呼ばれる両親の間に生まれ、何不自由なく育ち、この先も大した障害など経験しないような者達が、泥に嫉妬しているのはなんとも滑稽だ。
母は、綺麗な人だった。
彼女は自分達がいた扇楼の一番の稼ぎ頭だった。
美しく、男に甘えるのが上手で、かといって媚びを売るわけでもなく、世間を斜に構えてみているわけでもない素直で愛嬌がある娼妓で、常に客がついていた。普通ならば、子供を産んだ娼妓など売れやしない。だから、皆妊娠しないように気を付けるものだ。
しかし、後に店の姉に聞いた話だが、母は妊娠した時、自分の客全員に「あなたの子だ」と言っていたらしい。それを聞いた時、随分と逞しい根性をしているなと思ったものだ。
そうして、自分が生まれた。
外の世界に出されるか、花街で育てるにしても、客の目に触れぬように店の奥でこっそりと育てられるのが普通だというのに、母は客を「父」だと言って、堂々と自分を座敷に連れて回った。おかげで色々と知ることができたし、そこで愛嬌の作り方も化粧も覚えた。
当時の自分は、姉がたくさんいるのなら父がたくさんいても不思議じゃない、くらいにしか思っていなかった。
あれだけ綺麗な妹に迫られているのに、本当に彼はまったく興味がないようだ。
実はそれが嬉しいと言ったら、性格の悪い女だと思われるだろうか。
「千代、上書きしてくれ」
当然のごとく差し出された左手を見て、千代は「はいっ」と笑いながら彼の手に指を絡めた。
きっと彼なら、なんと言っても受け入れてくれるのだろう。だから、このちょっとだけ醜い感情は、自分の中に留めておくことにする。
彼には可愛い妻と思われていたいから。
◆
三月中旬――薄紅色の桜の花が霞のように咲き誇る中、茜は無事に女学校を卒業した。
「清須川さんが一番のりね。二井様と幸せになってね」
「披露宴は東京の帝国ホテルなんでしょう? 羨ましいわあ~」
「そうですね、一週間後に」
羨ましいの大合唱に、茜は心が満たされていくのを感じていた。
「二井子爵も父もせっかくだから豪華にしなさいって……私はあまり大きいのは恥ずかしいからって言ったんですけど、勇一郎さまも是非にと……」
桜の木の下で、別れの時間まで皆が最後の歓談を楽しんでいた。
この先はどうするのだとか、東京に戻るのかだとか、将来の話にも花を咲かせる。その中で、卒業後時を置かずして祝言を挙げる茜に、話題が向くのは当然だった。
皆が「はぁ~」と羨望に満ちたため息を漏らす。
「愛されてるわよねえ、あ~あたしもそんな殿方に出会いたいわ」
「それに清須川製糸のご令嬢ですもの。やっぱり財力が違うのよ」
「やだっ、長戸さんったらお下品ね」
「この間の婚約舞踏会で二井様を見たけど、格好いい方だったわよね。羨ましいわ」
茜は「いえ、そんな」と口では謙遜しつつ、内心では『当然でしょ』と嘆息していた。
もし、顔が不細工であれば、わざわざ姉から奪ったりしない。
その場合はどうしていただろうか。
千代と旦那は清須川家に住むだろうから、千代を女中代わりにして、旦那はちょっと誑かして、好きな時に金を引っ張り出せる財布にしていたと思う。それで、たっぷりと金を吸い尽くしたら、どこぞの華族令息か実業家を捕まえて出て行っていたのだろう。今思うと、それも悪くなかったかもしれない。
自分のこの美貌と男あしらいの上手さがあれば、簡単にできるだろうし。
「ねえ、清須川さ~ん、二井様のご友人を紹介してちょうだいな」
ただ、やはり勇一郎を千代に渡すのは癪だったから、これで良かったのだ。
「あっ、紹介って言ったら、わたくしはあの方も紹介してほしいわ! 清須川さんのお姉さんの……」
そこまで言って、皆が「ああっ!」と喜声を揃えた。
「旦那様よね。すっごく格好よかったわよね!」
「そうそう! 背がスラッと高くてお顔も凜々しくて、おじさま達と話してる姿見まして!? 笑顔が素敵で」
ほう、と皆が夢見心地の熱い吐息を漏らす。
「それに、お姉さんも優しそうな方だったわね。以前、お姉さんのほうが嫁ぐって聞いてたからどんな方かと思ったら、あんな美男子が相手なら、長女だろうと嫁ぐわよねえー」
「ねー」と唱和が入る。
「で、でもお義兄さまは、その……平民で、それに今、会社が上手くいってないようなんです」
「あれだけ格好いいんだったらなんだって良いわよ」
「お金がないなら、わたくし達は実家が援助しますし」
「いいなあ、清須川さんは。清須川製糸の令嬢で、子爵家の次男坊を婿にもらって、お金にも伝手にも困らない上に、お姉さんは優しそうで、お義兄さんまで格好いいし」
「いいなあ」と口を揃えて言われるのを、茜は「そんな」と笑顔で返していた。
爪が食い込むほど拳を握った手は、袖の中に隠して。
夕食の席で父親に女学校卒業を祝われたが、茜は空返事で適当に相槌を打って、食事を終えるとさっさと自室へと戻った。
「『いいなあ』……ですって。華族のお嬢さまが、あたしのこと羨ましいんだって――ッアハハハハ、笑っちゃうわね」
一番上の人間が、一番下の人間を羨ましがるとは、おかしなこともあったものだ。
清須川茜は士族家の娘で、清須川製糸という横濱では名が通った会社の令嬢である。
美貌も兼ね備えており、他者から見たら非の打ち所のない人間だ。
それが、清須川家に来てから八年かけて作り上げた『清須川茜』という人間だった。上流階級とは言えないが、羨ましがられるのも当然と言えるものだった。
しかし、ひと皮むけば、清須川茜の中身には泥が詰まっている。
花街で娼妓の子として生まれ、白粉と鬢付け油と紅の香りの中で育った汚い泥人形。綺麗な皮を着て美しく整えたとて、中身はただの泥でしかない。
豪華な屋敷で上澄みと呼ばれる両親の間に生まれ、何不自由なく育ち、この先も大した障害など経験しないような者達が、泥に嫉妬しているのはなんとも滑稽だ。
母は、綺麗な人だった。
彼女は自分達がいた扇楼の一番の稼ぎ頭だった。
美しく、男に甘えるのが上手で、かといって媚びを売るわけでもなく、世間を斜に構えてみているわけでもない素直で愛嬌がある娼妓で、常に客がついていた。普通ならば、子供を産んだ娼妓など売れやしない。だから、皆妊娠しないように気を付けるものだ。
しかし、後に店の姉に聞いた話だが、母は妊娠した時、自分の客全員に「あなたの子だ」と言っていたらしい。それを聞いた時、随分と逞しい根性をしているなと思ったものだ。
そうして、自分が生まれた。
外の世界に出されるか、花街で育てるにしても、客の目に触れぬように店の奥でこっそりと育てられるのが普通だというのに、母は客を「父」だと言って、堂々と自分を座敷に連れて回った。おかげで色々と知ることができたし、そこで愛嬌の作り方も化粧も覚えた。
当時の自分は、姉がたくさんいるのなら父がたくさんいても不思議じゃない、くらいにしか思っていなかった。


