一乗家のかわいい花嫁

 男の眉が蛇がうねるように、大きく波打った。声には険が滲んでいる。
「彼女には随分とこちらも煮え湯を飲まされたものですから。処遇はそちらにお任せします。しかし、いつ彼女を訪ねるかだけは、こちらで決めさせてもらってもよろしいですか」
 よく、これほどに恐ろしい男と交渉などできるなと、千代は雪人の一歩も怯まない堂々とした姿に、改めて凄い人なのだと胸の内で感嘆した。
「坊ちゃん、優しくしてる内に言うこと聞いときなよ。こっちも体面ってものがあるからさ、あんまり生言ってると――」
「華族が裏で動いています」
 ピタリと男の言葉が止まった。
「この件は、あなた方が思うよりも随分と根が広くて深い。彼らはこれを機に虫をあぶり出そうと考えているようで……できるだけ、華族(彼ら)の面子は潰したくない」
 男はふっと眉間の和らげると、腕をついて身体を後ろへと傾け、宙へ息を吐いていた
「官警にゃ逆らえても、華族様には逆らえねえな」
「逆らった日にゃ、花街には閑古鳥が鳴くねえ」と、女将も男の肩を軽く叩いて息を吐く。
「わかった、華族が動いてるんなら合わせるさ。それで、いつ頃だ?」
「それは――」と雪人が伝えた内容に、女将も男もなるほどと頷いた。
 
        ◆

 扇楼を出てしばらく歩いたところで、千代は足を止めて関外花街を振り返った。
 訪ねた時よりも人の気配が増えた。それでも、やはり目に見えない異質さは肌にドロリとまとわりついてくるようだった。壁などえ遮られているわけでもないのに、不思議なものだ。きっと夜になれば、軒先の提灯が煌々と輝き、活気もわき、淫靡な雰囲気が満ちるのだろう。
「もう……後戻りはできませんね」
 華族だけでなく博徒も動きだした。もう、途中でやめることはできない。
 その日を迎えたら、茜だけではない、清須川家も二井家も茜と関わった人間すべての運命が一気に動く。
「雪人さん」
 一緒に足を止めてくれていた雪人を見上げる。
「どうした、千代」
 優しい眼差しを向けてくれる彼に、千代は笑顔を尋ねた。
「雪人さんも、こういった場所にはよく来るんですか」
「゛えっ!?」
 雪人の顔が引きつった。
 博徒の男を前にした時よりも落ち着きがない。視線が泳いでいる。
 千代の顔は笑みを湛えたままだが、目の奥からスーッと温度が消えていく。
「いや……よ、よくというわけじゃ……商談に使ったり、相手の贔屓先がこういう場所だったり色々と、その……」
「そうですか。それは、きっととても楽しい夜なんでしょうね。皆さんお綺麗でしょうし。女将さんも綺麗でしたよね。お化粧もとてもお上手で、女の私でもドキッとしてしまう時がありましたもの」
 止めていた足を動かし、千代はスタスタと先を歩く。
 慌てた雪人も早足で千代を追いかける。
「ま、待ってくれ、千代! 俺は自分から行ったことは一度もないから――って、どうしてこっちを向いてくれないんだ」
「いえ、どうぞお気になさらず」
「気にするなって……好きな人のことは気になるものだろう」
 千代は雪人がいるほうとは逆向きに顔をひねっていた。雪人が覗き込もうと反対側に移動しても、ぷいっとまた逆を向く。
「千代、こっちを向いてごらん」
「……いやです」
 右に回り込まれれば左を向き、左に来られれば右を向き、正面に立たれれば背を向ける千代に、途中から雪人は何かを察したようで、ニヤつきそうになる口元を必死に引き締めて、千代の顔を追いかけ回していた。
「なあ、千代……やきもちを妬いてくれたのか?」
 背を向けた千代の肩に背後から手を置き、耳元で尋ねる雪人。
 その声にはうっすらとだが悦が透けている。
「……違います」
「違わないだろ」
 むっとした千代の声に、雪人がクスッと笑みを漏らした。
 次の瞬間、肩に置かれていた雪人の手はスルリと鎖骨を滑り、千代を背後から抱きすくめる。
「俺がいつも帰りたいって思う場所は、千代の隣だけだよ」
「雪――んむっ!」
 膨らんでいた頬を掴まれ、強引に振り向かされた千代の唇は、抗議の声を上げる間もなく雪人にふさがれる。
 いつもの深い口づけと違い、チュッと軽く小鳥が啄むような短い口づけだったが、千代の顔は真っ赤だ。怒っていいのか、喜んでいいのか、恥ずかしがるべきなのか収拾がつかないといった表情だ。
「~~っこ、このような人々の往来の場で……雪人さんのスケベ!」
「ははっ! 最初の頃は随分とおどおどしていたのに今やスケベとは……うん、悪くない」
「雪人さんの――っ」
 馬鹿! と言おうとした声は、第三者の怪訝そうな声によって喉の奥に引っ込んだ。
「え、お姉さま?」
 声のした方へと顔を向けると、青年と腕を組んだ美しい娘が佇んでいた。
「茜……と、勇一郎様……」
 
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 なんという時に会ってしまうのだろうか。
 一瞬、花街を訪ねていたのがバレないかと焦ったが、いつの間にか花街から随分と離れていたようで、千代は密かに安堵の息を吐く。
 婚約発表の舞踏会の日以来だから、実に二ヶ月ぶりに会うのだが、常に頭にあってつい先ほどまで彼女のことで動いていた身としては、あまり久しぶりという感じはしない。
「お姉さま、こんにちは」と、茜は先日のことなど何もないように振る舞ってきた。
 本当は彼女と話したくはないのだが、ここで無視するというのも大人げない気がして、千代は当たり障りなくかえす。
「こんにちは。茜と勇一郎様はお出掛けかしら」
「ええ。見て、お姉さま。これ、勇一郎さまが買ってくださったのよ。とってもお洒落でしょう?」
 茜は腕を横に広げて、大判のチューリップが描かれた袖を見せつけるように振った。昔から彼女はこういった派手な着物を好んだ。それが、もしかしたら派手な世界で育ったからかと思えば、妙に腑に落ちるものがあった。
「そうね、よく似合っているわ」
 世間では銘仙という着物が流行っている。