高島屋では、雪人が千代に着物や洋服を当てては「似合う」と言って、次々に買っていくものだから、店員も千代も苦笑しっぱなしだった。
◆
横濱に帰り着いて、真っ先に雪人が向かった先は屋敷ではなかった。
駅に迎えに来ていた実富に千代を任せ、雪人は帰り着いたその足で会社へと向かった。
一乗汽船の社員達は皆、雪人が東京へ行っている間、ずっと不安な心持ちで待っていたのだ。早く融資問題が解決したことを知らせなければならなかった。
案の定、不安げな顔で雪人を迎えた社員達は、近衛侯爵から融資を取り付けられたことを知ると、皆一様に安堵の表情を浮かべて口々に良かったと言っていた。
そして、雪人が会社にやって来た理由はもうひとつあった。
瀬古忠臣が社長室にやって来ると、拙速に雪人は用件を口にした。
「臣、茜さんがいた花街の店を探してくれ」
「はぁ?」と忠臣は片眉を上げていたが、すべてを話せばすぐに「なるほど」と納得した。
「やっぱり、玄人女だったんすね。自分の嗅覚も捨てたもんじゃないっすわ」
どやっ、と忠臣は鼻を親指で弾いていた。
「美人局を見破る時くらいしか使い処がないな」
「ひっど! もっとありますよっ」
多分、と語尾に小さく付け足した忠臣に、雪人は顔をクシャッとして笑った。
「その女中頭の言うには、関外の花街だったのは間違いないと」
「関外花街だと、七十軒くらい店がありますね。茜さんが清須川家に来たのって何年前ですっけ」
「八年前だったかな」
「まあ、だったら残ってる娼妓もいるでしょうし、聞き回ったら見つかりそうですね。自分の花街遊びも、捨てたもんじゃないですね」
「悪いな、いつも」
「社長の私費で夜遊びできるんですから、こんなおいしい仕事はないですよ」
シシッ、と悪戯小僧のように酒を飲む素振りをして笑う忠臣に、雪人は肩を持ち上げて背後にあった執務机に腰掛けた。
「昔から、俺はお前に頼ってばかりだな」
丁稚のようなかたちで一乗家に引き取られたからか、忠臣はいつも雪人の傍にいた。
文字を知らなかった忠臣と一緒に本を読み、机を並べ、中学校にも一緒に通った。悪いことやる時は必ず一緒で、父親に叱られる時ももちろん一緒だった。
忠臣が自分のことをどう思っているのかは知らないが、自分は家族だと思っている。
千代が血よりも縁のほうが大切だと言っていたが、言葉の意味がよくわかる。
血なんか繋がっていなくとも、血よりも濃い関係になれるのだ。
「それが自分の役目ですから。一乗家が迎えてくれたあの日から、自分は絶対の忠誠を誓ってるんでね。でないと、きっと自分は今頃、ごろつきになっていたと思いますし」
「忠誠って……また、武士みたいなことを。時代遅れだぞ」
「良いじゃないですか、士族。やりたい放題できて」
どこの士族を皮肉っているのか丸わかりで、二人は顔を見合わせて冷嘲を浮かべる。
「さて、俺ももう一度正金銀行でも訪ねるか。頭取か副頭取かどっちかわからないが、素直に喋ってくれると楽なんだがなあ」
雪人はやれやれとばかりに腕を回した。
「あ、お前、まだ千代に会ってないだろ」
部屋を出て行く忠臣に、雪人は思い出したように声をかけた。
「あー……いえ、自分はいいっていうか」
「忠誠を誓った主人の妻君には会えないと?」
執務机から下りて、雪人は扉の前で止まっていた忠臣の肩に腕を乗せた。
忠臣は、顔を雪人とは反対側に向け、後頭部をガシガシと掻き乱している。
「やっぱりその……最初は疑っちゃってたわけですし、なんというか申し訳なくて、顔が見られないわけでして……」
そんなことだろうと思った。
「律儀な奴だ」と雪人は忠臣の頭をはたいた。「あだっ!」と忠臣が頭を押さえる。
「社長命令だ。全部片付いたら千代に会ってもらうぞ。お前が会わないと、家族の顔合わせがいつまで経っても終わらないんだよ」
頭を押さえながら「家族……」と間が抜けた顔で呟く忠臣を、雪人は「ほら、行ってこい」と部屋の外に蹴り出したのだった。
【第八章:決別】
1
東京から帰ってきて、早ひと月。
その間にも東郷屋伯爵やレオンとの手紙のやり取りは続き、いつの間にか二月も終わりかけの、梅がほころぶ季節になっていた。
千代は、はじめて踏み入れた花街に、興味半分恐ろしさ半分といった心持ちだった。
「茜ねえ……」と煙草をぷかりと吹かし、妓楼の女将は灰皿に煙草を押し付けた。
ツンと鼻をつくすえた臭いに、千代は少しだけ顔を俯ける。
雪人の秘書である忠臣が見つけた、茜がいたと思われる店――『扇楼』。
まだ太陽は中天で燦々と輝いている時間なのに、花街は驚くほどに人の気配が少なかった。商店街などには老若男女があふれかえっているのに、花街と呼ばれる区域に入ってからは、各店の女将だろう壮年の女か、買い出し中らしき若い男をチラホラとしか見なかった。
それだけで、ここが千代が普段生きている世界とは違う世界だということが、嫌というほど理解できた。
「ああ、いたよ。十年……いやもう少し前だったかな。朱蝶って娼妓が、客との間にこさえて産んだ子さ」
やはり、本当に茜は娼妓の子だったのだ。そして、源氏名だろうが母親の名前も判明した。朱蝶――それが、茜の本当の母親の名前だ。
「朱蝶はその後、どっかの男と足抜けしちまってね……それで、茜をどうしようかって時に、朱蝶の客だった男が自分の子だって買っていったんだよ」
おそらく、その朱蝶の客だったという男は父のことだろう。しかし、女将の言葉に違和感を覚えた。
「買って……ですか?」
「母親が足抜けして身請け金が入らなかったんだ。娘に背負ってもらうのが常だろ。だから、男には朱蝶と茜の分の身請け金を払ってもらったよ。元より娼妓にするために育ててたんだから、妥当だろう」
使われた金が会社のものだというのは、すぐにわかった。
◆
横濱に帰り着いて、真っ先に雪人が向かった先は屋敷ではなかった。
駅に迎えに来ていた実富に千代を任せ、雪人は帰り着いたその足で会社へと向かった。
一乗汽船の社員達は皆、雪人が東京へ行っている間、ずっと不安な心持ちで待っていたのだ。早く融資問題が解決したことを知らせなければならなかった。
案の定、不安げな顔で雪人を迎えた社員達は、近衛侯爵から融資を取り付けられたことを知ると、皆一様に安堵の表情を浮かべて口々に良かったと言っていた。
そして、雪人が会社にやって来た理由はもうひとつあった。
瀬古忠臣が社長室にやって来ると、拙速に雪人は用件を口にした。
「臣、茜さんがいた花街の店を探してくれ」
「はぁ?」と忠臣は片眉を上げていたが、すべてを話せばすぐに「なるほど」と納得した。
「やっぱり、玄人女だったんすね。自分の嗅覚も捨てたもんじゃないっすわ」
どやっ、と忠臣は鼻を親指で弾いていた。
「美人局を見破る時くらいしか使い処がないな」
「ひっど! もっとありますよっ」
多分、と語尾に小さく付け足した忠臣に、雪人は顔をクシャッとして笑った。
「その女中頭の言うには、関外の花街だったのは間違いないと」
「関外花街だと、七十軒くらい店がありますね。茜さんが清須川家に来たのって何年前ですっけ」
「八年前だったかな」
「まあ、だったら残ってる娼妓もいるでしょうし、聞き回ったら見つかりそうですね。自分の花街遊びも、捨てたもんじゃないですね」
「悪いな、いつも」
「社長の私費で夜遊びできるんですから、こんなおいしい仕事はないですよ」
シシッ、と悪戯小僧のように酒を飲む素振りをして笑う忠臣に、雪人は肩を持ち上げて背後にあった執務机に腰掛けた。
「昔から、俺はお前に頼ってばかりだな」
丁稚のようなかたちで一乗家に引き取られたからか、忠臣はいつも雪人の傍にいた。
文字を知らなかった忠臣と一緒に本を読み、机を並べ、中学校にも一緒に通った。悪いことやる時は必ず一緒で、父親に叱られる時ももちろん一緒だった。
忠臣が自分のことをどう思っているのかは知らないが、自分は家族だと思っている。
千代が血よりも縁のほうが大切だと言っていたが、言葉の意味がよくわかる。
血なんか繋がっていなくとも、血よりも濃い関係になれるのだ。
「それが自分の役目ですから。一乗家が迎えてくれたあの日から、自分は絶対の忠誠を誓ってるんでね。でないと、きっと自分は今頃、ごろつきになっていたと思いますし」
「忠誠って……また、武士みたいなことを。時代遅れだぞ」
「良いじゃないですか、士族。やりたい放題できて」
どこの士族を皮肉っているのか丸わかりで、二人は顔を見合わせて冷嘲を浮かべる。
「さて、俺ももう一度正金銀行でも訪ねるか。頭取か副頭取かどっちかわからないが、素直に喋ってくれると楽なんだがなあ」
雪人はやれやれとばかりに腕を回した。
「あ、お前、まだ千代に会ってないだろ」
部屋を出て行く忠臣に、雪人は思い出したように声をかけた。
「あー……いえ、自分はいいっていうか」
「忠誠を誓った主人の妻君には会えないと?」
執務机から下りて、雪人は扉の前で止まっていた忠臣の肩に腕を乗せた。
忠臣は、顔を雪人とは反対側に向け、後頭部をガシガシと掻き乱している。
「やっぱりその……最初は疑っちゃってたわけですし、なんというか申し訳なくて、顔が見られないわけでして……」
そんなことだろうと思った。
「律儀な奴だ」と雪人は忠臣の頭をはたいた。「あだっ!」と忠臣が頭を押さえる。
「社長命令だ。全部片付いたら千代に会ってもらうぞ。お前が会わないと、家族の顔合わせがいつまで経っても終わらないんだよ」
頭を押さえながら「家族……」と間が抜けた顔で呟く忠臣を、雪人は「ほら、行ってこい」と部屋の外に蹴り出したのだった。
【第八章:決別】
1
東京から帰ってきて、早ひと月。
その間にも東郷屋伯爵やレオンとの手紙のやり取りは続き、いつの間にか二月も終わりかけの、梅がほころぶ季節になっていた。
千代は、はじめて踏み入れた花街に、興味半分恐ろしさ半分といった心持ちだった。
「茜ねえ……」と煙草をぷかりと吹かし、妓楼の女将は灰皿に煙草を押し付けた。
ツンと鼻をつくすえた臭いに、千代は少しだけ顔を俯ける。
雪人の秘書である忠臣が見つけた、茜がいたと思われる店――『扇楼』。
まだ太陽は中天で燦々と輝いている時間なのに、花街は驚くほどに人の気配が少なかった。商店街などには老若男女があふれかえっているのに、花街と呼ばれる区域に入ってからは、各店の女将だろう壮年の女か、買い出し中らしき若い男をチラホラとしか見なかった。
それだけで、ここが千代が普段生きている世界とは違う世界だということが、嫌というほど理解できた。
「ああ、いたよ。十年……いやもう少し前だったかな。朱蝶って娼妓が、客との間にこさえて産んだ子さ」
やはり、本当に茜は娼妓の子だったのだ。そして、源氏名だろうが母親の名前も判明した。朱蝶――それが、茜の本当の母親の名前だ。
「朱蝶はその後、どっかの男と足抜けしちまってね……それで、茜をどうしようかって時に、朱蝶の客だった男が自分の子だって買っていったんだよ」
おそらく、その朱蝶の客だったという男は父のことだろう。しかし、女将の言葉に違和感を覚えた。
「買って……ですか?」
「母親が足抜けして身請け金が入らなかったんだ。娘に背負ってもらうのが常だろ。だから、男には朱蝶と茜の分の身請け金を払ってもらったよ。元より娼妓にするために育ててたんだから、妥当だろう」
使われた金が会社のものだというのは、すぐにわかった。


