「しかし、明らかに一乗汽船への融資を止めたがっている者がいるな……一乗君、事業計画書を。持ってきているんだろう?」
雪人は「もちろんです」と、近衛侯爵の伸ばした手に持ってきた書類束を渡していた。
しばらく、紙がめくれる音だけが応接室に響く。
そうして、次に近衛侯爵が書類から顔を上げた時、彼は『意味がわらない』とばかりに眉を上げて首を横に振った。
「銀行が融資を取り消した理由がわからんな。多少額は大きいが、既に海運業であげている利益と新会社が望める契約数を勘案すれば、むしろ優良案件だ。それにしても、よく一年でここまで会社を大きく……」
近衛侯爵は突然「ん?」と言葉を切った。
「一乗……? 一乗君、先ほど東京にいた頃と言ったな。東京にある一善通商の前代表が、確か同じ姓だったと記憶しているが、関係はあるのか?」
「一善通商は父が立ち上げた会社です。今は叔父が代表についております」
「なぜ一善通商の名を出さない! あの会社の名を出せば、融資者などもっと簡単に集められただろうに。計画書にすら載っていないぞ」
大きい会社だなと思ったが、やはり近衛侯爵にここまで言わせる程に、一善通商は影響力の強い会社のようだ。田舎者と下に見てきた相手が、上級華族にすら認められた者と知ったら、父はどんな顔をするだろうか。卒倒しそうだ。
雪人は膝の間で両手の指を絡めていた。絡んだ指が、忙しなく手の甲を引っ掻いている。視線も近衛侯爵へと向いていたのが、今は手指に落とされている。
「その……しょうもない見栄だとは重々承知してはいるのですが……父の力を借りずに、自分だけの力でやりたいと思いまして……ゆくゆくは一善通商を超えたいと……」
次の瞬間、近衛侯爵がパンッと手を叩いた。
その音は祭り花火のように澄んでいて、濁りがなく、晴れやかな音に聞こえた。事実、手を打った近衛侯爵の表情は、晴れやかなものだった。
「東郷屋伯爵、聞いたかね! この若者は実に良いな! 継いだものに胡坐をかかず、さらに超えようと邁進するとは、息子の鏡じゃないか!」
「そうでしょうとも。ここの夫婦は揃って私の贔屓ですから」
「珍しく骨もあるし歯ごたえもある若者だ! そこらの華族のフニャチンお坊ちゃんとは違うぞ。嗚呼っ、こういった若者がどうして華族には出てこんのだ、実に口惜しい!」
(フ、フニャ……)
なんとなく東郷屋伯爵と親しい理由がわかった。正反対だと思ったが、よく似ている。
「気に入ったよ、一乗君。その青臭さも含めて」
すっくと立ち上がった近衛侯爵は、右手を雪人に差し出した。
慌てて雪人も立ち上がり、両手で差し出された近衛侯爵の手を握った。
「融資は私に任せなさい。大丈夫、誰が口を挟もうと、私は口に出したことは守る男だ」
「あ……ありがとうございますっ、近衛侯爵!」
「あと、時々でいいから私の建築談義に付き合ってくれ。息子はまったく興味をもたなくてね」
「光栄です」
入室した時の様子からは想像もできないほど温かな笑顔を浮かべた近衛侯爵と、雪人は固い握手をしっかりと交わしていた。
千代も立ち上がって近衛侯爵に礼を述べ、そして、紹介してくれたレオンと東郷屋伯爵にも、何度も頭を下げた。
彼らは我が事のように、良かったと頷いてくれた。
◆
雪人と千代、そしてレオンが近衛侯爵家を去った後、応接室では「少し話してから帰る」と言って残った東郷屋伯爵が、近衛侯爵の向かい側に座り直していた。
手土産で千代達が持ってきたビスケットに、二人して手を伸ばす。「うまいな」と、しばらく近衛侯爵の手は止まらず、ぼそりと「一善通商に直接頼むか」などと呟いていた。
「一乗夫妻か。奥方がちらちらと旦那を心配そうに見ているのが、愛らしかったな」
「実に初々しくて、見ているこちらが幸せな気持ちになりますな」
「うちの妻は、私を見るよりも、最近は髪飾りを見る時間のほうが長いな。まるで初恋相手を見るようにウットリと宝飾箱を覗いておるわ」
「どこの家も同じようなものですよ。うちのはもっぱら猫ですね」
「猫なら仕方あるまい。お前の負けだ、公信」
「私は犬派なんですよ。負けるなら犬が良かったです」
千代達がいた時よりも、随分と打ち解けた雰囲気の二人だが、この距離感が二人にとって本来のものであった。
「それにしても、一乗君はいったい誰の恨みを買ったんだか。銀行にも華族にもそっぽを向かれるとは……ただ事ではないな」
「実はそれについて、侯爵の耳にも入れておきたいことがありまして」
「なるほど、それで残ったのか」
東郷屋伯爵は千代と茜の確執、そして茜が花街生まれで、おそらく花街で得た情報を使って色々な人を脅しているのだろうことを話した。
「姉妹喧嘩は本人達に任せるとして、つまり華族の中にも、茜という娘に脅されるような真似をした者がいるということだな」
近衛侯爵は額を押さえて、頭が痛いというように横に振った。
「皇室の藩(はん)屏(ぺい)である華族の顔に泥を塗りおって……」
華族は、皇室の近臣にして、国民の貴種として模範たるべき存在と定められている。
「私は、土井侯爵に少々お話を聞いてみたいと思います」
「ああ。もし奴が何か言うようであれば、私からだと言ってもらって構わん。私はあの男に関わりとうないんでな」
東郷屋伯爵は苦笑した。
同じ侯爵位であり――とはいえ血統の貴種は近衛侯爵のほうが高いが――、共に投資家としても有名な二人は、何かと名前を並べられることが多かった。
しかし、土井侯爵の投資は企業成長ではなく、投資家の利益を最優先とするものであり、常々近衛侯爵の理念からは外れていた。また、女遊びが汚いこともよく酒飲み話として上がっており、そんな土井侯爵と名前を並べられることを、近衛侯爵は常々遺憾に思っていたのだ。
「ちょうどいい。この機に華族の品位を落とそうとする家には仕置きをしてやろう。ついでに正金銀行もだな。国の発展を妨げる者は皆国賊ぞ」
雪人は「もちろんです」と、近衛侯爵の伸ばした手に持ってきた書類束を渡していた。
しばらく、紙がめくれる音だけが応接室に響く。
そうして、次に近衛侯爵が書類から顔を上げた時、彼は『意味がわらない』とばかりに眉を上げて首を横に振った。
「銀行が融資を取り消した理由がわからんな。多少額は大きいが、既に海運業であげている利益と新会社が望める契約数を勘案すれば、むしろ優良案件だ。それにしても、よく一年でここまで会社を大きく……」
近衛侯爵は突然「ん?」と言葉を切った。
「一乗……? 一乗君、先ほど東京にいた頃と言ったな。東京にある一善通商の前代表が、確か同じ姓だったと記憶しているが、関係はあるのか?」
「一善通商は父が立ち上げた会社です。今は叔父が代表についております」
「なぜ一善通商の名を出さない! あの会社の名を出せば、融資者などもっと簡単に集められただろうに。計画書にすら載っていないぞ」
大きい会社だなと思ったが、やはり近衛侯爵にここまで言わせる程に、一善通商は影響力の強い会社のようだ。田舎者と下に見てきた相手が、上級華族にすら認められた者と知ったら、父はどんな顔をするだろうか。卒倒しそうだ。
雪人は膝の間で両手の指を絡めていた。絡んだ指が、忙しなく手の甲を引っ掻いている。視線も近衛侯爵へと向いていたのが、今は手指に落とされている。
「その……しょうもない見栄だとは重々承知してはいるのですが……父の力を借りずに、自分だけの力でやりたいと思いまして……ゆくゆくは一善通商を超えたいと……」
次の瞬間、近衛侯爵がパンッと手を叩いた。
その音は祭り花火のように澄んでいて、濁りがなく、晴れやかな音に聞こえた。事実、手を打った近衛侯爵の表情は、晴れやかなものだった。
「東郷屋伯爵、聞いたかね! この若者は実に良いな! 継いだものに胡坐をかかず、さらに超えようと邁進するとは、息子の鏡じゃないか!」
「そうでしょうとも。ここの夫婦は揃って私の贔屓ですから」
「珍しく骨もあるし歯ごたえもある若者だ! そこらの華族のフニャチンお坊ちゃんとは違うぞ。嗚呼っ、こういった若者がどうして華族には出てこんのだ、実に口惜しい!」
(フ、フニャ……)
なんとなく東郷屋伯爵と親しい理由がわかった。正反対だと思ったが、よく似ている。
「気に入ったよ、一乗君。その青臭さも含めて」
すっくと立ち上がった近衛侯爵は、右手を雪人に差し出した。
慌てて雪人も立ち上がり、両手で差し出された近衛侯爵の手を握った。
「融資は私に任せなさい。大丈夫、誰が口を挟もうと、私は口に出したことは守る男だ」
「あ……ありがとうございますっ、近衛侯爵!」
「あと、時々でいいから私の建築談義に付き合ってくれ。息子はまったく興味をもたなくてね」
「光栄です」
入室した時の様子からは想像もできないほど温かな笑顔を浮かべた近衛侯爵と、雪人は固い握手をしっかりと交わしていた。
千代も立ち上がって近衛侯爵に礼を述べ、そして、紹介してくれたレオンと東郷屋伯爵にも、何度も頭を下げた。
彼らは我が事のように、良かったと頷いてくれた。
◆
雪人と千代、そしてレオンが近衛侯爵家を去った後、応接室では「少し話してから帰る」と言って残った東郷屋伯爵が、近衛侯爵の向かい側に座り直していた。
手土産で千代達が持ってきたビスケットに、二人して手を伸ばす。「うまいな」と、しばらく近衛侯爵の手は止まらず、ぼそりと「一善通商に直接頼むか」などと呟いていた。
「一乗夫妻か。奥方がちらちらと旦那を心配そうに見ているのが、愛らしかったな」
「実に初々しくて、見ているこちらが幸せな気持ちになりますな」
「うちの妻は、私を見るよりも、最近は髪飾りを見る時間のほうが長いな。まるで初恋相手を見るようにウットリと宝飾箱を覗いておるわ」
「どこの家も同じようなものですよ。うちのはもっぱら猫ですね」
「猫なら仕方あるまい。お前の負けだ、公信」
「私は犬派なんですよ。負けるなら犬が良かったです」
千代達がいた時よりも、随分と打ち解けた雰囲気の二人だが、この距離感が二人にとって本来のものであった。
「それにしても、一乗君はいったい誰の恨みを買ったんだか。銀行にも華族にもそっぽを向かれるとは……ただ事ではないな」
「実はそれについて、侯爵の耳にも入れておきたいことがありまして」
「なるほど、それで残ったのか」
東郷屋伯爵は千代と茜の確執、そして茜が花街生まれで、おそらく花街で得た情報を使って色々な人を脅しているのだろうことを話した。
「姉妹喧嘩は本人達に任せるとして、つまり華族の中にも、茜という娘に脅されるような真似をした者がいるということだな」
近衛侯爵は額を押さえて、頭が痛いというように横に振った。
「皇室の藩(はん)屏(ぺい)である華族の顔に泥を塗りおって……」
華族は、皇室の近臣にして、国民の貴種として模範たるべき存在と定められている。
「私は、土井侯爵に少々お話を聞いてみたいと思います」
「ああ。もし奴が何か言うようであれば、私からだと言ってもらって構わん。私はあの男に関わりとうないんでな」
東郷屋伯爵は苦笑した。
同じ侯爵位であり――とはいえ血統の貴種は近衛侯爵のほうが高いが――、共に投資家としても有名な二人は、何かと名前を並べられることが多かった。
しかし、土井侯爵の投資は企業成長ではなく、投資家の利益を最優先とするものであり、常々近衛侯爵の理念からは外れていた。また、女遊びが汚いこともよく酒飲み話として上がっており、そんな土井侯爵と名前を並べられることを、近衛侯爵は常々遺憾に思っていたのだ。
「ちょうどいい。この機に華族の品位を落とそうとする家には仕置きをしてやろう。ついでに正金銀行もだな。国の発展を妨げる者は皆国賊ぞ」


