一乗家のかわいい花嫁

「別に、私の様子を見に来ただけだ。安心しなさい、金も何もあの娘には渡していないから。あれは、もう清須川の娘ではなく痴れ者の娘だ」
(金……)
 もしかしたら、ことごとく融資を断られて実家に金の無心に来たのかもしれない。一乗家からもらった結納金は、白無垢を買った他にはまだ手をつけていなかったはずだ。それを返せとでも言ったのだろうか。
(冗談じゃないわ。あれは、あたしの為に使われるべきお金なんだから)
 姉とは違い、自分は華族の令息と結婚するのだ。うんと豪華にしなければならない。あんな、婚家でこぢんまりとした古臭い祝言など誰がやるものか。
「はぁ……平民に嫁がせたからか、以前よりも愚かになりおって……この間の舞踏会では、危うく清須川家に泥を塗られるところだった。とんだ娘だ」
 注いだ酒を忌々しそうにグッと一気に飲み干す父に、茜はコロッと声音を変えた。
「本当にぃ……お姉さまったらひどいです。いくら勇一郎さまに未練があったからって、何も婚約発表の場であんな下品な真似を……っ。私、勇一郎さまを探して部屋に入ったら、まさかお姉さまがあんな……ぅうっ」
 茜は、着物の袖を掴んで、目に押し当てた。目から拭うものなど出て来るはずもないのだが、これだけでも充分この父には通用する。
「可哀想に……あの子はお前に嫉妬していたんだろうさ」
 ほら。
「でも、元はといえば勇一郎さまの心を奪ってしまった私が悪いんです。だから私、本当は誰にも言うつもりはなくて……でも、ホールに戻った私が我慢できず泣いているのを、二井子爵様が気付いてくださって……っ」
 本当は、ホールで大げさに泣きわめいて、もっと大ごとにしてやりたかった。だが、誘惑されていたとするのが自分の婚約者であれば、やはりそこは躊躇われた。
 とはいっても、勇一郎の評判が下がることを懸念しているわけではない。そんな、女の誘惑を受けるような男と結婚した、と自分が思われるのが嫌なのだ。あの場には、女学校の友人達も来ていた。ああいった、生まれながらにすべて持っている女に憐れまれるのなどごめんだ。
「あぁ……こんなに花のように可憐で、華族の令息にも愛される心の美しい女性は、横濱中探してもお前くらいしかいないだろうな」
 父の顔を手の陰から見れば、眉を下げて憐れとばかりに目をすぼめている。
(……ばっかみたい)
 昔から思っていたが、この父は簡単に騙されてくれる。それこそ馬鹿みたいに。
「そうだ、お父さまぁ。新しい着物が欲しいんですけど……紺地に紅色のカノコユリ柄が綺麗で」
「ああ、大人っぽい柄でそれはいいな。お前ももうすぐ卒業だし、似合ったものを身につけないと。今度一緒に買いに行こう」
「お父さま、ありがとうございます! 嬉しいっ」
 両手を顔の近くまで持ってきてしなを作り、満面の笑みを返す茜に、父親は満更でもなさそうに大きく頷いていた。
 酒をあおる父の目が、茜の袖に留まる。袖には大きな紅白の菊が描かれている。
「本当に……お前には艶やかな花柄の着物がよく似合うからなあ。朱(しゅ)蝶(ちょう)――お前の母を思い出すよ」
 ヒクッと茜の口端が痙攣したのに、父親は気付かなかった。
「皆が朱蝶に夢中だった。弾けば三味線の音色に聞き惚れ、舞えば袖の揺蕩いに目を奪われ、話せば笑いがおこり、抱けば朝の別れがつらくなるようないい女だった。泣きぼくろが色っぽくてな、あの目に見つめられて落ちない男はいないとまで言われて」
「お父さ――」
「だが、私が手に入れた。華族の連中もどこぞの金持ちも、結局、最後に朱蝶が選んだのは私だったのだ! アッハハ愉快至極!」
 猪口からこぼれているのに、まるで祝い酒のようにドポドポと徳利から注ぎ続ける父に、茜は冷めた目を向け、静かに席を離れた。
 
 
 自室に戻った茜は、雑に帯を解き着物を脱ぎ、畳に叩きつけた。
「はぁっ、はぁっ……ックソが」
 薄紅色の襦袢姿になった茜は肩で息をしながら、悪態を吐いた。
 母に似ている、だと。
 最悪だ。最低だ。
 チラと横を向くと、布を下ろし忘れた鏡台に、襦袢姿の自分が映っていた。
 襦袢姿でも、そこらの女には負けないくらい自分は美しい。
 茜は鏡へと近付くと、映る自分の顔を眺めながら親指で左目の下を強く拭った。
 はげた化粧の下から出てきたのは、黒いほくろ。母も同じ位置にほくろがあった。
 大嫌いな者の顔に似ることで、最高の利益を享受できているとはなんとも皮肉なことだと、茜は自嘲した。
 八歳で清須川家に引き取られるまでの茜の生活は、決して良いとも普通とも言えなかった。とはいえ、特に暴力を受けていたわけでも、貧しい思いをさせられたわけではない。
 花街という、幼い子供には良くない環境だったというだけだ。
 しかし、そこで育ったおかげで、今はこのように自由に振る舞えているのだから、やはり顔と一緒で皮肉な話だ。
 子供の茜が起きるのは、決まって日が暮れだしてからだった。
 だから茜にとって空はずっと青色ではなく、自分の名前と同じ茜色のものだった。
 姉がたくさんいた。姉と言うには年が随分と離れていたが、母以外は全員姉だった。
 そこで茜は色々と学んだ。見た。聞いた。
 化粧の仕方も、声の抑揚の作り方も、表情の作り方も、目線の残し方も、肌の重ね方も、嬌声のあげ方も、男が何を求めているのかも、男の言うことのきかせ方も、どうしたら口の滑りを良くできるのかも――全部全部そこで学んだ。
 頭でではない、身体がもうすべてを覚えていた。
 加えて、脳に入っているのは『女の使い方』だけではない。色々と聞いた中には、母や姉達が客から聞いた話も含まれていた。そして、そういった話は大抵、公にできないような悪どいものばかりだった。なぜそんな話をわざわざ女にしに来るのだろうと疑問だったが、誰にも話せないからこそ花街の女に言いに来るのだろうな、と次第に理解していった。