『お母様は最期まで何も言わなかったわ。実は、ここに来る前にお父様にも茜の生まれのことを聞いたの。でも、やっぱり何も答えてくれなかったの。それどころか、とても激昂されて』
はぁ、とツルヱは『やはり』というように、額を押さえ薄く長いため息を吐いた。
『まあ、当然でしょうね。そこは旦那様が一番触れられたくない部分ですから。何せ清須川家は、ただの士族家よりも横濱ではそれなりに名のしれた家でしたので、世間体というものが求められます。娼妓との娘を本家に引き取るなど、外聞はよろしくなかったのです』
『茜が……娼妓の子』
千代と雪人は、互いに息をのんだ顔を見合わせていた。
娼妓とは、昔で言う遊女のことである。江戸時代にあった遊廓は、名を変え今でも横濱に花街として点在している。
茜が妾の子というのは、表立って口にはしないが皆気付いていたことだ。
身分違いの者――平民だとは思っていたが、しかし、平民でもまさか春を売る者だったとは。
『なので、わたくしは、妾として母親を囲うのも子を養育するのも問題はないが、せめて別宅にしてほしいと旦那様にお願い申し上げたのです。公然として娼妓の娘を家に入れるものではないと』
『もしかして、それを茜が知って?』
『はい。旦那様は茜様の言うことは、なんでもきかれていましたから』
自分の生い立ちを知っているツルヱが邪魔だったのかもしれない。
茜は、生い立ちについては隠している節があったし。
『お母様も知っていたの?』
『ええ。奥様は、旦那様が特定の娼妓の元に通われているのをご存知でした。一度、奥様に頼まれ、旦那様の後をつけたことがありました。そこで、幼い茜様を抱き締める旦那様を見たのです。奥様に報告したところ、奥様は仕方ないと諦められていましたが、それは奥様とは決して交わらぬ別世界のことだったからです』
ツルヱは一度悔しそうに唇をグッと噛み、膝に置いた拳を震わせた。
『それなのに……っ! 数年後、その時の子が旦那様の手を握って現れたのです。絶対に見えない世界だったから、奥様はどうにか耐えることができていたのに……っ。反対することなどできないが、自分との娘よりも娼妓との娘を大切にするのがどうしても許せないと、ずっと奥様は嘆いておられました』
知らなかった。母がそのような感情を抱いていたとは。自分が記憶している母は、何も言わず茜に対しても実の娘の自分と同じように接していた。てっきり、受け入れていると思っていたが、まさか『許せない』と言うほどの感情を抱いていたとは。
(お母様……)
母は、どのような気持ちで亡くなったのだろうか。
夫に愛されることなく、離れに追いやられ、娘の居場所を娼妓の子に奪われて。
さぞ心残りだっただろう。
さぞ悔しかっただろう。
「あなたは自由に生きなさい」――というのが母の口癖だった。
家のために強いられた結婚で、父に刃向かうことも、意見を言うことも、娼妓の子を家に入れないでと言うことも、何ひとつ彼女は自由にはできなかったのだろう。
(自由……)
チラ、と千代は雪人を横目で見つめ、そして膝の上で何かを決意するように、拳をグッと握った。
『ツルヱさん、その娼妓がいた店を覚えないかしら』
できれば、茜が本当に娼妓の子か確かめたかった。
しかし、残念なことに彼女は首を横に振る。
『そこまでは……ただ関外の花街であったことは間違いありません』
『充分な情報だわ。ありがとう』
すると、ツルヱはズッズッと膝で進み寄り、千代の手を握った。
祈るように頭を垂れ、千代の手に額をくっつける。まるで亀のようだ。
『……っどうか、千代様は幸せになってください。ツルヱは、それだけをお祈りしております。ずっと……ずっとです』
彼女も母からいきなり離され清須川家からも追い出され、苦労しなかったはずがないのだ。
雨粒のようにシミができたシワシワの手を見て、はらり、と千代の頬に一筋の雫が流れた。千代は膝に寄る、あの頃より小さくなってしまった温かで優しい亀を、そっと抱き締めた。
『ツルヱさんも……どうかお元気で』
◆
茜の話を聞き終えたレオンと東郷屋伯爵は、やはり千代達がツルヱから聞いた時のように、目を丸くした顔を見合わせていた。
「確かに、娼妓を身請けしたり愛人として囲う者はいたが、どちらも皆隠れてだ。一緒に住まわせるどころか、娘であろうと公の場に出すなどもってのほかだぞ!」
ドンッ、と東郷屋伯爵の大きな拳が卓に落ちた。乗っていた皿が跳ねて、カチャンと一瞬だけ騒がしくなる。
食いしばった並びの良い歯が、震える口の隙間から見えていた。吊り上がった眉も三角に尖った目も顎周りのヒゲまで震えていて、顔からだけでも充分に彼の憤りが伝わってきた。
「お、落ち着いてください、伯爵。あーほらっ、僕の国にもロイヤル・ミストレス(王の愛人)ってのがいて――」
「一国の王とそこらの男を一緒にするな。日本はこの間法律で一夫一婦制と定められたのだ。だからこそ、妾をもったとしても公にはせんし、表立って可愛がったりもせん。それを……っまだ娘二人を同等に扱っていたなら、ここまで怒りはせんかっただろうが、妾の娘のほうをまるで嫡子のごとくとは呆れたわ」
一度卓に落ちた拳が、またぶるぶると震えはじめる。
レオンがそっと東郷屋伯爵の前から料理を遠ざけていた。
しかし、彼の拳がもう一度卓に落ちることはなかった。ふぅーと長い息を天井に吐き出し、握っていた拳を緩めて首筋をぺちぺちと叩いていた。みるみる吊り上がっていた眉が元の位置に戻ってくる。
どうやら、頭に登っていた怒気を、口から吐き出すことに成功したようだ。
「まあ、これについては私が怒ったところで仕方ないな」
「あら、急に萎みましたね。良かったです。せっかくの美味しい料理をひっくり返されたら堪りませんからね」
「ったく、お前は……雇用主に生意気な口をきくのもお国柄か?」
「紳士なので、おべっかを使わないだけです」
はぁ、とツルヱは『やはり』というように、額を押さえ薄く長いため息を吐いた。
『まあ、当然でしょうね。そこは旦那様が一番触れられたくない部分ですから。何せ清須川家は、ただの士族家よりも横濱ではそれなりに名のしれた家でしたので、世間体というものが求められます。娼妓との娘を本家に引き取るなど、外聞はよろしくなかったのです』
『茜が……娼妓の子』
千代と雪人は、互いに息をのんだ顔を見合わせていた。
娼妓とは、昔で言う遊女のことである。江戸時代にあった遊廓は、名を変え今でも横濱に花街として点在している。
茜が妾の子というのは、表立って口にはしないが皆気付いていたことだ。
身分違いの者――平民だとは思っていたが、しかし、平民でもまさか春を売る者だったとは。
『なので、わたくしは、妾として母親を囲うのも子を養育するのも問題はないが、せめて別宅にしてほしいと旦那様にお願い申し上げたのです。公然として娼妓の娘を家に入れるものではないと』
『もしかして、それを茜が知って?』
『はい。旦那様は茜様の言うことは、なんでもきかれていましたから』
自分の生い立ちを知っているツルヱが邪魔だったのかもしれない。
茜は、生い立ちについては隠している節があったし。
『お母様も知っていたの?』
『ええ。奥様は、旦那様が特定の娼妓の元に通われているのをご存知でした。一度、奥様に頼まれ、旦那様の後をつけたことがありました。そこで、幼い茜様を抱き締める旦那様を見たのです。奥様に報告したところ、奥様は仕方ないと諦められていましたが、それは奥様とは決して交わらぬ別世界のことだったからです』
ツルヱは一度悔しそうに唇をグッと噛み、膝に置いた拳を震わせた。
『それなのに……っ! 数年後、その時の子が旦那様の手を握って現れたのです。絶対に見えない世界だったから、奥様はどうにか耐えることができていたのに……っ。反対することなどできないが、自分との娘よりも娼妓との娘を大切にするのがどうしても許せないと、ずっと奥様は嘆いておられました』
知らなかった。母がそのような感情を抱いていたとは。自分が記憶している母は、何も言わず茜に対しても実の娘の自分と同じように接していた。てっきり、受け入れていると思っていたが、まさか『許せない』と言うほどの感情を抱いていたとは。
(お母様……)
母は、どのような気持ちで亡くなったのだろうか。
夫に愛されることなく、離れに追いやられ、娘の居場所を娼妓の子に奪われて。
さぞ心残りだっただろう。
さぞ悔しかっただろう。
「あなたは自由に生きなさい」――というのが母の口癖だった。
家のために強いられた結婚で、父に刃向かうことも、意見を言うことも、娼妓の子を家に入れないでと言うことも、何ひとつ彼女は自由にはできなかったのだろう。
(自由……)
チラ、と千代は雪人を横目で見つめ、そして膝の上で何かを決意するように、拳をグッと握った。
『ツルヱさん、その娼妓がいた店を覚えないかしら』
できれば、茜が本当に娼妓の子か確かめたかった。
しかし、残念なことに彼女は首を横に振る。
『そこまでは……ただ関外の花街であったことは間違いありません』
『充分な情報だわ。ありがとう』
すると、ツルヱはズッズッと膝で進み寄り、千代の手を握った。
祈るように頭を垂れ、千代の手に額をくっつける。まるで亀のようだ。
『……っどうか、千代様は幸せになってください。ツルヱは、それだけをお祈りしております。ずっと……ずっとです』
彼女も母からいきなり離され清須川家からも追い出され、苦労しなかったはずがないのだ。
雨粒のようにシミができたシワシワの手を見て、はらり、と千代の頬に一筋の雫が流れた。千代は膝に寄る、あの頃より小さくなってしまった温かで優しい亀を、そっと抱き締めた。
『ツルヱさんも……どうかお元気で』
◆
茜の話を聞き終えたレオンと東郷屋伯爵は、やはり千代達がツルヱから聞いた時のように、目を丸くした顔を見合わせていた。
「確かに、娼妓を身請けしたり愛人として囲う者はいたが、どちらも皆隠れてだ。一緒に住まわせるどころか、娘であろうと公の場に出すなどもってのほかだぞ!」
ドンッ、と東郷屋伯爵の大きな拳が卓に落ちた。乗っていた皿が跳ねて、カチャンと一瞬だけ騒がしくなる。
食いしばった並びの良い歯が、震える口の隙間から見えていた。吊り上がった眉も三角に尖った目も顎周りのヒゲまで震えていて、顔からだけでも充分に彼の憤りが伝わってきた。
「お、落ち着いてください、伯爵。あーほらっ、僕の国にもロイヤル・ミストレス(王の愛人)ってのがいて――」
「一国の王とそこらの男を一緒にするな。日本はこの間法律で一夫一婦制と定められたのだ。だからこそ、妾をもったとしても公にはせんし、表立って可愛がったりもせん。それを……っまだ娘二人を同等に扱っていたなら、ここまで怒りはせんかっただろうが、妾の娘のほうをまるで嫡子のごとくとは呆れたわ」
一度卓に落ちた拳が、またぶるぶると震えはじめる。
レオンがそっと東郷屋伯爵の前から料理を遠ざけていた。
しかし、彼の拳がもう一度卓に落ちることはなかった。ふぅーと長い息を天井に吐き出し、握っていた拳を緩めて首筋をぺちぺちと叩いていた。みるみる吊り上がっていた眉が元の位置に戻ってくる。
どうやら、頭に登っていた怒気を、口から吐き出すことに成功したようだ。
「まあ、これについては私が怒ったところで仕方ないな」
「あら、急に萎みましたね。良かったです。せっかくの美味しい料理をひっくり返されたら堪りませんからね」
「ったく、お前は……雇用主に生意気な口をきくのもお国柄か?」
「紳士なので、おべっかを使わないだけです」


