手紙には東京の住所が書かれていた。
東京には先日の一件で良い思い出はないが、訪ねるしかないようだ。
ぶるっと身体が震え、くしゅんっ、とくしゃみが出た。
「ふう、随分と冷え込んできたわね」
朝から続くざざ降りの雨で、今日は一段と冷える。
窓に打ち付ける雨音は、トタン屋根に豆をばら撒いたように騒がしく、いつもなら微かに聞こえる階下のミツヨ達の音も今は、誰もいないかのように聞こえない。
千代は手で腕をさすりながら、壁に掛かる時計を見やった。
「あらやだ、もうこんな時間だわ。お風呂に入らないと」
ちょうど良い。風呂で身体を温めよう、と千代は入浴の準備を整え階下へと下りていった。
しかし――。
「へえッ!?」
「んんっ!?」
脱衣所で着物を脱いで風呂場の扉を開けた先には、既に先客――湯に浸かった雪人がいた。
もうもうと温かな湯気が風呂場を曇らせているが、皿のように見開いた互いの目はしっかりと、かち合っている。
『幻かな』と一瞬、現実逃避に思考が寄るが、湯気の向こうに見える雪人の太い首筋に骨張った鎖骨、広い肩幅にがっちりとした肩と逞しい腕は実に生々しく、急速に全身の血が顔へと集中する。
人は極度に混乱した場合、とりあえず叫ぼうとする生き物らしい。
「っきゃああああ!」と千代は叫びそうになったのだが、「きゃ」と口から最初の音が漏れた次の瞬間には口を塞がれ、悲鳴は「んぐっ」という変な音に変わっていた。
湯船から飛び出た雪人が、千代の口を塞いでいた。
よほど慌てたのか、口を押さえる雪人の力が強く、千代は真後ろの壁に背中を押し付けられる。
「しっ! 大声を出したらミツヨさん達が飛んでくる」
珍しく焦った顔の雪人が人差し指を口の前に立て、ヒソヒソと言ってくる。
その顔は茹で蟹のように赤い。
「さすがにこの状況を見られるのは困る……絶対に揶揄われる」
それはとても困る。一ヶ月くらいは揶揄われそうだ。
千代もコクンと頷いて同意を示すと、ゆっくりと雪人の手が離れていく。しかし、いつまで経っても、千代は雪人の顔から視線をそらせなかった。
(ど……っどうしましょう)
少しでも下を向けば、雪人の裸が視界に入ってしまうのだ。一糸まとわぬ、生まれたままの雪人の全身が。今見えている湯に濡れた首筋や肩だけでも、もういっぱいいっぱいなのに。
そして、それは自分も同じこと。
手ぬぐいを持っていたからどうにか身体の前面は隠せているが、それも心許ない面積である。動いたらどこかしらが見えてしまいそうだ。
(み、身動きが取れないわ……!)
あまりの羞恥にぷるぷると震える千代だったが、雪人はそれを寒さ故と勘違いしたのだろう。
「すまない、これじゃ風邪を引くな」
「え? ――きゃっ!?」
フッと身体が浮いたかと思ったら、雪人に横抱きにされていた。
ぶらんと足が宙に揺れる。
「ま!? ままままっ、待ってください、雪人さん!?!?」
肌が! 直に! 密着を!?
しかし、雪人はそれよりも早く湯に入れることを優先しているのか、「こんなに冷えて」とさらに強く抱き締めてくる。
頭がクラクラして、千代は声にならない声で「もう無理」と両手で顔を覆った。
誰か鼻血を吹かなかったのを褒めてほしい。
湯船まで二歩という距離が幸いした。
どうにか意識が保てている内に湯に浸かることができ、雪人との密着もすぐに解消された。
千代は、雪人に背を向けるかたちで風呂に浸かっていた。
膝を抱え込んで、できるだけ小さく身体を丸める。
「ぃ、いつの間に、お、お戻りになられたんですか……」
「今さっきだ……雨でずぶ濡れになったから先に風呂をと……」
「そ、そうだったのですね」
雨の音が激しくて、全然物音に気付かなかった。
「…………」
「…………」
視線が合わなくなったのはいいのだが、どうしても意識してしまう。
(どうしよどうしよどうしよどうしましょう!? ああ~~~~っ、どうしようっていっても、どうにもできないのに……っ)
互いに口を閉じてしまえば、水が滴る音だけがやけに響いて聞こえた。聴覚がやけに研ぎ澄まされ、ちょっとした水音でも胸が跳ねてしまう。
背後で、チャポンと大きめの音がして、千代はビクッと肩を揺らした。
「ふっ」と雪人が笑う声がした。
「そんなに警戒しないでくれ。さすがに風呂場で君を抱くような真似はしないさ。声も響くし」
ガバッ、と千代は羞恥と驚きで耳まで赤くして振り返った。
「――っそ! そんなこと考えてませんっ」
実は少しだけ考えていたが。
自分の心を読まれたかのようで恥ずかしく、千代は目尻を尖らせ、わざとはぐらかすように声を張り上げて雪人に言い募った。
そして気付く。
二人揃って「あ」と声を重ね、千代は自分の姿を見下ろした。
手ぬぐいは湯船の縁に置いてある。もうもうとした湯気は立っているが、至近距離では無意味だし、湯の色は透明だ。
「~~~っ!」
バシャンッと大きな飛沫を上げて、千代は雪人に背を向け口元まで湯に潜った。
(見られた見られた見られた絶っっ対、見られたわ……っ!)
今までにも幾度か互いの肌を見ることはあったが、それはこう……薄暗い中だし、それどころではなく意識も朦朧としているからであって、このように明々とした電球の下では決してない。
再びなんとも言えない沈黙が流れる。
胸の内側を心臓が叩きすぎて痛いし、なんならこの大きすぎる鼓動で、湯まで波打っていないか心配だった。
「融資の件だが、実はレオンに相談したんだ」
先ほどまでと違う雪人の落ち着いた声音に、千代の羞恥も一瞬で湯に溶けた。
「……レオン先生はなんと」
「紹介したい人がいると。以前の舞踏会の時にその話をしようとしたらしいんだが、二井勇一郎が来て話せる雰囲気じゃなくなって、そのままになってしまったんだと」
紹介相手の名前は、驚かせたいから秘密だと言われたらしいが、高位の華族家であることは間違いないという。
東京には先日の一件で良い思い出はないが、訪ねるしかないようだ。
ぶるっと身体が震え、くしゅんっ、とくしゃみが出た。
「ふう、随分と冷え込んできたわね」
朝から続くざざ降りの雨で、今日は一段と冷える。
窓に打ち付ける雨音は、トタン屋根に豆をばら撒いたように騒がしく、いつもなら微かに聞こえる階下のミツヨ達の音も今は、誰もいないかのように聞こえない。
千代は手で腕をさすりながら、壁に掛かる時計を見やった。
「あらやだ、もうこんな時間だわ。お風呂に入らないと」
ちょうど良い。風呂で身体を温めよう、と千代は入浴の準備を整え階下へと下りていった。
しかし――。
「へえッ!?」
「んんっ!?」
脱衣所で着物を脱いで風呂場の扉を開けた先には、既に先客――湯に浸かった雪人がいた。
もうもうと温かな湯気が風呂場を曇らせているが、皿のように見開いた互いの目はしっかりと、かち合っている。
『幻かな』と一瞬、現実逃避に思考が寄るが、湯気の向こうに見える雪人の太い首筋に骨張った鎖骨、広い肩幅にがっちりとした肩と逞しい腕は実に生々しく、急速に全身の血が顔へと集中する。
人は極度に混乱した場合、とりあえず叫ぼうとする生き物らしい。
「っきゃああああ!」と千代は叫びそうになったのだが、「きゃ」と口から最初の音が漏れた次の瞬間には口を塞がれ、悲鳴は「んぐっ」という変な音に変わっていた。
湯船から飛び出た雪人が、千代の口を塞いでいた。
よほど慌てたのか、口を押さえる雪人の力が強く、千代は真後ろの壁に背中を押し付けられる。
「しっ! 大声を出したらミツヨさん達が飛んでくる」
珍しく焦った顔の雪人が人差し指を口の前に立て、ヒソヒソと言ってくる。
その顔は茹で蟹のように赤い。
「さすがにこの状況を見られるのは困る……絶対に揶揄われる」
それはとても困る。一ヶ月くらいは揶揄われそうだ。
千代もコクンと頷いて同意を示すと、ゆっくりと雪人の手が離れていく。しかし、いつまで経っても、千代は雪人の顔から視線をそらせなかった。
(ど……っどうしましょう)
少しでも下を向けば、雪人の裸が視界に入ってしまうのだ。一糸まとわぬ、生まれたままの雪人の全身が。今見えている湯に濡れた首筋や肩だけでも、もういっぱいいっぱいなのに。
そして、それは自分も同じこと。
手ぬぐいを持っていたからどうにか身体の前面は隠せているが、それも心許ない面積である。動いたらどこかしらが見えてしまいそうだ。
(み、身動きが取れないわ……!)
あまりの羞恥にぷるぷると震える千代だったが、雪人はそれを寒さ故と勘違いしたのだろう。
「すまない、これじゃ風邪を引くな」
「え? ――きゃっ!?」
フッと身体が浮いたかと思ったら、雪人に横抱きにされていた。
ぶらんと足が宙に揺れる。
「ま!? ままままっ、待ってください、雪人さん!?!?」
肌が! 直に! 密着を!?
しかし、雪人はそれよりも早く湯に入れることを優先しているのか、「こんなに冷えて」とさらに強く抱き締めてくる。
頭がクラクラして、千代は声にならない声で「もう無理」と両手で顔を覆った。
誰か鼻血を吹かなかったのを褒めてほしい。
湯船まで二歩という距離が幸いした。
どうにか意識が保てている内に湯に浸かることができ、雪人との密着もすぐに解消された。
千代は、雪人に背を向けるかたちで風呂に浸かっていた。
膝を抱え込んで、できるだけ小さく身体を丸める。
「ぃ、いつの間に、お、お戻りになられたんですか……」
「今さっきだ……雨でずぶ濡れになったから先に風呂をと……」
「そ、そうだったのですね」
雨の音が激しくて、全然物音に気付かなかった。
「…………」
「…………」
視線が合わなくなったのはいいのだが、どうしても意識してしまう。
(どうしよどうしよどうしよどうしましょう!? ああ~~~~っ、どうしようっていっても、どうにもできないのに……っ)
互いに口を閉じてしまえば、水が滴る音だけがやけに響いて聞こえた。聴覚がやけに研ぎ澄まされ、ちょっとした水音でも胸が跳ねてしまう。
背後で、チャポンと大きめの音がして、千代はビクッと肩を揺らした。
「ふっ」と雪人が笑う声がした。
「そんなに警戒しないでくれ。さすがに風呂場で君を抱くような真似はしないさ。声も響くし」
ガバッ、と千代は羞恥と驚きで耳まで赤くして振り返った。
「――っそ! そんなこと考えてませんっ」
実は少しだけ考えていたが。
自分の心を読まれたかのようで恥ずかしく、千代は目尻を尖らせ、わざとはぐらかすように声を張り上げて雪人に言い募った。
そして気付く。
二人揃って「あ」と声を重ね、千代は自分の姿を見下ろした。
手ぬぐいは湯船の縁に置いてある。もうもうとした湯気は立っているが、至近距離では無意味だし、湯の色は透明だ。
「~~~っ!」
バシャンッと大きな飛沫を上げて、千代は雪人に背を向け口元まで湯に潜った。
(見られた見られた見られた絶っっ対、見られたわ……っ!)
今までにも幾度か互いの肌を見ることはあったが、それはこう……薄暗い中だし、それどころではなく意識も朦朧としているからであって、このように明々とした電球の下では決してない。
再びなんとも言えない沈黙が流れる。
胸の内側を心臓が叩きすぎて痛いし、なんならこの大きすぎる鼓動で、湯まで波打っていないか心配だった。
「融資の件だが、実はレオンに相談したんだ」
先ほどまでと違う雪人の落ち着いた声音に、千代の羞恥も一瞬で湯に溶けた。
「……レオン先生はなんと」
「紹介したい人がいると。以前の舞踏会の時にその話をしようとしたらしいんだが、二井勇一郎が来て話せる雰囲気じゃなくなって、そのままになってしまったんだと」
紹介相手の名前は、驚かせたいから秘密だと言われたらしいが、高位の華族家であることは間違いないという。


