一乗家のかわいい花嫁

「ご足労いただきましたのに、誠に申し訳ございません。主人は決して軽い気持ちで、奥方様にお話を持ち出したわけではございません」
「理由をお聞かせ願えませんか」
 さすがに三人が三人とも、突然話はなかったことにしてくれというのは、明らかに異常だった。
「実は、他の方にも融資をと仰っていただいていたのですが、直前ですべて流れてしまい」
 雪人は、せめてその理由だけでもと老執事に食い下がったのだが……。
「申し訳ありません。わたくしも詳しくは知らされておりませんもので」
 これと同じ状況を、千代と雪人は知っていた。
 決まっていたもの、良い流れだったものが突然覆る。これでは銀行融資の時の流れと、まるで同じではないか。
 何があったというのか。
 困惑する千代と口惜しそうに耐える雪人を憐れと思ったのか、老執事はチラッと目線だけで周囲を見回し、そして一段声音を落として話してくれた。
「数日前、土井侯爵が主人を訪ねて来られました。土井侯爵が帰った後から、主人はため息ばかりを吐き、そしてこのようなお返事を決められたのです。お二人の間で何が話し合われたのか、それはわたくしにはわかりかねますが、これ以上は理由を探られないほうがよろしいかと……」
「土井侯爵……」と雪人が口の中で呟き、視線を下げた。
 老執事は辞去の言葉と、三人分の珈琲の会計をして静かに喫茶店を出て行った。
 しかし、カランカランとドアベルの音が鳴り止んだ後も、雪人は視点を少しもぶらさずに腕を抱えて黙考し続けていた。
 そうして、やっと雪人は視線を上げると、隣に座る千代を振り向いた。
「千代、茜さんは何者だ」
 
        ◆

 雪人は、土井侯爵という言葉から、池野侯爵を含む他の二人の件も、茜が関わっていると睨んでいた。
 なぜ土井侯爵と茜が繋がるのかと思ったが、舞踏会で茜は雪人に『土井侯爵なら紹介できる』という旨のことを言っていたそうだ。
 千代は土井侯爵との面識などない。
 もちろん、その侯爵が清須川家を訪ねてきたということも、清須川製糸の出資者ということもない。だが、茜だけはなぜか彼を知っていた。
 しかも、他人に紹介できるような関係の深さでだ。
 茜が融資を妨害した証拠などないが、ここで再び茜と繋がりのある土井侯爵が、融資をやめろと口出ししてきたことが茜と関係無いはずがない。
 というのが、雪人の考えだった。

 
 妹のことはよくよく考えれば、腹違いの妹ということと茜という名前しか知らない気がする。家族ではあったが、明るくて素直すぎると思っていた性格は違ったのだから、やはり内面については何も知らないと言わざるを得ない。
 いや、内面だけでなく生い立ちもだ。
「お父様、お久しぶりです」
 千代は、実に二ヶ月半ぶりに清須川家の門をくぐった。
 実家にくつろぎに来たわけでも、遊びに来たわけでもない。千代の足はまっすぐに目的地――父親の元へと向かっていた。
 昼を過ぎたこの時間、父はいつも縁側にひとり座って新聞を読んでいる。
 千代を見た父親は目を丸くして、次に、ギュッと眉宇を険しくした。
「何しに戻った。もしや、一乗から離縁されたとかいう馬鹿な理由ではないだろうな」
「ご安心ください。一乗家の皆さんにはとても良くしてもらっていますよ。今日は、少しお父様に聞きたいことがあって来たんです」
 実の娘が帰ってきた開口一番の台詞がこれだ。
「お父様はお変わりないようですね」
 ふんっ、と父は鼻を鳴らし、新聞の続きを読みはじめる。
「茜は学校ですよね」
「ああ」
 返事はしてもらえるが、目線は変わらず新聞の文字を追っている。
 そういえば、先日舞踏会であった時も、まるで眼中にないと言わんばかりに、父とは目が合わなかった。言葉すらも交わしていない。
 昔からこうだったため、今更悲しいや寂しいなどとは思わないが、どうか他の人には同じ態度をしないでくれと思ってしまう。特に清須川製糸に関わりがあるような者達には。
 手遅れかもしれないが。
「お父様、茜は誰との子ですか」
 どうせ色々と前置きをしたところで父の機嫌を損ねるだけとわかっていた千代は、本当に要件のみを口にした。
 これには父も驚いたのか、新聞に向いていた顔がこちらを向いた。
 眉は波打ち、目は見開かれ、口角は下がっている。
 要件のみを口にしたのだが、どうやらそれでも不機嫌にしてしまったようだ。
「茜が妾の子ということは知っております。そのお妾さんは今どちらに?」
「知らん」
 父の鼻の穴が僅かに膨らんだ。
 娘から妾のことを尋ねられ、動揺しているのかもしれない。
「では、どこから茜を連れてきたのです」
「知らんっ!」
 父は、新聞をグシャリと激昂して握りつぶしてしまった。
 以前までの自分なら、これほど父を怒らせるようなことはしなかった。一度目の「知らん」で引いていた。
 しかし今は、父の感情を気に掛けるよりも、もっと大事にしたい者達がいる。その大事な者達を助けるためには、父の怒りを買っても引けないのだ。
「お父様、それは筋が通りませんわ」
「いつからそんな偉そうに私に口を利くようになった! やはり成り上がりの平民に嫁がせたからか! 下品な!」
 同じく会社を引っ張ってきた者として、どうして父と義父はこうも違うのだろう。
 確かに身分で言えば、父は士族で平民よりも上に位置するのだろうが、二人を並べた時、第三者はどちらが士族だと思うか。
 元は義理と人情を重んじる武士道精神を中心に据えてきた家系のはずだが、彼のどこに義理と人情があるのだろうか。それでも高い誇りと矜持だけは持ち続けているのは、もはや厚顔無恥とすら言えるのではないだろうか。
「茜が家に来たのは、彼女が八歳の頃でしたよね。でも、不思議なことに八歳とは思えないくらい喋りも考えもどこか大人びていて、それに大人の会話も理解している様子でした」
「…………」
「あれは、普通の家で育っていて身につくものではありません」
 父の瞼の下はずっと痙攣している。