一乗家のかわいい花嫁

 雪人が日夜忙しそうにしていることなど、社員に聞いてもわかるだろうし、関係先から人伝いで知られてもおかしくない。
「それに、私嬉しかったのよ」
「嬉しい……ですか?」
「だって、きっとひどい噂を色々聞いたでしょうに、それが私のことだってわかっても、ナリさんは少しも私を疑わなかったじゃない。サエさんは私のことを『婚家でまだ猫被ってる』って言ってたって聞いたけど、あなたはちっとも私を疑わなかったわ」
 信頼してくれてるんだなと、不謹慎ながらとても嬉しかったのを覚えている。
「そ、それはだって……奥様を毎日見てれば、誰だってわかることで……」
「うん。わかってくれるほど、私のことを毎日気に掛けてくれてありがとう」
「奥様ったら」と、ナリの表情がやっと緩んだ。
 千代はパチンと手を叩いた。
「はい! じゃあ、もうウジウジ気にするのはここまでね。元気になってくれないなら、私もナリさんと同じ顔して過ごすことにするわ。同い年だし」
「ふはっ! 同じ年だしって……歳とか絶対関係ないじゃないですか」
「あるわよ……多分」
 ナリが腹を抱えてあははと大きな声で笑うのを、千代は目尻を細めて眺めていた。
 どうやら、それで彼女の中にあったわだかまりも解けたようで、笑いを収めた後は元のナリの空気を纏っていた。
「さて、じゃあ同い年のナリさんが持ってきてくれた手紙でも見ようかしら――って、あら。結構あるのね、珍しい」
「誰からですか?」
 千代が手紙の差出人を確認していくのを、ナリが横からひょこっと覗き込んでくる。ちょっと笑ってしまった。
「レオン先生に……えっと、東……東郷屋伯爵!? それにまあっ!」
 なんと、手紙の差出人はすべて千代が先日手紙を送った者達だった。
「うっわ! これ全部華族の方々ですか!? すっご」
「ぜ、全部ではないけど……」
 そのひとつひとつに、千代は急いで目を通していく。
 どれも、千代からの手紙を喜ぶような内容だった。中には、会えて嬉しかったというような言葉が添えられており、あれほど嫌な記憶だった舞踏会が、一気に輝かしい記憶へと変わる。
「嘘……っ!」
「どうされたんですか!?」
 そして、どこから聞いたのだろうか。いや、あれだけ多くの者が集まっていた舞踏会だ。雪人も懸命に出席者と交流を深めていたのだし、話もすぐに伝わるのだろう。
 いくつかの手紙には、千代の婚家であれば、一乗汽船への融資の件も考えてみたいという前向きな言葉が書かれていた。
「融資……してもらえるかもしれない!」
「うそっ! 本当ですか!」
 千代とナリは顔を見合わせ、「良かった!」と抱きしめ合った。

        ◆
 
 帰ってきた雪人に手紙の件を伝えると、彼は手にしていた上着をぼとりと自室の床に落として、眦が裂けんばかりに目を見開いていた。
「それは……本当か……」
「はいっ」
 千代は袂から融資について書かれてあるいくつかの手紙を取り出し、雪人に渡した。
 彼は、まるで濁流にのまれながらも、やっと流れてきた藁を掴んだ者のように、しっかりとした手つきで手紙を受け取った。丁寧な仕草でひとつひとつ内容を確認していく。
 次第に、彼の疲れが滲んだ目に光りが灯りはじめた次の瞬間。
「千代、ありがとう!」
 ガバッと勢いよく雪人に抱き締められた。
 いつもの抱擁とは違う遠慮のない力強さに、彼が心底喜んでいるのがわかった。自分も、まるで彼を支える社員のひとりになれたようで嬉しい。
「これは君の優しさのおかげだ。君が今まで、顔が見えない相手でも血の通った対応をしてきてくれたおかげだ……っ」
「いえ、私だけではなく、雪人さんがたくさん頑張られたからですよ」
 いくら自分が手紙を出していたからとて、易々融資しようという者達ではない。
 実際に、清須川家への融資が途絶えて久しい者のいるのだから。
 雪人は、着替えも途中のまま手紙を持って、「知らせてくる」と和館へと駆けていった。
 新しい玩具を買ってもらった子供のような喜びように、千代は「いってらっしゃいませ」と言いながら、クスクスとした笑みに眉を垂らしていた。
「ああ……っ、これでやっと私も雪人さんのお役に立てるわ」
 年末から胸の底に溜まっていた不安が、ふっと消えて身の内が軽くなった。
 これからは、一乗家の内情が茜に伝わるようなこともないし、融資先も見つかり、彼女にももう妨害されないはずだ。
 良い年明けになった――と、この時はまだ思っていた。

        4

 三人もの人達が一乗汽船に融資しても良いと言ってくれていた。
 内容と融資額の詳細次第という条件ではあるが、一度は銀行融資の許可がおりたことを思えば、内容は問題ないはずだ。
 ひとまず、千代は申し出に甘えさせてもらう旨と、直接会って話ができればという内容の返事を書いて、三人へと送った。
 数日後、その内のひとりから返事があった。
 雪人と共に待ちわびていたとばかりに封を切ったのだが、内容は予想を裏切るものだった。
 手紙には詫びの言葉と共に、『融資の相談には乗れなくなった』と書いてあった。
 少々残念に思ったものの、突然事情が変わることなどよくあるし、申し出てくれたその気持ちだけでもありがたかったと、千代と雪人はこの手紙の内容にも納得していた。
 しかし、それから数日後、残り二人の内のひとりに電話で謝罪の言葉と、話はなかったことにしてほしいと告げられた。
 結局、無事に約束を取り付けられたのは、たったひとりだけとなっていた。
 その者の名は、池野侯爵といった。
 当初、彼の屋敷に訪ねようとしていたのだが、突然屋敷ではなく屋敷から遠い東京の喫茶店を指定された。華族が喫茶店を待ち合わせ場所にするとは珍しい。そう思いながら訪ねれば、そこにいたのは池野侯爵本人ではなく、代理だという老執事だった。
「主人より伝言を預かってきております」
 そういって、老執事が神妙な面持ちで伝えてきたのは、前の二人と同じようなことだった。