一乗家のかわいい花嫁

 サエは脱兎という言葉のように、ぴょんと石段を二つ一気に飛び降りると、そのまま雑踏へと向かおうとする。
 しかし、その背に千代が「待って!」と声を掛けた。
「ねえ、私やっぱりあなたを見たことがあるわ」
 ピタッとサエの足が止まった。
 しかし、なぜか彼女は振り向かない。ただ、後ろから見てもわかるほどに、肩をすぼませている。
「えっと、それって前回もあたしと話していたからじゃないですか」
 千代と買い物に来た時も、サエと会ったと思うのだが。しかし、千代は「いいえ」と首を横に振った。
「ねえ、もしかしてあなた、清須川家の女中さんじゃない?」
「え……」と、ナリの息が詰まった。
 清須川といえば、千代の実家だ。
 そこの女中ということはつまり、サエが今まで話していた、自分の主人をいじめる意地悪で性格の悪い嫁いだ姉というのは……。
「…………っ」
 肩越しに振り向いたサエの顔は、泣きそうだった。

        3
 
 千代が郵便局へと年賀を出しに行った日から一週間が経っていた。
 その間に世間は新年を迎え、一乗家でもゆるりとした三が日を終えたところだ。
 新年ということで、屋敷は新たな活気に満ちあふれていた。ただひとりを除いては。
 あの日から、ナリの元気がない。
 原因はわかっている。
「どうして、そこまで執着するのよ……茜」
 茜は清須川家の女中――サエを使って、一乗家の内情を探らせていたのだ。そこで目を付けられたのがナリだった。
 若いという理由で、一番用事を頼まれて街へ外出することが多かったナリ。接触するのであれば、彼女が一番簡単だろう。
 サエはナリが一乗家の女中だと知った上で、偶然を装って近付き仲良くなり、他愛のない会話から一乗家の様子を聞いて、茜に伝えていたようだ。
 きっと、サエの様子から彼女自身が勝手に『茜のため』にやったことではないと思われた。ナリに問い詰められている時、彼女の顔は青くなり目に涙をためていたのだから。


『ちょっと、どういうことよ! 本当にサエちゃんは清須川家の女中だったの!?』
 石段を走るように飛び降りたナリは、そのままの勢いでサエに詰め寄った。
『ねえってば! なんとか言いなよ、サエちゃん!』
 サエの両肩を掴み、ガクガクと力任せに前後に揺らすナリは、見たことないくらい切羽詰まっている。
『ナリさん、落ち着いて』
『落ち着けませんって、奥様! だってこの子、ずっとあたしに奥様の……っ!』
 その先の言葉を、ナリはグッと下唇を噛んで飲み込んでいた。
 以前チラッと聞いたことがある。確か、友人の女中の勤め先には、妹をいじめる性格が悪い姉がいるというような話だったと記憶している。
『あんた、奥様を見て逃げようとしたよね!? それって、あたしと奥様が一乗家の者だって知ってたってことだよね。知ってて、あたしに今まで奥様の嘘の話を吹き込んでたってこと!?』
『――っ』
 サエは苦しそうに顔をしかめて、ナリと目を合わさないようにか、ずっと瞼を閉ざしていた。
 しかし次の瞬間、ペチンッと肌を打つ音がすれば、サエの目も丸く見開いた。
 ナリの左手が、サエの右頬を打っていた。
『あたしが、どれだけ勤め先が好きか知ってるよね。あたしが、奥様のことどれだけ好きかも知ってるよね。そんなあたしに、よくも嘘とはいえくだらない話の相槌を打たせたわね』
『……っご、めんね』
 右頬に触れながら、サエが弱々しい謝罪を述べる。はらりと頬に涙が落ちる。
 髪に隠れて気付かなかったが、よく見れば彼女の左頬は丸く腫れている。ナリが打ったほうではない。それに、先ほどの力ではああはならない。ナリの利き手は右手だ。
 サエは堰が切れたようにボロボロと涙を流していた。ナリはそこでやっとサエから手を離し、『行きましょう』と言って、千代の手を強引に掴んだ。
『もう二度とあたしに話しかけないで!』
『――ッナリちゃん!』
 ナリは一度も振り向かなかったが、手を引っ張られながらチラッと振り向いた千代は、子供のように佇んだままのサエが『ごめんね』と言うのを聞いた。


 きっと、いや……間違いなく茜の指示だろう。
 サエと直接の関わりはない。確か、清須川家の女中になって三年やそこらだろう。離れ暮らしでも、やはり外に出ることはあり、その時に時々見ていたかと思う。内気そうで、黙々と一生懸命仕事をやっていた印象がある。
 そんな者が、清須川家で権勢を振るっている茜に逆らえるはずもない。
「本当……私って疫病神よ」
 あの日からナリは笑わなくなった。自分のせいで、という申し訳なさが止まらない。
 すると、コンコンと私室の扉がノックされる。
「奥様、お手紙が届いてます」
 ナリの声だった。
「いいわよ」と入室を許可すると、陰鬱そうな顔をしたナリが入ってきた。手にしていた手紙を渡される。いつもであれば「奥様、誰からのお手紙ですか。もしかして、恋文?」とか冗談を言ってくるのに、やはり今日も彼女は静かだった。
 まるで清須川家の女中のようだ。
 女中と主人。間に大きな川が流れ、絶対に互いに近付かない。そんなよくある主従のように。
「ねえ、ナリさん。もう気にしないで」
 と、言うのは何度目か。
「でも、あたしのせいで、一乗家のことを妹さんに知られて……っ」
 今回の件で、ナリを含めた女中達に、茜との確執や一乗家に嫁ぐことになった経緯をすべて話した。姉妹の問題にナリを巻き込んでしまったからには、話さなければならないだろう。桂子とミツヨも同じ被害に遭わないとも限らないし。
 話すことには、善路も雪人も同意してくれた。
 まさか、そこまでして一乗――千代の内情を探ろうとしてくるとはと、二人とも言葉を失っていた。そして、事象をすべて知った女中達も、同じように唖然とした後、烈火の如く怒っていた。
「知られたっていっても、知られても良いことばかりだったじゃない。ナリさんが話さなくとも、少し調べれば誰でもわかるようなことばかりだわ」