一乗家のかわいい花嫁

 紗江子は、清須川家の女中の中で、姉が離れ暮らしになってから雇われた女中だ。養母についていた年嵩の女中が消えたあとに入ってきた。他の女中は、元は千代についていたり、千代に関わってきたから使えない。下手な情がない紗江子はちょうど良かった。
 父が、姉よりも自分を可愛がっているのはわかっていた。
 それが父からの純粋な愛情からだとは思っていない。そこまで自分はめでたくない。
 まあでも、士族でありそれなりに横濱では名のある会社の社長家族として、迎えられたのはそこそこ良かったのかもしれない。
「お父さま、いますか」
「茜か、どうした」
 縁側で難しい顔して新聞を読んでいた父親は、茜に気付くと新聞を脇机に置き、ささやかな笑みを向けた。
 この屋敷で父がこのような顔をすることを知っているのは、自分くらいだろう。自分以外の者に向ける顔は、いつも口が山なりになっていて、常に不機嫌そうなものだ。
「立食のほうでは、色々な華族の方々の元へと行ってらっしゃったようですが、どのようなお話をされたんです?」
「……茜が知る必要はないさ。男の話だ」
 父は置いたばかりの新聞をまた、手に取っていた。
「男の話ですか……私に何か隠してません? 私のことがお嫌いですか」
「そんなことはない! お前は私が愛した女の娘だ! 大切に決まっている!」
 父が掴んだ新聞は脇机に振り下ろされ、パスンと情けない音が鳴った。
 置いたり持ったり叩いたりと、実に忙しい右手だ。
「お姉さまよりも?」
「当然だ。あれの母親は頭は良かったが、お前の母と違って可愛げがなくてなあ……千代はすっかり母親に似て育ってしまった。元より愛情など持ったことないが」
 茜は顔にこそ出さなかったものの、優越感に密かに心を震わせていた。
 そうだ。姉は自分よりも愛されず、恵まれず、下にいなければならない。
「ねえ、お父さま。男の話って、二井家が土地を売ったとかいう話ですか?」
「なんだと!? 本当か!」
「えっ!?」
 父の目がわなないていた。
「もしかして……お父さまはご存知なかったんですか?」
 茜は訝しげに眉根を寄せた。
 父の反応からするに、本当に知らなかったようだ。一瞬だが、椅子から腰が浮いていた。
 それにしても、婿の実家の情報を、婚家の主人よりも赤の他人の雪人のほうが詳しく知っているとはいかがなものか。
 晩餐会の後は、二井子爵との会話もそこそこに、すぐにホールに姿を消していた。そんなだから、二井家の話も入ってこないのではと思えた。二井子爵と父の様子を見た限りでは、不仲という感じはしなかったが、何か互いが上っ面というか。まあ、士族と華族という隔たりがある以上、被る面は相応に厚くなるだろうが。
 しかし、仲の良さなど茜にはどうだって良いのだ。大切なのは、清須川製糸の令嬢と子子爵家の親族という肩書きだけ。その二つがあれば、自分は邪険に扱われない。
「お父さま、万が一、二井家が苦しそうなら、うちから融通してあげてくださいね。私、勇一郎さまの実家がご没落したとかなったら、悲しいですもの」
「そうだな」と、父は握ったままだった新聞をおもむろに広げて読みはじめた。すっぽりと新聞に覆われ、顔が見えなくなってしまった。
「心配するな、茜。相手は華族で、それにあの屋敷を見ただろう。大方、勇一郎君に持たせるまとまった金のため、使い勝手の悪い土地でも手放したんだろうさ。よくある話だ」
「なるほど。まあ、そうですよね」
 よく考えれば、勇一郎はワンピースやショールを買ってくれたりもしていたし。気にするようなことでもないか。
 それに正直、自分と結婚するために、土地まで売ってくれたと聞いて悪い気はしない。
(結婚後は、もっと色々と豪遊できそうだわ)
「では、失礼しま――」
「茜」
 踵を返したところで呼び止められ、半身で振り向く。
「はい?」
「お前の母だが……今どこにいる?」
 依然として、父の顔は新聞に隠れている。
「……知りません」
「そうか」
 それきり父の声はせず、新聞を捲る紙の乾いた音だけが縁側で鳴っていた。
 茜も何も言わず、止めていた足を動かしその場を離れた。
(『――お前は私が愛した女の娘だ』ねえ……? そこは、『私が愛する娘』とは言わないのねえ……)
 自分が可愛がられているのは事実だ。だが、それが純粋な愛情からだとは思っていない。
 そこまで、自分はめでたくない。
 
        2

 舞踏会の日から二日が経った。
 千代は筆を置き、椅子の上で「ふぅ」と両腕を思い切り上へと伸ばす。背中からポキポキと小気味良い音が鳴った。
 朝からずっと同じ姿勢で手紙を書いており、今、最後の一枚を書き終えたところだ。
 最後の一枚を封筒に入れ、封をし、切手を貼る。切手を撫でるような手つきで貼る千代の顔は、冬の真っ只中にあって春陽の温もりに感じているような、穏やかで幸せそうなものだった。
「皆さん、お年賀喜んでくださると良いな」
 ずらりと机の上に並べられた手紙達。
 その宛先は、先日の舞踏会で挨拶をした者達だ。
 先日、挨拶させていただいたお礼を添えた年始の挨拶状だ。華族に士族、実業家と宛先は多岐に富んでおり、かつて千代が清須川製糸の名で挨拶状を送っていた先でもある。
 東郷屋伯爵含め皆が、いつも楽しみに読んでいると言ってくれたものだ。既に嫁いで清須川の名字ではなくなったが、千代個人からであれば問題ないだろう。
「さて、お昼ご飯を食べたら出しに行きましょう」

        ◆

 昼食後片付けをし、屋敷内が一段落つく時間が、いつもナリが買い物に出る時間だ。
「ええ!? ちょっとどうしたのよ、サエちゃん!」
 ナリは、いつも通りの時間に、いつも通りの商店街に買い物に来て、よく会う他の家の女中――サエと、まあまあいつも通りに出会った。のだが、サエの顔だけはいつも通りではなかった。
「頬が腫れてるじゃん!」
 サエの左頬が赤く腫れているではないか。見ているこちらが痛くなりそうだ。