一乗家のかわいい花嫁

 唇を重ねたまま、彼は体重をゆっくりと掛けてきた。次第に千代の身体は後ろへ倒れ込んでいき、テーブルに置かれていた雪人の手は、いつの間にか千代の後頭部と腰に回されていた。
 トン、とテーブルに背中がつく。
「君を手放すつもりはない」
 彼の唇は最後に下唇を軽く吸うと、そのまま顎から首筋をなぞり、鎖骨へと下りていく。肌の表面を滑る彼の唇がくすぐったく、「んっ」と鼻から甘い息が漏れてしまう。
「あの男にどこを触られた」
 肌に上で喋られ、食まれているようだ。
「……っど、こも……ッ胸元に、頬ずり、され……くらい、で……んぁッ……」
「頬ずりだけでも不愉快だな」
 雪人の熱い吐息が肌を熟れさせていく。
「……っはぁ……ぁっ」
「千代、すべて忘れろ。俺の感触だけを覚えていれば充分だ」
 当然です、と言いたかったが、喉が震えて声が上手く喋ることができない。
 肌の上で、小さく濡れた音が何度か響いた。
 そうして、谷間の深い部分で一際大きな音が立つと、やっと彼の顔は遠ざかっていく。酒酔いとは違う酩酊感に、千代はまだ起き上がれず、テーブルの上でくったりと脱力していた。
 雪人はというと、解けたままだったドレスの胸元の紐を、真剣な表情で結び直してくれていた。思わず、ぷっと小さく噴き出してしまう。
「ふふっ、私、蝶結びをそんな真剣な顔でしている方、はじめて見ました」
 大きな手が細い紐を摘まんで、細(こま)々(ごま)と結ぶ様子はどこか可愛い。
 雪人の目元がフッと和らいだ。
「そうか。これからは、飽きるくらい見せてやるよ」
 額に軽く口づけを落とされ、優しく抱き起こされた。
 床に下ろされ、テーブルに残されていたショールをグッと胸前で閉じられる。
 まだ、少し酔いが残っているが、落ち着いたからか歩けないほどではない。
「千代、なんと言われようが、俺は君がいてくれたらそれで幸せだ」
「だから」と、手を差し出される。
 彼の目が『行こう』と言っていた。
 千代は、一度深呼吸をして雪人の手に自らの手を重ねた。

        ◆
 
 ホールに戻った途端、怖い顔をした二井子爵がツカツカと近付いてきた。
 後ろには二井家の者達と、それに混じって茜もいる。
「少しいいかね」
 聞いているのに、有無を言わせぬ言葉の圧があった。
 父と同じくらいの年の二井子爵は、勇一郎と婚約した当初、一度だけ顔を合わせたことがあった。
 政略結婚と分かっていたため、特に向こうも自分に興味を示すようなことはなかった。ただ、予想以上にみすぼらしいとでも思われたのか、向けられる目に蔑みがあったのを覚えている。おそらく、嫁を取るという話だったら彼は了承していないだろう。勇一郎が婿に入るということで、みすぼらしい娘が華族家に入るわけでもなし、大目に見られた感じがあった。
 きっと彼には、息子の元婚約者だったからなどという情はない。
 顔を見るからに、責める意思しか感じ取れなかった。
「千代さん、息子にふしだらな誘いをしたようだね」
「誓って、私はそのようなことは致しておりません」
 千代は堂々と答えた。ここで下手に怯めば、嘘だと即座に判じられる。
 当然、この程度で二井子爵が信じてくれるわけもなく。
「息子からもそう聞いているし、茜さんも二人で部屋にいるところを見たと言っている。しかも……」
 彼の視線が千代の胸元に落ちた。
「ドレスがはだけていたそうじゃないか」
 思わず胸前でショールを合わせる手に力が入る。
「それは……っ」
 千代は言いよどんだ。
 相手は華族だ。自分も士族の娘ではあるが、やはりそこには越えられない壁がある。
 息子に襲われましたと言うことで、二井子爵の反感を買わないかと引っ掛かってしまった。しかし、肯定しようと否定しようと、彼の機嫌を損ねることには変わらないのだろう。
 チラッ、と二井子爵の背後に焦点を合わせれば、茜が憫笑しているのが見えた。
 また、ホールにいる大半の者は酒が入っていたり会話に夢中になったりで、まだこの異様な空気に気付く者は少なかったが、近くの者達は、何かあったのではと気づきはじめていた。
 すると、隣の雪人が胸に手を当て腰を折った。
「失礼します。夫の一乗雪人と申します、二井子爵。その件ですが私も現場におりまして……部屋に入った時、私が見たのはご子息が妻に覆い被さっている姿でした。二井子爵がお耳に入れた話は、おそらく誤った情報ではないかと。茜さんは私の後に入ってきましたので、その時の光景は見てはいないと」
「ゆ、雪人さん……っ!?」
 そんなことを言ったら、今度は二井家に雪人まで睨まれてしまう。
 二井子爵の眉宇が険しくなる。
「一乗君だったかな。つまり君は、息子や茜さんが嘘を吐いていると言いたいのかね」
 いけない。これ以上、雪人が自分を庇えば、雪人だけでなく一乗家にまで影響が出る。
「もう――」
 大丈夫だから、と苦々しい顔をした雪人を止めようとした時、場の空気を一変させる陽気な声が飛んできた。
「おやおや、どうしたんだ。全員不景気な顔をして……辛気くさいのう」
「と、東郷屋伯爵!」と、千代と雪人はやって来た男を見て、声を重ねた。
 東郷屋伯爵は、ドッシドッシと聞こえそうなしっかりとした足取りでやって来ると、雪人と二井子爵の間で足を止めた。横目で左右の雪人と二井子爵を窺う。
「それで、何があったのかな。こんなめでたい場で、そんなしけた面は不似合いだろう」
「その……彼女がうちの息子に迫ったようでして。実は、公にはしていませんが、彼女は元は息子の婚約者だったのですよ。少々素行に問題があり、彼女との婚約は破棄して、妹の茜さんが新たな婚約者となったんですが……」
 呆れたとばかりに、二井子爵は肩を持ち上げていた。
「彼女とは、千代さんのことかな?」
 チラッと東郷屋伯爵が目だけで千代を見る。
「ええ、そうですが……伯爵は彼女のことをご存知で?」