一乗家のかわいい花嫁

 彼女に怨まれるような覚えはない。むしろ、彼女のほうが全てにおいて良い暮らしをしているのだが。父親の愛情も茜にだけ注がれている。
 理由を聞こうと言葉を発しようとした時、むくっと勇一郎が身体を起こした。「いたた」と頭を撫で、気怠そうに頭を振っている。
「大丈夫ですか、勇一郎さま」
「あっ、ぁああ茜……っ!? い、いつからここに……っ」
 傍らに座る茜を見て、あからさまに勇一郎は動揺していた。
 婚約発表の日に、婚約者の姉に手を出そうとしたし、それが婚約者にバレたのだから動揺するのも当然だろう。
「つい先ほどですよ。それよりも、お姉さまに誘惑されたんですよね」
「え……ぁ……」
 茜は心配するように、ずいっと勇一郎に顔を寄せた。
 流れ落ちる髪のせいで茜の横顔は千代達から見えないが、彼女を見る勇一郎の顔は引きつっている。
「そうですよね……? 勇一郎さま?」
 言葉が上手く出ない勇一郎にしびれを切らしたのだろう茜が、再度問いかけた。
 まるで、『はい』と言えというように。
 実際には千代は誘惑などしていないしから、勇一郎が頷けないのは当然であり、彼がどう答えるかと千代達も黙して見守っていれば、彼は腕を振り下ろすようにして千代を指さした。
「そっ、そうだ! 千代が急に僕に寄りかかって、う、腕に胸を押し付けてきてそれで……! だから、ぼっ、僕は悪くない!」
 これには、千代も雪人も呆気にとられ、これでもかというほど目を見開いていた。
 元々、あまり信用できた人間ではないと思っていたが、まさかこれほどまでとは。千代は、これが自分が本来夫とするはずだった者なのか、と軽い目眩を覚えていた。強い酒よりも頭がクラクラする。
 しかし、呆気にとられていたのは千代だけで、雪人のほうは一瞬で呆れから怒りに感情を変えていた。
「ふざけるなよ……っ」
 ボソリと頭上から聞こえた、豪雨前の雷鳴を思わせる唸るような重い声に、ハッとして千代は顔を上げた。
 雪人の額に青筋が立っていた。眉は逆立ち、奥歯を噛みしめているのか、端を引きつらせた口からはギリッと軋む音が聞こえる。
 こんなに怒っている雪人ははじめて見た。
 抱き寄せてくれていた雪人の手が肩から外れたことに、千代は危険を察知して雪人の腰に抱きついた。
「駄目ですっ!」
 雪人の足は一歩、すでに勇一郎へと踏み出されている。
『挑発されても決して乗るな。下手をすると、一乗家の会社すべて潰される羽目になるぞ』――千代の脳裏では、善路の言葉が反芻されていた。
「雪人さん、落ち着いてください!」
 ここで雪人が勇一郎に手を出してしまったら、勇一郎の、茜の思うつぼだ。
 理由は依然としてわからないが、茜は自分を貶めたがっている。そこには、雪人を害することも厭わない意思があった。
(駄目……っ、絶対に茜の思い通りになんかさせない)
 雪人がこれ以上勇一郎に近付いてしまわないように、千代は力の入らない役立たずな足になけなしの力を込めて、押しとどめる。
「お願い、雪人さん……お願い……っやめてください」
 相手は腐っても華族である。
 手を出した末に雪人がどのような罰を受けるのか、怖くてならなかった。雪人と離れることになったら、自分はもう耐えられない。
 わかって、と言うように千代は腕と足に力を入れ続けていると、ふっ、と雪人からの圧が消えた。
 顔を上げると、元の優しい顔に戻っている。
「すまない……ありがとう、千代。もう大丈夫だ」
 良かった、と千代の表情もほっと柔らかくなる。
「安心されているところ申し訳ありませんが、この件はしっかりとお義父さま――二井子爵に伝えさせていただきますからね、お姉さま」
 茜の冷めた声で、千代の表情は一気に凍り付けされたように青ざめた。
「待って、茜!」と千代は叫ぶが、茜は勇一郎の腕を引っ張って立ち上がらせ「さっさと行きましょう」と足元がおぼつかない勇一郎を引っ張るようにして、部屋を出て行く。
 そうして、彼女は傍らを通り過ぎる時ボソリと呟いた。
「本当、お姉さまって疫病神ね」
「――っ!」
 息ができなくなった。
 パタンと扉の閉まった軽い音が、千代には絶望の音に聞こえた。

        6
 
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っごめんなさい、雪人さん……っ」
 千代は、涙を流しながらズルズルと床に座りこんだ。
 自分のせいで雪人に迷惑が掛かってしまう。
 自分だけならば、どれだけ馬鹿にされようと売女と思われようと、気にしなかった。
 だけど、今日という日に『妹の婚約者を誘惑した女』と二井子爵に吹き込まれてしまったら、華族にも士族にも、有力な実業家達にも広がってしまう。
『一乗雪人は、そのような女を妻に迎えた男だ』――と。
 それがどれだけ一乗家の事業にとって不利になるのか、わからない千代ではない。
 茜の言うとおりだ。
 こんなに好きなのに、愛する人の邪魔しかできない自分は疫病神と言わずしてなんと言うのか。
「雪人さん、お願いします……っどうか、私を一乗家から追い出してください……っ」
 雪人が自分のせいで不幸になるなんて耐えられないのだ。
「千代は何も悪くない」
「でも――ひゃっ!」
 腰に雪人の手を感じたと思った次の瞬間、千代の身体はふわっと浮かび、傍らにあったテーブルの上に腰を下ろされていた。
 突然のことに、千代の涙も引っ込んでしまう。
 雪人は千代の身体の両側に手をついて、視線を千代と合わせていた。
 月明かりに、雪人の黒い瞳が煌めいている。
 氷のような怜悧な光りを宿すこともあれば、ぼんぼりのような温かな光りを湛えることもある双眸が、正面からまっすぐに千代を見つめていた。
「千代以外の女なんていらない」
 返事をする間もなく、押し付けられるようにして唇が重なった。
「……っん」