早く離れたくて、勇一郎の腕を押しやった瞬間、首筋に生温かさを感じ、喉を震わせてしまった。何をしているのかと身体を捩って確認すれば、自分の首筋に勇一郎が顔をうずめていた。そして、千代の身体を支えていた腕は、いつの間にか支えではなく千代の身体をしっかりと抱いている。
「前からこうしてちゃんと着飾っていれば、少しは婚約者としての扱いをしてやったのに」
頬ずりをしているのか、背中にある生温かさが動いている。
「やめてっ! 離してください!」
「何を言ってるんだ。こんなふらふらで……少し休むべきだ」
嫌な予感がした。
千代の拒絶する声など無視して、勇一郎は彼女を引きずるようにして、近くにある部屋へと押し込んだのだった。
◆
千代が誰かに認められる光景は、とても嬉しいものだった。
東郷屋伯爵に引っ張って行かれる背中を見送り、雪人は自分も頑張らなければと、レオンと別れ挨拶回りに戻った。
少しでも融資に繋がりそうな人脈や情報が得られればと思ったのだが、世間はそんなに甘くないようだ。ましてや東郷屋伯爵が例外だっただけで、平民とわかるやいなや明らかな嘲笑を向けてくる者や、途端に表情を失くす者が多かった。
一方、実業家には平民も多く、互いの苦労話に会話が弾んだりするのだが、やはり融資となると話は別だった。
ホールを見渡せば、全体的に会話が一段落した空気があった。壁際に置かれたソファや椅子に座って、休憩している者達が多い。
「千代はまだ……かな」
千代が気になり辺りを見回していると、千代ではなく金髪の男がやって来た。
「どうしたんだい、雪人」
「レオン……千代を見なかったか? ホールにいないようなんだが」
「いや? 本当だ、いないみたいだね」
二人で首を伸ばして千代の姿を探すが、見当たらない。
「外に出たのかもしれない。ちょっと探してくる」
雪人はレオンにグラスを預けて、その場を離れた。
ホール扉へと向かう途中、ふと視界に勇一郎と茜の姿が映る。
何か二人だけで話したあと、茜が勇一郎にグラスを渡して手を振っていた。
勇一郎はそのままホールを出て行ってしまう。
(なんだ?)
雪人は眉をひそめた。
なぜ茜はホールを出て行こうとしていた勇一郎に、わざわざグラスを渡していたのか。その行動は不自然なように感じられた。
雪人は勇一郎の後を追おうとしたのだが、自分を呼ぶ声に足が止まった。
「お義兄さま」
自分のことを『兄』と呼ぶのは、ただひとり。
雪人は嫌な心を隠しつつ、今日の主役のひとりに笑顔で振り向いた。
「茜さん……二井様と正式なご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます。お義兄さまが来てくださって嬉しいです」
ふふと笑う彼女の仕草や言葉だけをみれば、ただの良い義妹にしか見えないのだが、雪人は既に彼女の本性を垣間見ている。この笑顔が心からのものとは素直に思えない。
「お忙しいでしょうから、これで失礼――」
します、と茜を躱そうとしたのだが、腕を掴まれてしまう。
「お義兄さま、会社上手くいってないんでしょう?」
雪人は目を大きく見開いて、真っ赤な紅が塗られた口で微笑む茜を見下ろした。
「誰からそんな話を」
しかし、彼女はにんまりと笑みを濃くしただけで答えない。
「ねえ、お義兄さま。私でしたら、お義兄さまの力になれると思いますよ」
「あなたが俺の? ハッ、それはあり得ない」
「そうかしら。私なら二井家と直接の繋がりもありますし、融資をしていただけそうな華族の方をご紹介できると思いますが。ふふ、皆さん、私のことを気に入ってくださって。そうですねえ……土井侯爵さまとかいかがです?」
「土井侯爵……!?」
土井侯爵といえば、貴族院の中枢に在籍し、国力増強となる分野には積極的に投資を行っている者だ。商業人の中にも彼に投資を願う者は多く、会社を大きくさせる一番の近道だと、密かに噂されている。
「具合が悪いと晩餐だけで帰られてしまいましたが、いつでも連絡をお取りできますよ」
二井家繋がりかと思ったが、彼女の口ぶりだと彼女が個人的に土井侯爵と繋がっていると感じられた。
(どうして、彼女が……)
清須川家の事業に携わっているわけでも、以前より社交を重ねていた様子もないのに。
雪人は、土井侯爵と話をできる機会が、喉から手が出そうになるほどほしかった。
しかし――。
「結構だ。こちらにも当てはあるのでね」
実際、当てなどないのだが、彼女にだけは借りを作りたくない。
「あら、残念」と、茜は腕を掴んでいた手を離し、ドレスの裾を翻しながら離れていく。
「でも、私はお義兄さまならいつでも受け入れますから。無駄な意地を張らず、路頭に迷う前にいらしてくださいね」
実に不吉なことを言う。
「では、皆様との交流を楽しんでらして」
そのまま彼女はホール扉の向こうへと消えた。
雪人はしばらく閉じた扉を眺めていたのだが、ハッとして本来の目的を思い出す。
そうだ、千代を探さなければ。
こうして茜に捕まっていた間にホールに戻ってきているかと思いきや、見回してもやはり彼女の姿はない。
(いくらなんでも、遅すぎやしないか……?)
いくら休憩に出たからといって、これほど長時間、社交の場を離れるような娘ではない。
そういえば、勇一郎も先ほどホールを出て行った。そして、今さっきは茜も。
嫌な予感がした。
雪人は足早にホールを飛び出した。
「どっちだ……っ」
廊下は左右に伸びており、千代がどちらに行ったのかわからなかった――のだが、左を見れば、先ほどホールを出て行った茜が、並んだ部屋ひとつひとつの扉に聞き耳を立てていた。
考えるより先に足が動いた。
次の瞬間、茜の顔が『見つけた』とばかりに嬉しそうに輝き、ドアノブに手が伸びた。
「雪人さん」と、千代の声が聞こえた気がして、雪人は迷わずに茜からドアノブを奪った。
◆
「前からこうしてちゃんと着飾っていれば、少しは婚約者としての扱いをしてやったのに」
頬ずりをしているのか、背中にある生温かさが動いている。
「やめてっ! 離してください!」
「何を言ってるんだ。こんなふらふらで……少し休むべきだ」
嫌な予感がした。
千代の拒絶する声など無視して、勇一郎は彼女を引きずるようにして、近くにある部屋へと押し込んだのだった。
◆
千代が誰かに認められる光景は、とても嬉しいものだった。
東郷屋伯爵に引っ張って行かれる背中を見送り、雪人は自分も頑張らなければと、レオンと別れ挨拶回りに戻った。
少しでも融資に繋がりそうな人脈や情報が得られればと思ったのだが、世間はそんなに甘くないようだ。ましてや東郷屋伯爵が例外だっただけで、平民とわかるやいなや明らかな嘲笑を向けてくる者や、途端に表情を失くす者が多かった。
一方、実業家には平民も多く、互いの苦労話に会話が弾んだりするのだが、やはり融資となると話は別だった。
ホールを見渡せば、全体的に会話が一段落した空気があった。壁際に置かれたソファや椅子に座って、休憩している者達が多い。
「千代はまだ……かな」
千代が気になり辺りを見回していると、千代ではなく金髪の男がやって来た。
「どうしたんだい、雪人」
「レオン……千代を見なかったか? ホールにいないようなんだが」
「いや? 本当だ、いないみたいだね」
二人で首を伸ばして千代の姿を探すが、見当たらない。
「外に出たのかもしれない。ちょっと探してくる」
雪人はレオンにグラスを預けて、その場を離れた。
ホール扉へと向かう途中、ふと視界に勇一郎と茜の姿が映る。
何か二人だけで話したあと、茜が勇一郎にグラスを渡して手を振っていた。
勇一郎はそのままホールを出て行ってしまう。
(なんだ?)
雪人は眉をひそめた。
なぜ茜はホールを出て行こうとしていた勇一郎に、わざわざグラスを渡していたのか。その行動は不自然なように感じられた。
雪人は勇一郎の後を追おうとしたのだが、自分を呼ぶ声に足が止まった。
「お義兄さま」
自分のことを『兄』と呼ぶのは、ただひとり。
雪人は嫌な心を隠しつつ、今日の主役のひとりに笑顔で振り向いた。
「茜さん……二井様と正式なご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます。お義兄さまが来てくださって嬉しいです」
ふふと笑う彼女の仕草や言葉だけをみれば、ただの良い義妹にしか見えないのだが、雪人は既に彼女の本性を垣間見ている。この笑顔が心からのものとは素直に思えない。
「お忙しいでしょうから、これで失礼――」
します、と茜を躱そうとしたのだが、腕を掴まれてしまう。
「お義兄さま、会社上手くいってないんでしょう?」
雪人は目を大きく見開いて、真っ赤な紅が塗られた口で微笑む茜を見下ろした。
「誰からそんな話を」
しかし、彼女はにんまりと笑みを濃くしただけで答えない。
「ねえ、お義兄さま。私でしたら、お義兄さまの力になれると思いますよ」
「あなたが俺の? ハッ、それはあり得ない」
「そうかしら。私なら二井家と直接の繋がりもありますし、融資をしていただけそうな華族の方をご紹介できると思いますが。ふふ、皆さん、私のことを気に入ってくださって。そうですねえ……土井侯爵さまとかいかがです?」
「土井侯爵……!?」
土井侯爵といえば、貴族院の中枢に在籍し、国力増強となる分野には積極的に投資を行っている者だ。商業人の中にも彼に投資を願う者は多く、会社を大きくさせる一番の近道だと、密かに噂されている。
「具合が悪いと晩餐だけで帰られてしまいましたが、いつでも連絡をお取りできますよ」
二井家繋がりかと思ったが、彼女の口ぶりだと彼女が個人的に土井侯爵と繋がっていると感じられた。
(どうして、彼女が……)
清須川家の事業に携わっているわけでも、以前より社交を重ねていた様子もないのに。
雪人は、土井侯爵と話をできる機会が、喉から手が出そうになるほどほしかった。
しかし――。
「結構だ。こちらにも当てはあるのでね」
実際、当てなどないのだが、彼女にだけは借りを作りたくない。
「あら、残念」と、茜は腕を掴んでいた手を離し、ドレスの裾を翻しながら離れていく。
「でも、私はお義兄さまならいつでも受け入れますから。無駄な意地を張らず、路頭に迷う前にいらしてくださいね」
実に不吉なことを言う。
「では、皆様との交流を楽しんでらして」
そのまま彼女はホール扉の向こうへと消えた。
雪人はしばらく閉じた扉を眺めていたのだが、ハッとして本来の目的を思い出す。
そうだ、千代を探さなければ。
こうして茜に捕まっていた間にホールに戻ってきているかと思いきや、見回してもやはり彼女の姿はない。
(いくらなんでも、遅すぎやしないか……?)
いくら休憩に出たからといって、これほど長時間、社交の場を離れるような娘ではない。
そういえば、勇一郎も先ほどホールを出て行った。そして、今さっきは茜も。
嫌な予感がした。
雪人は足早にホールを飛び出した。
「どっちだ……っ」
廊下は左右に伸びており、千代がどちらに行ったのかわからなかった――のだが、左を見れば、先ほどホールを出て行った茜が、並んだ部屋ひとつひとつの扉に聞き耳を立てていた。
考えるより先に足が動いた。
次の瞬間、茜の顔が『見つけた』とばかりに嬉しそうに輝き、ドアノブに手が伸びた。
「雪人さん」と、千代の声が聞こえた気がして、雪人は迷わずに茜からドアノブを奪った。
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